B.Y.L.M.

ACT3-scene8

ひとをやたらと餓鬼扱いしてくれる夫、がくぽからの言い分とすればつまり、南王に掛けられた呪い――決して癒えない背の傷だ――を解いたのは誰で、もしくはなにによってかということだった。

「私……か、?」

カイトは覚束ない様子でつぶやき、きゅっと拳を握りしめた。

話の流れと、当時の状況とがある。

がくぽの呪いは、カイトが口づけを与えた直後に解けたのだ。そのときも薄々とは考えた。まさか自分の口づけが、なにかしらの作用を及ぼしたのかと。

しかし口づけだ。それも、くちびるとくちびるをほんの刹那、触れ合わせた程度の。触れ合った場所こそくちびるではあったものの、いっそ挨拶という程度で表してもいいような。

ままごとも同じで、それでああまで劇的ななにかが起こる、その理屈がわからない。

確信を持ちきれないままのカイトに、がくぽははあと、ため息をついた。

「申しましたでしょう。花とは、情愛をもって力を与える存在であると。たとえば単なる儀式と思いながらも、あなたが幼い騎士の幸先を、こころから祈って与えた剣への祝福で、私が力を得たように――ましてやあのときあなたは、私が負った傷を憂い、慮ってくださった。その痛みを、苦しみを、………容易く想定できる先を読んで、嘆き、憐れみ、そして祈り願ってくださった。『癒えよ』と」

「ん……」

がくぽは確信しきって、すらすらと言う。

カイトもそれで概ね、異論はない。ただひとつ落ち着かないものがあるとすれば、そうまではっきり『癒えろ』と、考えたかどうかという程度だ。

――なにか、自分にできることはないか。

自分のために負った傷に、自分がやり返してやれることはないのか、と。

もっとずっと漠然とした思いであり、望みだった。そう思う。

気後れしたような、戸惑う気配のカイトに、がくぽは笑った。膝に乗せたカイトの背を、あやすように叩く。

だからそういった年頃ではないというのだ。

ひどく微妙な気分になるカイトだが、そもそも『あやしている』ほうのがくぽは、まるで気にしない。むしろそういった反応を返されるとさらに燃えるような、あやし方に熱が入るような気もする。

なにかが悪循環だ。

なによりも、そうも不満があるならがくぽの膝から降りればいいものを、懲りることもなく座ったままの自分だ。

動けない――動きたくない。だから動けない。

なにがどうしてという理由はまるで不明だが、こうしてがくぽに触れていることで安心する、落ち着く自分がいる。ひどい悪寒が治まるような、そんな心地だ。

もちろんがくぽの膝に乗る前、カイトが悪寒に襲われていたということはない。悪寒を治めたくて、がくぽのもとへ向かったわけでもない。だとしても――

どこかしら、相俟っていく諸々すべてに疲れを覚えざるを得ないカイトに、がくぽはわかっているのかいないのか――おそらくここまでの機微はわかっていないとカイトは踏んでいるが――、浮かべる笑みをことさらに、やわらかにしてみせる。

「花とは情の深い、強いものです。私が無為かつ無闇と乞うても力を与えてくれることはないが、私の苦難を慮れば、力を与えるにためらうことはない。未だ花をうまく育てられず、力を十二分に得ることのできなかった幼い時分には、よくその憐れみに助けられたものですが………」

言って、がくぽの笑みは苦く歪んだ。くちびるからまたも、はあとため息がこぼれる。

「まさかこの年になってまで、やられるとは思いませんでした」

どこか、カイトが今まさに抱いている感想と同じような感想を吐きこぼし、がくぽは苦虫をかみ砕くように続ける。

「そも、あなたは未だ回復しきってもおらず、言っては難ですが、花としての自覚も薄いが、私とのえにしも浅い。ほだしも結んでいない。なれば私の力が奪われることこそあれ、たまさかにも力を与えることなどないだろうと、油断しきっていたならこのざまですよ。たかが一騎士の身にすら、常態としてあれほどの力を与えてくれていたものを――なんだって考慮の外に置いたものか。まったく浅薄にもほどがある」

がくぽが罵るのは、自分だ。自覚は薄くとも確かに『花』であるカイトではなく、カイトよりも詳しいはずの、だというのに『やらかした』自分自身。

だがカイトといえば、まったく自覚もなく、そもそもことに『力』を与えた、取られたといった感覚にも覚えがない。

がくぽが自らを罵ることこそ、無為かつ無駄も甚だしいとしか思えないのだが、――

「がくぽ」

諌める調子で呼んだカイトを、がくぽは反って恨めしげな上目で見た。膝から降りようとまではしなかったが、カイトが若干仰け反って距離を稼ぐ程度には、とても恨みがましかった。

そうやってカイトを怯ませたうえで、がくぽははあと、何度めのことか知れなくなってきたため息を吐きこぼす。

「あなたはひどく弱った――言っていいなら、衰弱した状態でした。瀕死のと言っても、まるで過言ではありません。私がもう少し辿りつくのが遅く、連れだすのが遅れていたなら………ああいえ。ちょっとその先は、ええ、こうして無事に済んだ今となっても、あまり考えたくありません」

ほんとうに嫌そうに吐きだす。

心底から悔いるような気配は伝わるものの、だからこそ不思議で、カイトは瞳を瞬かせ、わずかに首を傾げた。

がくぽがつらつらとぼやくのは、カイトが未だ西方、哥の国にあったその最後のとき、丈高き塔の最上階に幽閉されていた、それのことだろう。

確かにひと月にも及ぶあれで、カイトの足腰はずいぶんと萎えた。幽閉されるに至った事情も事情だ。精神的にもずいぶん参っていたし、結構な自棄も起こした。

健康な状態ではなかったと言われるなら、ことに異論もない。然もありなんと頷く。

しかし、――『衰弱』もしくは『瀕死の』?

足は萎えた。気力も枯渇していた。

けれど食事はきちんとしたものを毎日欠かさず食べていたのだし、憂慮はあれ、夜になれば大人しく寝について、朝まで起きなかった。

生活自体は、健康そのものだ。むしろ王太子として政務に励んでいたころより、よほどに健康的であったかもしれない。

大体カイトには、南王のもとに嫁すという前提があった。触れる手、伸ばす手がまさに、人智を超えた厄災と同義である南王に、だ。

それが激しく欲し求める相手を、おいそれと喪ったり損なったりするような扱いは、あの段にもなれば決してできなかっただろう。

そういった意味で、カイトのいのちはこれまでになく優先され、全力を懸けて保護されていたとすら言える。

そこで起こしていたカイトの自棄にしても、食事や睡眠を放棄し、自らいのちを縮めるといったようなところまでは向かなかった。多少の食欲不振はあれ、その程度だ。

言ってみればがくぽは、過ぎ越した忠義をカイトに傾けるような相手だ。ほんの些細なことでも大事に捉え、あるいは大仰に表現する。

そういうことかと――

カイトが困惑とともに抱えた感想などお見通しとばかり、がくぽは表情を改めた。やや厳しい色を宿すと、つけつけと吐きだす。

「いいですか、あなたは花です。自覚あれなかれ、花である以上、私やもしくはただびとより、よほどに大地との繋がりが重要となってくる。そうでなくとも西方は全体に、地力が弱い……いいえ、違います。哥の国のみならず、西方全体が、です。あれであの量の植生が、よく耐えてあるものだと感心する程度には、ひどく弱い。砂の地方の異名は、伊達ではありません。砂地になるも疑問を持てないほど、むしろ植生があることをこそ不思議に思うほど、西方とは全体に、異様なまでに地力が弱く、低い」

厳しい眼差しのがくぽはそれでも、カイトがわずかに過らせた疑問を、言葉にされる前の表情から読み取った。

そしてつけつけした口調まま、懇切丁寧な説明を加えてくれる。

そのうえでつけつけ感を失うことなく、説教の――おそらくはそうなのだ。カイトは今、夫から説教されている――続きに戻る。

「そのぎりぎりの供給状況のなかで、さらにあれほど大地から離れた、塔の最上階に幽閉など………。南の、ことに強い原初の森であっても、あの高さではろくに地力が届きますまいよ。それで哥の国、西方ですからね――歌王はいっそ、南王に渡すくらいならと、……そこまで勘繰るほどのことですよ」

「否、がくぽ……」

最終的な言葉は濁されたものの、がくぽが言わんとしたことはわかる。

王太子の身でありながら他国の王に見初められ、嫁すなど、恥辱の極みだ。ならばいっそ、なに食わぬやりようで息の根を止めてしまえと、歌王が密かに謀ったのでは――という。

それはまた、王子として生み、王太子としてここまで育てたカイトへ、自ら決断して与えることになる恥辱から、なんとか救おうとする愛情の一片でもある。

しかしだから西方、ただびとの地であり、『花』が身近でない、哥の国だ。

カイトを含め、誰ひとりとして、南王がなにを求めているのかわからなかった。

苦心に苦心を重ね、なんとか下した判断が『嫁す』だ。

これが正確なところではないだろうとは、誰もが了承していることだった。本来的なところはきっと違うのだろうと、そうと考えながらも、それ以外にもはや手もなく、言葉もなく。

もうひとつ言うなら、そしてこれがなにより重要なことであるのだが、カイトには、自分がそうまで消耗していた記憶がない。

塔の階段下りがおそろしく困難だったのは、使わず萎えた足腰のゆえだ。たかがひと月とはいえ、若さ頼みではどうにもならないことというのは、どうしてもある。

――と、その程度だ。

もちろんこれは、がくぽにとっては不満も過ぎる感想なのだろう。

反応の鈍いカイトの様子に、厳しく改められた表情が緩む気配はない。カイトのいのちを繋ぎ留めようとするかのように、背を抱くがくぽの腕には力が入った。

「あのとき――塔の扉を開いたとき、そして内にいるあなたを見た、あの瞬間です。あのときほど、自分の未熟で、勇のなかったことを悔いた覚えはありません。花であるあなたがあんなところに篭められたなら、衰弱することは私には明白なことでした。一刻も早く、お救いせねばならぬところ………私はそれでもやはり、南王の冠被りたるあれに、どうせ敵う道理もないと二の足を踏んで、決断までの時間を、無為と費やして……」

「がくぽ」

説き聞かせていたものがいつしか悔恨に、自らへの罵り、恨みつらみへと変わっていた。

カイトは瞳を見張り、奥歯を軋らせる夫を呼ぶ。

それはがくぽだけの咎ではない。

そもそも哥の国そのものが、南王と正面きって戦うことを選択できなかったのだ。結果が目に見えていたからだ。負けると。

被害は甚大で、そして望みは叶わない。

――ならばせめて『被害』だけでも、最小限に。

国として、王としての判断に、カイトも否やはない。南王とはそういう存在だった。人智を超えたという意味で『魔』の冠を与えられた存在とは、そういう。

敵わずとも無為といのちを散らせと、言う愚かさもカイトは知っている。

なにより最前線で戦うのはきっと、カイトがもっとも親しんできた、カイトの従属騎士団だ。もっとも多く傷つき、死ぬのも。

親しい相手にわかりきった未来を、惨たらしく押しつけられる我の強さは、カイトになかった。

そこはきっと、王太子として弱かったところだ。王となって以降も、それが要らぬ苦労のたねとなっただろうが――

なにあれ、がくぽが自らを責めるのは、たとえばがくぽには『花』の知識があり、南王の求めを理解できていたとしても、違う。

結果がどうであれ――そう、結果としてカイトはこうして、無事にいる。衰弱の記憶もなく、今とて不足を抱えるでもなく。

ほとんど無意識でカイトの体が動き、両の手ががくぽの頬を挟みこんだ。考えが追いつくより先に顔が動き、そっと、夫のくちびるにくちびるを触れ合わせる。

「……っっ」

触れただけだ。それも刹那の間ほど。短く、浅く、軽い。

ほとんど蝶の羽ばたきか、さもなければ勘違いかというほどのそれだが、がくぽはびくりと大きく震えた。花色の瞳が極限まで、見張られる。

カイトにとっても、自覚の遅れた動きだった。なんの理由でこんなことをと、自分でも事後に驚いた。

驚いたし、いったいなにをやっているのかと、羞恥もこみ上げる。そういう、そこまでの間柄であったかと、いたたまれなさも強い。

時間も時間で日はずいぶん高くなり、応じて気温も上がった。そうやって焦りを募らせ火照ると、すぐに汗ばみ、汗ばんだことで焦ってまたさらにの、悪循環に陥る。

しかしがくぽの反応だ。好いた相手からの、突然の『好意の表明』に驚いたという以上のものがあった。

だからいちいち過剰反応で困ると、動揺に頬を火照らせつつのカイトの考えは、ある意味のん気なものだったらしい。

ややして片手で額を押さえたがくぽは、ほとほと弱りきったという風情で呻いた。

「だから、あなたという方は………消耗している身で、快復もしていらっしゃらないのに、ひとに与えようとするなと、与えるなと……ここまでの私の話を、なんだと聞いてっ………っ。いくら私が補充しても補充しても、すぐ二、三倍にして返されてしまっては………」

「あー……ぅんすまない……?」

相変わらず、カイトに自覚はない。が、どうやら今の口づけで、いくばくかの力ががくぽに渡ったらしい。

あんな軽い、触れたかどうかも怪しいものでとは思うが、がくぽの反応を見るに、そうなのだろう。

そもそも最前から、くり返し主張されてもいる。つまりカイトが王太子であり、がくぽがその騎士であったときだ。

カイトがそんな気もなく儀式として、形式的に与えていた――つもりの――剣への祝福ですら、がくぽは大いに力を得ていたというのだ。

あれで力を得ていたというなら、直に触れ合えばなおのこと――

そう、推測はできるがしかし自覚もなく、ゆえに反省も浅いカイトを、がくぽは額を抑えつつ顔を覆った指の隙間から、きろりと見た。流れというものがあり、カイトは少しだけ身を竦める。

多少なり、殊勝らしい態度を取ったことは良かったのだろう。カイトを睨み据えるようだったがくぽだが、すぐに立ち直り、あの、例のにこやかさを取り戻した。

一見爽やかで朗らかしく、好青年そのもののあれだ。非常に胡散臭い。

「まあ、良いです。なにがと言って、おかげで私があなたに触れる口実に事欠きません。いくらでも貪っていただくに、遠慮もしなくていい。ええ、私にとても好都合です。そこのみ、着目することにしました」

「自棄だな……そこまでか………」

はきはきと言われ、その発言内容というより、表情や口調、声音といったものに自棄を見て取り、カイトはわずかに身を引いた。

引いて、ふと思い出す。

――あなたに貪られるなら、本望だ。

昨日、青年の夫も言ったし、少年の夫も言った。

カイトに貪られるなら、本望だと。

同時にそれは、がくぽがカイトを『妻として』扱っているときのことだった。

『貪る』と、比喩的に使う。

だからカイトも、深く気にしていなかった。

が、今だ。

花というものがどういうものであり、花とひととの関わりの由縁を聞いていた。

そしてカイトからがくぽへ、すでに幾度となく、力の譲渡が行われているのだと判明し――

『花』は『地』に根づく。

植生のもののほとんどが、地に根を張り、そこから必要な養分を得て生きている。基本、あれらは地に這わせてさえいれば、特段の世話を欲しない。

がくぽも先に言っていた。『花』であるカイトにとっては、大地との距離が重要になってくると。

自覚はなくとも、そして地に根差しているわけではなくとも、カイトもまた、大地との距離が重要になってくるのだ。地から得るなにかしらの滋養でもって、この身を立てている。

ところで、庭師の仕事とは、ではなにかということだ。

花は地に根差してさえいれば、基本的には問題なく咲く。

しかしなんらかの理由により、もしくはたまさかで、滋養の低い土地であったり、水分の得難い地域であった場合だ。

枯れる率の高くなる、あるいは弱って虫などに喰われやすくなる、その悪条件を補ってうつくしく咲かせるために身を砕くのが、つまり庭師というものだ。

彼らは庭の、花の間を巡ってそのひとつひとつを丹念に観察し、耳を傾け、必要と不必要を判断して、花が求めるものを与える。

それはたとえば、失った力を補うことも――