B.Y.L.M.
ACT6-scene2
がくぽも大概、戯けているとは思うが、それ以上に自分だと、カイトは呆れていた。
今さらだと言われれば、反論もない。なにを見ていたのか、どこに目をつけていたのかという。
「……きれいだ」
がくぽの腕に抱えられたまま、カイトは息を呑んだ。
腕に抱き上げた流れで、がくぽはカイトを庭へと連れだした。
どうやらがくぽに根づいたとはいえ、しかし元来は大地に属するものたる『花』を慮り、可能な限りは外――庭で過ごさせようというのが、夫の考えらしい。
話題を引きずり、腕の上でも少しばかり悶着はしたものの、カイトに否やのあることでもない。
それで結局、連れだされ――
感嘆した。否、驚嘆した。今日の今になって、ようやくだ。
着いた当初、カイトは屋敷の内から遠目に、庭を眺めた。
そのときもうつくしいとは思ったが、同時に、想定と違う様相に虚を突かれた。しかも移動の合間にちらりと、刹那ばかり覗いた程度だ。
他ごとに気を取られてもいたから、うつくしさに驚嘆するよりは、意想外であったという印象だけが強い。
対して、昨日だ。初めて庭に出た。これ以上なく間近に、庭のなかから庭を眺めたのだ。
だからこそ今日の今となっての驚嘆は『今さら』であり、『どこに目をつけていたのか』となる。
――決して口に出しはしないが、『どこに』と問われるなら、『夫に』だ。
昨日は、夫しか見えていなかった。
カイトの生国、哥の国では『急くときこそ花を探せ』という。
ほんとうに花を探せという話ではない。つまり、花――目の前の景色すら見落とすほど気を急かし、余裕をなくしているときは、なにをどうしたところで失敗する、だからまずは気を落ち着かせろと、そういう意味の言い回しだ。
よく聞く言葉であるし、自分でひとに言ったこともあるが、まさにその通りだと、カイトは改めて実感していた。それも、たとえでもなんでもなく、そのものとして、だ。
昨日の今日だ。庭が大きく様変わりしたなどということは、あろうはずもない。
けれど昨日の庭が、花のうつくしさが、思い出せない。感嘆した記憶もなく、すべては霞がかかったようだ。遠く、紗幕を隔てて見る景色に似ている。
これほどうつくしい、煌びやかで華やかな庭であるというのに――
ある意味、雑然としてはいる。
一色のみで構成されたわけではなく、もしくは同色ごとに区分けたわけでもない。基調と定めた色があるようにも見えず、赤に黄色に青にと、雑多な色が混在してある。
丈にしてもそうだ。すべての丈が測ったように揃えられた、いかにも人工物然とした庭ではない。カイトやがくぽの背丈に並ぶほどのものもあれば、腰丈のもの、地を這うものと、これまた生態も雑多だ。
挙句、茎も葉も好きなように伸び、所によっては通り道にも飛びだして、道幅を狭くしている。
なにより、花の種類だ。薔薇園や百合園などと称される、一種のみを集わせた庭ではない。
詳しくないカイトが見ても、否、詳しくないカイトが見るからこそ、ますますもって目が回るほどの種類が植えられている。
しかも植える際の考え方は、おそらく色や丈といった配置と同じだ。同種ごとに区分けていない。
一か所に群生しているものもあるが、それはそういう生態だからという雰囲気がある。
そうやって、同じ種の群生が庭のそこかしこに点在して見られたり、あるいは一輪いちりんで誇り高く、凛として立っているなど――
庭だ。
あからさまに人工物でありながら、植生の配置は自然の状態に近い。
そういう意味では、この庭は『雑然としている』と評されるだろう。
しかし確かな調和がある。隣り合う色形、あるいは混在する種別が、互いに互いを活かし合い、補い合っているという、まさに自然のみが織りなせる、絶妙の調和が。
絶妙の域にまで達した調和によって、すべての花がただ、栄養が足りているとかそういった意味合いのみに因らず、自分の生きるべきところで生きるべき形で生きているからこその、自信に満ちて力に溢れた様相で、生き生きと咲き誇る。
小さな花も大きな花も、脇役や引き立て役はいない。否、すべてが脇役で引き立て役であり、同時に主役だ。
主役として大いに煌き、華やぎながら、ほかのなにかを殺すことがない。
決して『自然』ではあり得ない庭を、ひとの手によってこうまで『自然』に整える。
この庭に咲き誇るすべての花の艶やかさ、煌びやかさは、世話役が懸けた手間であり、思いだ。
そして、それだけのものを懸けられた、懸けられるに値するものなのだという、一輪いちりんすべてが疑いもなく、揺らぎもなく持つ、自信そのもの――
感嘆であり、驚嘆だ。
昨日の今日でこれが記憶にないなど、どうかしている。
否、実際、どうかしていたのだが、今になってその『どうかしている』ぶりが身に沁みて、改めて堪える。
「お気に召していただけましたようで」
ひと言つぶやいたきり、カイトはがくぽの首にしがみついて黙りこんでしまった。
それでも夫はその沈黙を誤解せず、正しく受け止めてくれたようだ。口調には見ずともわかる穏やかな笑みがあり、やわらかい。
「………ん」
カイトはしがみついたまま、こくりと頷いた。言葉を探すが、出てこない。
見よや見よやと伸び上がる威勢に、漲り溢れて放たれる自信に、カイトは圧倒されるしかない。呑みこまれ、失われた言葉が戻らない。
最前、がくぽが言っていた。
原初の森を抱え、ことに大地の力が強い南方に対し、西方は逆に、ことに力の失われた、地力の弱い一帯であると。ために『花』として目覚めつつあり、より以上の地力を要したカイトが飢餓に陥り、瀕死とまで追いこまれもしたと。
ひとの胎から生まれ、ひとの見た形まま植生へと変じる、前代神期の遺物、先祖返りとでも言うべきものが『花』であり、そしてカイトだ。
本来的には原初の森と旧き一族とを抱える南方にこそ、属するものだろう。
けれどカイトは西方、哥の国に生まれた。西方に生まれ、育った。
カイトにとっては弱い地力こそが常識であり、日常の感覚だった。
南方に来たのはつい最近で、その大地の力強さに安堵するというより、圧倒され続けているというのが、未だ実情だ。
圧倒されるしかない大地の力を、生まれたときから存分に得て咲き誇る、挙句、手をかけこころを懸けとして育て上げられた花が相手となればもはや、委縮するしかない。
「気になる花があれば、お連れしますが…もしくは、とりあえずひと巡りしてから、四阿に」
訊かれて、カイトは気圧されたまま、おそるおそるといった風情で庭を見渡した。
その間にも答えを待たず、がくぽはすでに歩きだしている。おそらくひと巡りしながら、カイトが声を上げたなら向かえばいいというつもりなのだろう。
「遠目に眺めるための庭ではありませんからね。お申しつけくだされば、どこなりとお運び致しますよ」
「そうなの、か?」
微笑んで告げたがくぽに、カイトは首を傾げた。つぶやくように訊いてから、一度、首を振る。
これだと、がくぽが問いを誤解する可能性が高かった。
つまり訊きたかったのは、『言えばどこにでも運ぶ』ということではなく――
「観賞用ではない――のか?」
「食用ですね」
「っ?!」
疑問に即答が返った。簡潔明瞭なひと言だ。
そしてこれは、騎士から簡潔明瞭な答えが返ってきたときの常――といえば身も蓋もないが、カイトはしばらく唖然とした。
しらりとしたがくぽの表情を眺め、それから花の咲き誇る庭へ、改めて視線をやる。
南方と西方では、植生の様態が大きく違う。カイトは教養程度に修めただけで、農業や造園業を専業としていたわけではないから、さほど詳しいとも言えない。
だから迷うところではあるのだが、この庭をぱっと見たところで、食用向きの植生帯とは、とても思えない。
否、確かに当初、カイトだとて、そう予測はした。
この庭を実際、目にする前のことだ。屋敷の外観の質実剛健さから、きっと庭に植えられているものも緊急時に備えた、食用となるものがほとんどであり、観賞用の植生は少なかろうと。
だが、屋敷の内に入ってひと目――遠目にではあったが――眺めて、違うと判断した。庭は食用の、実用の庭ではなく、観賞用のそれであると。
そうとしか見えないからだ。
だというのに、がくぽは食用だと言う。
いかに南方と西方の植生帯が違うとはいえ、これが食用なのか。これは食用になるのか。
こうまで堂々と咲く花を誇る、これらが?
唖然として言葉もないカイトに、手を掛けているがくぽの肩がぶるぶると震えた。
それではっとしたカイトが顔を戻すと、案の定だ。あの、危機的なまでの大笑寸前といった表情で、がくぽはカイトを見ていた。
「…っ」
警戒心もあらわに身を竦め、固まったカイトへ、がくぽはぶるぶると震えながら、そのくちびるをなんとか開いた。
「私とあなたの性質を、覚えておられるか。我が最愛の妻にして、花たる御方?」
「あ…」
問われて、カイトは間抜けな声を漏らした。
そうだった――すっかり失念していた。
自分のことであれ、未だ馴染みの薄い感覚ということもある。しかしてこれらの花はすべて、がくぽと、そしてカイトにとって十分に『食用』なのだった。
一般の、これまでカイトが馴染んできた『食用』とはまた、多少、意味合いや用法を異にはするが、しかし『食用』だ。間違いなく。
今朝も庭に出る前、がくぽによって与えられ、『食べ』た。悶着しつつではあったが、がくぽはカイトに『食べ』させることを忘れはしなかったのだ。
「ふっ……っ」
ふわりと頬を染めたカイトに、がくぽは小さく吹きだした。否、それで終わった。あの、危機的なまでに爆発的な大笑と転じることもなく、鎮まる。
そうとは予測していなかったカイトの、警戒に固まったままの体を、がくぽは易々と抱いて歩いた。
ゆったりとした歩調だ。それは速度のこともあるが、がくぽがこの、主張の強い花、庭の全体に、まるで気圧されていないという、余裕の顕れでもあった。
カイトひとりであればきっと、出たところから未だに動けないでいる。一歩ですら、出せない。
足が竦んで、自ら歩きだすことは難しいだろう。促されて、ようやくだ。それでも息を詰め、おそるおそると――
とはいえ、当たり前のことではある。
そもそも日常、庭の手入れをしているのは、がくぽだ。逐一に気圧され竦んでいては、仕事にならない。
それ以前に、ここまでうつくしく、気高く強い花を育てたのが、がくぽ自身だ。南方の大地の力はあれ、そう育てと導き、最終的に仕上げたのは。
がくぽには圧倒的なまでの、馴れがある。
もったいないと、逆説的にカイトは思った。
たかが花に気圧され、言葉も失い、竦んで動けなくなるというのは、非常に情けない。威張れることではないし、恥ずかしくもある。
けれど、それほどのものに出会える機会など、なかなかないというのも確かだ。
それほどのものである、この庭を――
作り手たるがくぽだけは、永遠に味わえない。
作り手として丹念に世話をし、思いをかけたがくぽは、育っていく過程をすべてつぶさに見ている。
未完成の状態から、少しずつすこしずつ理想に近づいていく――その歓びは、作り手たるがくぽだけが味わえるものだ。
けれど、突然に視界が開けるようなこの驚きは、身が竦んで動けなくなるほどの衝撃だけは、だから味わうことができない。
『それほどの』ものであればあるだけ、もったいないと、カイトはがくぽのために悔しく思う。
作り手には作り手の歓びがあるとわかっていても、この衝撃を味わえないことだけは、ひどく損だ。
そして、どうにかしてその衝撃ぶりを伝えて共有してやりたいカイトにしても、あまりに衝撃が過ぎて、言葉がないという。
きれいな、うつくしい、きらびやかで、しなやかで、うるわしい――
カイトが知る言葉の、持つ言葉の、なんと脆弱で、貧相なことか。これまでは事足りていたものが、今はいくら並べたてたところで、甚だしく不足だ。
不足だとわかりきっている一語を発することは、もはや冒涜にも等しいと、そうまで思えるからさらに、言葉は閊えて伝えられない。
――そうやって、ほとんど無言で夫に縋りつき、庭を巡るに任せていたカイトだ。
が、その体が唐突にぴくりと震えた。反射で顔が上がり、視線が巡る。
「カイト様?」
「ぁ……」
なにかに気がついたというより、思いもかけず、誰かに声を掛けられたと、呼ばれたというしぐさだ。
そして実際カイトには、『呼ばれた』という感覚があった。
ただし、なにが『呼ぶ』のかという話だ。
相変わらず屋敷にはカイトとがくぽの夫婦ふたりしかおらず、さすがに庭に出れば、蝶やそういった虫の類であるとか、鳥であるとかはいるが、それ以外の『呼び』そうな生き物となると――
足を止めて顔を向けたがくぽの、どうしたのかと問う声にもすぐには答えられず、カイトは戸惑う視線を周囲に巡らせた。
ややして、その瞳が軽く見張られる。
「あれ、……」
「ふん?」
拙い様子で、カイトはつぶやきとともに庭の一角を指差した。それは、四阿にほど近いところだ。樹木が多く、比較的涼しげな場所でもある。
首を傾げたがくぽだが、それ以上問うことはせず、ただ指差したほうへと向かってくれた。
そうやって近づくとわかったが、どうやら庭内を横切るように水路――小川をも通しているらしい。
ほんとうに小さな、正しく『小川』だ。子供でも一歩で跨げるような幅で、ただ、きちんと水は流れているし、庭内を横切っているのだ。長さはそこそこある。
樹木もあれば、小川もあるのだ。庭のなかでもことに涼しさを追及してつくられたのだろうその一角まで行き、がくぽは納得したように頷いた。
「ああ、なるほど…勿忘草ですか」
「ああ……そうだった、な」
がくぽの言葉に、カイトもまた、記憶を蘇らせていた。
ふたりの目の前にあるのは、小花の一群だ。青色の花群に、一部紫色の小花が混ざった。
青も紫も、花の中心は鮮やかな黄色で、色の対比が目の醒めるようなそれだ。
ただし目の前のものは、単純に『目が醒める』とも言えなかった。
そもそもは『一群』だ。『一輪』ではない。『群』であれば、庭内でも相応の面積を取り、主張しているわけだ。
だが、ほかの花とはあからさまに違う感があった。もうすでに萎れそうな、暑さに負けたがごとき、どこか弱々しい風情が否定できないのだ。
ほかの花が暑さにめげた様子もなく、威勢をもって伸びている分、その力弱さぶりはさらに強調され、目立つ。それも、あまりいい意味ではなく。
「哥にも、あった」
違和感を探り、カイトは首を捻りながら思いつきを口にしていく。
さほど花に詳しいわけではないから、今ひとつ、確信が持ちきれない。がくぽが自信に満ちて断言するから、そうだろうと同意したが――