B.Y.L.M.
ACT6-scene14
そういったところを踏まえてカイトは沈黙を守り、がくぽもがくぽでまた、南王を語ったときの常で、発言に含まれる毒を深くは追わなかった。
「『王の花』――現代の文法と外れますが、意味は王たる花、花を統べる王、『花の王』です。王のものたる花という意味では、ありません」
「そのようだな」
微妙に恨みがましさを含んだがくぽの念押しに、今度はカイトも即座に相槌を打った。
少しでも遅れると面倒だ。せっかく落ち着けたものが、また荒れる。一日にそう何度もなんども、同じことをやりたくない。ましてや、もはや日が沈むという、今の刻限になればなおのことだ。
もちろんのことだと肯定してやり、理解もしていると伝えたうえで、カイトは切り換えるため、素早く話を進めた。
「花に、国家という概念はないな?それともあるのか?そういえば、西方の身たる私を、南方に結びたいと望んだとか、先に言っていたか?」
カイトは『王』と聞けば、まず前提として国家があると考える。
ざっくばらんに言うなら国家とは、ある理念に基づく集団の、その縄張りだ。そして王とは、縄張りを取りまとめ、あるいは守る役として、集団の内から選ばれた立場のものだ。
花にも『王』という概念があるとして、だとするなら国家という概念、縄張り意識があるのかという。
もちろんこれらは、カイトのこれまでの常識から考えれば、ない。
が、がくぽの話を聞くだに、常識は覆されている。花は過激だ。短絡的だし、激情家でもある。なかなか油断がならない。
――といったことを踏まえて訊いたカイトに、がくぽは軽く肩を竦めた。
「多少の縄張り意識はあると思いますよ?自分の場所なんだから、おまえが生えるなといったね。ただ、……総体としての『国家』、ひとがそう定義する意識というものは、ないと考えていいかと」
言ってから、がくぽの瞳が沈む。慎重に言葉を選び、考えている風情だ。
「ご要望の書は、あとで確かにご用意いたしましょう。ほかに、お読みになりたいというものがあれば、それも、可能な限りは。しかして常に念頭に置いていただきたいのは、あれらはひとが記したものだということです。ひとが、ひとの言葉を用いて、ひとの目から見たもの、聞いたものを、ひとの範囲において解釈し、ひとに伝えるために――」
「……」
くり返される言葉はそれが念押しであり、重要な判断どころだということだ。押さえて読んでいかなければ、必要なものを誤解して受け取る可能性があるという。
がくぽも慎重な様子で言葉を紡いでいくが、カイトもまた注意深い目つきとなって、そんな夫を見つめた。
あえかに考えに沈んだがくぽだったが、長くはない。すぐにカイトへ目を向け、微笑みを返した。
「先に諳んじたなかにも、ありましたでしょう?『自らは花と称し、ひとは王と呼す』と。その花が自ら『王』と称したわけではなく、ひとがそう呼んだだけのことです。そのものの状態を見て、状況をひとの世になぞらえ、もっとも近しい意味として『王』を当てた。王として花を統べる『花』、『王の花』とね」
「……なるほど」
もっともなことではある。カイトは納得して頷いた。
そもそも、がくぽはよく花の想いを代弁はするが、それはそう感じたという程度のことだ。はっきりと会話するわけではない。そう感じた、こう受け止めた、ああだと思ったという。
付き合いも長年に渡るから、ほかよりはわかる気がするということであって、ひとと対したときのように、はっきりとした意思の疎通が可能だということではないのだ。
書に記したものとなれば、なおのこと――それはひとが、ひとの言葉でもって、ひとに伝えるために記したものでしかない。花が、花の言葉でもって、伝えなんとして記したものではないのだ。
となれば、憶測がほとんどとなろうし、あるいは誤解したままの状況も多々あることだろう。
「……ならば、おまえの見解は?おまえは、『王の花』をどういった存在だと考える?」
どのみち、がくぽも同じだ。先のくり返しだが、がくぽとても花の気持ちは察する程度であり、推測と憶測で成り立つ。
だとしてもカイトからすれば、誰がなにを目的に編んだか不明な史書より、よほどにその判断は信が置ける。
訊いたカイトに、がくぽは一度、首を巡らせた。さっと、自分が手塩にかけて育てた庭を確かめる。
手塩にかけて育て、今日、カイトと無理やりに結んだ――
「愛されているのだと、思いますよ。……こういうことは実際、表現に悩むのですがね」
苦笑しながら言って、がくぽはカイトへ視線を戻した。見つめる瞳と逸らさず、逃げることなく対して、言葉を続ける。花という異質を、なんとか歪まず曲げず、ひとの言葉に直さんと苦悩しながら。
「しかし言うなら、愛されているのだと、そう……。突き抜けて、抜きん出て、愛された存在。愛される存在。自分たちを統べるものとして敬うのでなく、尊ぶのでなく、重んじるのでなく、………ただひたすらに、他を圧倒し、自らすらも投げ打って悔いもしない、――愛するために、愛し抜く存在」
「………」
聞きながら目を丸くしていったカイトへ、がくぽは笑った。肩を竦め、言う。
「なれば、彼の花はあなたと庭を、南方の地とを結ぶために我が身を差しだすをためらわなかった。あるいは――庭は、南方の地は、あなたと結ぶこと、繋ぐことを欲した。私があなたと夫婦として、永世結ばれるを欲したがごとくね。もちろん、あれらと私のとはまた、意味を異にするでしょうが――けれど、そういうことかと。あなたを愛すればこそ、確かな結びを欲し、そして繋げた。ええ、そうですね?まさに『私』です」
どこか茶化すように締めて、がくぽはまた、庭へ視線をやった。無意識か、カイトを抱く腕には力が入る。これは自分のものなのだからと、主張するかのようだ。
カイトもまた、首を巡らせてがくぽの視線を追った。とはいえ姿勢がある。可能な限りというところで、すべてを追うことはできない。
それでも構わず庭を眺め、カイトはふと、首を傾げた。
うつくしい庭だ。夕景もまた、映える。
日の傾きを察して、多くの花が頭を垂れ、あるいは花びらを閉じた。昼間のような華やかさや煌びやかさはないが、静けさと安堵とがあって、趣き深い。
頭を垂れるという姿勢のせいだろうか、祈りを捧げる信徒の様相もあり、敬虔さにはっと目を開かれるような心地がある。
だが、そうだ。
静けさのせいなのか、力強く誇らかに開いていたものが、閉じたせいなのか――
圧倒され、委縮した、あの威迫を感じない。
一日中、庭にいた。二日目でもある。
初日は気もそぞろだったとはいえ、二日目の夕刻ともなれば、さすがに馴れただろうか。二日連続でやらかしたこともある。もはやこうなればという、自棄じみた開き直りも否定できない。
うつくしいとは思うのだ。見てもみても見飽きず、何度でも目を開かれる心地がある。
ただ、委縮がない。圧倒されて息が詰まる、威圧が。
――手触りが、優しくなった。
喩えて言うなら、そんな感じだろうか。単なる馴れとは、微妙に感覚が違う。否、いずれどうあっても、ここで日常を過ごせば馴れるものだろうが――
「……手触りが、優しくなったでしょう」
「っ?!」
掛けられた言葉に、カイトは驚いて夫へ視線を戻した。
がくぽといえば、カイトへとっくに視線を戻していたらしい。やわらかに細められた瞳と合って、カイトは再び――今度はわずかなものではあったが――驚いた。
言葉を探しあぐね、瞳を丸くして見つめるだけのカイトに、がくぽは笑う。
「どう言えばあなたの感覚にもっとも近いものかが、難しいですが……少なくとも、庭に出た当初より、過ごしやすくなっているはずです。そうですね、ええ……故郷ほどに馴染んだとはいかないでしょうが、――疎外感、ですか?そういったものは、ずいぶん緩和したのではないかと」
どうかと窺うように見られ、カイトはこくりと頷いた。
どう言えばもなにも、感じたもの、そのままを言葉に直されている。
まるでこころを読まれたかのようだった。これまでの日々で重ねた、山のような齟齬の記憶がなければ、この万能感溢れる夫には読心の能力まであるのかと、天を仰ぐところだ。
頷いたカイトは再び、視線を庭へと巡らせた。がくぽに回した腕に、無意識に力が入る。縋るに似ている。
『疎外感』。
そうだろう――ここは南方であり、カイトは西方の人間だ。人間だった。
遠く離れた場所に来ただけでも相当だが、『花』としてすら新米で、ひたすら混乱と困惑と緊張の日々だった。
なにが正しく過ちで、どれが善であり悪であり、誰が敵で味方であるものか――
すべてを一から判断し直さなければならない日々のなかで、『庭』とは、南方の花とは、未だカイトにとって判断のつききらない位置にあった。
受け入れていいのか、受け入れてもらえるのか。
庭に出た瞬間に感じた威圧は、向けられたものを判断しかねたカイトの混乱そのものだ。
そう、カイトこそが受け入れきれず、弾いた。おそれから一歩引いたがために生じた溝であり壁であり、隔てるなにかだ。
似ている感覚を言うなら、外ツ国の市場に、ぽつりとひとりで放りだされた、そのときの感覚だろうか。
見馴れない風景に聞き慣れない言葉、知らない風習や理解できない習俗に、呑まれ竦む、あの感覚。
そして今やカイトはひとではなく、ひとの見た形のままでも、『花』だ。庭に咲くあれらこそ、自分にとっての同胞だ。
カイトがひとのままであればおそらく、庭から――咲く花から、あれほどの威圧は感じなかっただろう。
『庭に出た』とは、『花に囲まれた』とは、知らない国の馴染みなきひとの間に、突然放りだされたに等しいことだったのだ。
そして今だ。否、同郷の花たる勿忘草によって、異郷の庭との仲立ちを受けた、そのあとからだ。
ここは異郷だ。目新しいことばかりで、馴染まないことも多い。
けれどもはや、呆然とするばかりではない。わからないと、委縮するばかりでもない。
ここにはカイトを知るものがいる。
カイトが知るものが、カイトを慕うものが、――
咲き開いて、あるいは莟んで、ここにいる。
庭に、野辺に、大地に。
「そう、か…」
小さくつぶやき、カイトは浮かせていた身を夫へ戻した。怯えたようにも見えるしぐさで肩に顔を埋め、きゅっとしがみつく。
「カイト様?」
なだめるように抱き返しつつ、訝しげに呼ばれ、しかしカイトは黙って首を振った。横だ。肩に顔を埋めたまま――なんでもないと言うようでもあるし、聞いてくれるなと懇願するようでもある。
どちらであれ、がくぽはそれ以上、カイトを急かすようなことはしなかった。ただ、抱く腕にだけ力をこめてくれる。
きつく抱かれて安堵の息をこぼし、カイトは笑った。
頑固なまでに肩に顔を埋めたままで、過保護な気質の強い夫に見られなかったのは幸いだった。そういう、笑みだった。
あえかなものだ。苦く、鼻の奥がつんと痛む。
今さらだと、カイトは笑う。笑いながら、堪えて瞼を落とした。きつく、きつく閉じる。
――私は、『花』だ。
カイトを初めて『花』と呼んだのは、南王だ。
カイトは『花』であれば、自らの傍らにて咲くようにと。
いったいなんのことか、どういうことかと、いくら問いを重ねても、南王に説明はできなかった。否、そもそも、問いの言葉が届かない。
人智を超えたという意味で『魔』の冠を与えられた南王に、人智の内にあるものが届けられる言葉はなく、得ることもできず、ただひたすらに、悪戯に齟齬を重ね、無為と時を過ごし――
カイトは『花』であり、そのなかでも特殊な、出現の稀有である『王の花』であったらしい。
ならば南王は、カイトがひとの身から『花』へ、綻ぶころを察して手を伸ばしたのだろう。綻びかけたところでそうと察したものか、カイトが生じたときからそうと見ていたものか、それは不明だ。
そして、どちらでも変わらない。
南王が手を伸ばしたのは、カイトが確かに花として綻んだときであり、それ以前ではない。
結果は今だ。
カイトは南王の手の内でなく、その息子――ほかの十一人のきょうだいと同じく、いずれ喰いきる気であった、唯一残っていた子のもとにいる。
だからとカイトは、南王に抗する切り札として囲われたのではない。ただ初恋を捧げるべく、こころから愛おしまれる妻として――
そういったふうに、これまでカイトは漫然と『そうなのだろう』と判断していた。
他方から呼ばれ、あちらこちらから伸ばされる手によって、あるいは自身の体に起きた変化のいくつかによって、『そうなのか』と、他人事のように。
判断だ。
あくまでも、『判断』に過ぎない。
理解はしても、表層のものだ。深層から理解したときの納得はなく、それとの間には常に薄い紗幕が下りて、隔てられているような状態だった。
考えてもみなかったところに易々と男を受け入れ、これまでしていた、せざるを得なかった、ひととしての食事や生活が不要となり、萎えない足が、それでも動かなくなり――
ひとではないのだと。
ひとではなくなったのだと。
ひとでなくなり、『花』と変じたのだと。
言葉を重ね、時を重ね、経験を重ね――
それでも、今ひとつ実感が持てずにいたそれが、今、ようやく腑に落ちた。納得し、身に沁みた。
ひとではない、花への共感によってだ。
受け入れられたことが、その直前の感覚の意味が、はっきりとわかったがために。
『わかる』とはどういうことかということが、ようやく芯から理解でき、納得したがために――
無意識域に留まっていたそれを、初めて意識にまで上らせた。意識した。自覚した。
花だ。
ひとではない。
花だ。
誰に言われるまでもなく、伸ばされる手があるためでもなく、ただカイトは、そうだからそうだ。
「わたしは、花だ………」
つぶやきとともに、カイトのきつく閉じた瞼から、それでもひとしずく、涙がこぼれた。
由来は、知らない。