B.Y.L.M.
ACT8-scene13
カイトはただ、呆然としていた。愕然と、思考も身動きも、なにもかもを止めていた。
止めていないのは生きていること、ただそれだけだ。
対するがくぽのほう――気難しい年頃の少年といえば、すぐに動きを取り戻した。悶え転がっていた格好から起き上がり、身にまつわりつく草葉などを、さっと払う。
昼の――未だ朝だが――日中に見るのは、久しぶりの容貌だ。夜に、暗いなかであると、幼さというのは際立って見えるものらしい。
今まで感じていたほどに、少年の顔は少年ではなかった。
けれど、青年でもない。
決して、青年ではあり得ない。
少年だ。
「ぁ……?」
「…」
ようやく掠れた声をこぼしたカイトに、がくぽはうっそりと瞳を向けた。まるで嫁いだ当初のように、激情を押し殺して思いつめ、追いこまれて追いつめられ、きれいな花色は翳って昏い。
青年の瞳ではない。
少年の、幼く、あまりに一途な瞳だ。
「――、…」
なにか言いかけて、くちびるを無為と空転させ、――結局、言葉を思いつけなかったのだろう。がくぽはくちびるを引き結ぶと、ふいと目を逸らした。
見据えた先は、南王だ。未だ、草や蔓に鎖された。
がくぽは片手を上げ、日除けでもするように目にかざした。
否、日除けではない。単にかざしたのではなく、手のひらを内に、人差し指を上瞼に、中指を下瞼に当て、すでに開いている目をさらに押し開くかのようなしぐさを取る。
「♪」
閊えるものの多さに開ききれない咽喉が、微妙に潰れた声でうたを紡ぐ。多少、潰れていてもうたに聞こえ、それであってもどうにか、効果は発揮される――
うたに聞こえる韻律の言葉だ。力を使う際に唱える。
がくぽは当てた指で片目を押し開いたまま、王たるなかの王でありながら、大人しく繋がれるに任せている南王を見た。
次いで顔を上向け、空を――弧を描くように動かして、屋敷を覆う天を辿る。
「………なるほど。宣言通り、一面を覆ったのか…それも、ああも緻密に………」
つぶやきは、ため息とともに吐きだされた。ため息に紛れるほど小さく、そうとはっきりわかるほどの悔恨を含んで。
以前にも、がくぽが同じしぐさをやるのを見た記憶が、カイトにはあった。確か、一時的に視覚を補強するものだったと覚えている。
カイトからすれば万能感すら醸す夫は、しかし南方にあっては最弱とされる。
おそらく南王であればなにをせずとも自然と見ている景色が、見える『力』のかたちが、がくぽにはそのままでは見えない。呪術を用いて補強してやらなければ並ぶどころか、近づくことすらできない――
それでなにを見たかという話だが、がくぽは瞼から手を離すともう一度、カイトを振り返った。
何度見ても、少年だ。青年ではない。
日は朝の、昇り差しとはいえ、けれど昇ったというのに、こうまで明るいというのに、カイトの前にいるのは少年だ。
明るい日のなかにあっても吸いこむように、闇すら明るいほど昏い射干黒の巨大な翼もなく、まるで飾るように頭の両脇にあった、捻じれ曲がった巻き角もなく、――
ひたすら、少年だ。
美貌の優れることは青年に勝っても劣らず、ただし未だ男を宿しきれない年頃であるために、どうしても少女めいて見える。
愛らしく、いとけなく、カイトが慈しんだ少年だ。夜の、夜にしかいないはずの。
今は昼の、青年の領分であり、まだまだ始まったばかりの時間であったはずだというのに。
「ぁ……っ」
「…っ」
それ以上、声とならず呆然としきるカイトに、がくぽはくっと、くちびるを噛んだ。噛んで、うつむき、顔を上げる。
翳る花色が、なお強いものを宿し、ひたとカイトを見据えた。
ああそうだと、カイトは思う。
嫁いだ当初、この夫ときたら、隠しごとの宝庫だった。どうしてもと想いを募らせて娶ったカイトを相手にも、ろくに口を割ろうとしなかったのだ。
後ろめたさと後ろ暗さとを山のように抱え、自業自得ではあるのだが、それを返されて傷つくことも多かった。
けれど幼い夫は、カイトをまっすぐ見ることを決して、ためらわなかった。
カイトをまっすぐ見ることを、決して止めようとはしなかった。
幼い夫はいつでも、カイトをまっすぐと見た。
何度傷つき、何度傷つけられても、うつむくのは束の間で、すぐと瞳は上げられる。常に想いは、まっすぐ、一途に、ひたむきに、――
ああ、そうだったと、カイトは思う。
ほだされ、癒され、愛おしまずにはおれなかった。
愛おしさを募らせ、溢れさせずにいることは難しかった。
この夫だ。
この夫こそが――
「ゎた、し……は」
「カイト様」
空虚と化したカイトのくちびるからこぼれかけるものを、少年は掬い、遮った。瞳は開いていてもなにも映さないカイトを、昏く沈んでも揺らがず、まっすぐと見る。
「――剣を。あなたの敵を、首を、掻き取って参ります」
告げる声に迷いはなく、ためらいもなかった。力強さがあり、頼もしさがある。
こんな小さな体で――青年よりよほどに華奢な体つきで、未だカイトを満足に抱き上げることもできないというのに。
青年に感じられなかった信頼が、少年には置ける。
カイトは言われるがまま、ただ言われたからそうする動きで、膝の上に置いていた剣を取った。抜き身であっても構わず、柄と、刃先とに手を添え、両手でもって捧げる。
がくぽはすぐに、取った。青年よりひと回り近く小さな手が、しっかりと柄を握る。
『馴染む』。
剣と同体となっているカイトは疑いようもない自分のこととして、感覚を受け止めさせられた。
馴染む――少年の手は、これ以上なく、剣に馴染んだ。カイトが自らの夫のため、身を尽くして鍛えた剣に、まさに正しく馴染んだ。
カイトが夫のために、カイトの夫のために、鍛えた剣だ。
カイトの夫のための。
『今のままでは、勝てない』。
つい直前まで抱いていた確信の、本能的なその拠りどころを、カイトはようやく知った。
今のままでは――青年の、昼の彼では、勝てない。
まぜものの、呪われもののままでは。
花は本能的に真贋を分け、虚実を判じ、真偽を定め、情理を介さず裁く。
相手の都合も構わない花の行いは、ときにひどく独善的だ。苛烈であり、容赦もなく、短絡的とも映る。
本能的であるとは、本能で生きるとは、そういうことだからだ。苛烈で、容赦なく、あまりに――潔い。
それでは社会の成熟しようがないと、理性をこそ重んじたのはひとの世、後代神期の神から連なる氏族であって、前代神期ではそれで、世界を成り立たせていた。
世界の初めとは、そういうものだった。
『花』は、前代神期に生じた。本能の時代だ。
『王の花』は、前代神期に生じた始祖の力をもっとも強く還し、蘇らせる。
本能に因るがゆえに、不可能はないとまで言われた時代の、曲がることなく強くつよくつよく、ひたすらただまっすぐと、強い力を。
剣を取ったがくぽは、立ち上がる。軽く、ひと振り――感触を確かめ、柄を握る手に力が入った。
確信を抱いている。
握る手の強さに、流れこむ想いに、カイトの胸には歓喜が溢れた。
夫が、カイトの鍛えた剣を握り、力強い確信を得てくれた。夫が、カイトの夫が、――
未だ衝撃から立ち直れず、思考も動きも固まったままだというのに、ようやく生きているばかりだというのに、いったいどこから湧き出す想いなのか。
いったいなにに由来する、誰の歓喜であるというのか!
南王へと向かいつつも、がくぽは首だけ、カイトへ振り返らせた。
「カイト様、草どもを引かせてください。先に見ましたが、あれの言う通りでした。万全を期してのこととは思いますが、屋敷に張った結界はもとより、あれを鎖す草にまで、『あなた』が入り組み絡んでいる。このままでは、あれもおいそれとは動けないでしょうが、俺はもっと動けない。万が一にも『あなた』を引き千切り、掻き切るなど、ご免です。常態のままでは、俺の<目>は弱い。あなたとあなた以外とを、見切れない」
「謙遜が過ぎるぞ、貧愚たる末の息子よ。汝れが弱いのは目のみならず、すべてである」
まじめくさった様子で、南王が口を挟む。
――まじめくさったとは言ったが、おそらく南王は本気で、そしてまじめくさっているのではなく、芯からまじめなのだ。
これまでカイトが見てきた限り、南王は謀ることも図ることもするが、基本的にはまっすぐ過ぎるほどにまっすぐだった。苛烈であり、過激であり、あまりに割りきりが良い。
まるで花と同じ、前代神期の生き様そのままに――
だとしても、だからどうなのかということだった。だからなんだという。
カイトはなにも考えられなかった。なにも思えなかった。夫に関わること以外、なにも、なにひとつとして。
その夫が求めたからというだけで、カイトは口を開いた。密やかに、声が流れる。
否、それが声として発されていたかどうか、実はわからない。どちらであっても構わないからだ。
「お引き、おまえたち――私の夫が戦う。妨げることなく、害を被ることなく、お下がり。私の夫はやさしい。避けておあげ。私の夫が十全なる力でもって、こころおきなしに戦えるよう」
応、おう、と――
不自然に急激に伸び、動いて南王を鎖していた草や蔓が、やはり不自然でしかなく、時間を逆戻すかのように引き、沈む。
同時にカイトは、南王の存在がひどく『遠く』なったことを感じた。
つまり、距離があるわりに、小さなぼやきがよく届くと、まことなる王の声とはこういうものかと思っていたが、からくりはこれだった。
南王を鎖す草に『自ら』をも絡めていれば、そこにある『耳』が、本来届かないほどの声も逐一拾っていただけという。
道理で、カイトが神経を尖らせた言葉もがくぽは聞き取れず、流すはずだ。
まさに南王が呆れ、がくぽが憂いたとおりなのだ。
カイトはほうぼうに力を加え、補強するのみならず、自ら自身をも分けて、命運を繋いでいた。あちこちに、いのちをばら撒いていたのだ。
未熟もあるだろうが、王の花たる自身を懸けることこそが、もっとも南王には効くと本能的に読み取ればこそ、意識もせず。
「やれやれ…」
ようやく身の自由を取り戻した南王はそう嘆息し、手を伸ばした。いつの間にか空手となっていたそこに、ふいに剣が生じる。
剣を掴むと、南王は感触を確かめるかのようにくるりと回した。
くるりと回し、足元の瓦礫を穿つ。
きんと、鋭い音がして、剣は瓦礫に軽く割り入って、突き立った。
「疲れた」
つぶやきに、がくぽは腰を落とし、足を引いて剣を構えた。
「であれば、退け。もとより招いてもない」
けんもほろろの末の息子の言葉に、南王は眉を跳ね上げた。呆れ返ったという様子で、幼い末の子を見る。
「そうはいかぬ。水の季節ぞ。民草も動けば、王たる我れの時も取られる。なにより諸侯諸族が動く。今よりほかに、時はない」
「では、死ね」
取りつく島もないとは、このことだった。がくぽの選んだ言葉もだが、取った態度もだ。
吐きだすや、がくぽの足は軽く、地を蹴った。翼の助けはない。ただの足技でもって、がくぽは南王へ突進する。
ただの足技でも、速かった。まるで滑るように、なめらかに、猛獣というより猛禽の狩りの動きで、がくぽは南王へ肉薄した。
刃がぶつかり合う、肝が縮む音が鋭く響き、重なり、くり返される――
音を、カイトは遠く、とおく、とおく、聞いていた。