And They all lived Together
考えれば考えるほど、深みに嵌まる。
しかしカイトは考える。なぜかといえば、考える時間があるからだ。考える時間、余裕、暇――そういったものが、今のカイトには与えられている。
そういうのはほんとはあんまりいらないんだよなと、カイトは思う。
「まあ、――そうだな。メイコあたりであれば、お主は直感のイキモノゆえそんなものは不要と、賛同しそうではあるが」
含み笑うように、がくぽが応えた。
今のがくぽはソファへ鷹揚に体を預け、座っている。そういった態度と物言いとだけを取ると、カイトに意地悪でもしているようだ。
が、少し離れた床にクッションを抱いて座るカイトへ、がくぽが向ける眼差しは、ひどくやさしい。幼子を見守る慈父のごとくだ。
否、そうではない。
だから、カイトだ。胸に抱いたクッションに半ばまで顔を埋め、視線はナナメで、若干、拗ねた態度の。
この、『拗ねた』態度がポーズであれ、本気であれ――
少なくとも『そういうふうに振る舞ってみせた』、そう振る舞うことを選択した。選択させた。カイトに、他ならぬ、がくぽが。
でありながら、がくぽはソファへ鷹揚に体を預けたままで、床に座りこむカイトへ手を伸ばさない。
リビングがさほど広くないとはいえ、今のカイトとがくぽの距離とは、それなりのものだ。互いに手を伸ばし合ったとしても、簡単には触れ合うことができない。
そういう距離を空けて、保ったまま、がくぽは拗ねたようなカイトを微笑ましく眺めている。
見るだけだ。
手を伸ばさず、膝に上げず、胸に抱えこまない――
強引に目を覗きこまれ、まるで赤ん坊のようにあやされ、なだめられるということがない。
あるいは喘がされ、悶えさせられ、有耶無耶に丸めこまれて誤魔化されるということが。
がくぽはソファに身を預けたまま微動だにせず、――まるで磔にでもされたかのように、縫い止められでもしたかのように、ソファへ身を預けたまま。
カイトはひとり、床に放り置かれて、それで、――
そうやって強引にあれこれとされることがないので、『余裕』がある。時間がといえばいいのか。つまり暇だ。
妙に持て余す時間があるので、カイトはつい、考える。この直前まで、自らを嵐の中の木っ端よろしく振り回してくれた男のことを。
たとえば、そう。
以前であれば、こういったことはできなかったよな、この男は、――とか。
この手の比較はやらないほうがいいと、カイトもよくわかっているのだが、だから時間があるのだ。肝心の男が、『拍子抜け』するための時間を与えて寄越す。それでつい、比べる。
以前――記憶をうしなう以前のがくぽ、カイトの初めの恋人であった男は、こういったことはできなかったよな、と。
こういった、自らの狂奔する愛情まま振り回し過ぎた恋人との間に、適切な距離を設け、ひと息つかせてやるということが。
だからと、以前のがくぽには思いやりがなかったとか、気配りができなかったということではない。
以前も以前でがくぽも問題は認識しており、懸命の努力でカイトを自らから――愛情の激し過ぎる恋人から『守ろう』とは、していた。
ただ、努力が実を結ばなかっただけだ。
以前の、記憶をうしなう前のがくぽは、どうやってもカイトを放り置くことができなかった。すぐと手が伸びて、カイトを抱き寄せ、膝に乗せる。あるいは腕に抱え上げ、もしくは自らの下に組み敷き――
繊細に組まれた緻密に過ぎるプログラムが、裏目に出るのだという。
愛した相手であればあるほど、『神威がくぽ』という機体は精神バランスを崩し、保ちたい制御をうしなう。
機体的な弱点がこれでもかと出ていたのが、以前の――カイトの初めの恋人であり、記憶をうしなう前のがくぽだった。
それでもカイトは構わなかった。そういう男だと認識し、理解したうえで、恋人となったのだから。
もしかしてそれは恋情ではなく、がくぽの勢いに呑まれ、流されただけではないかと訊かれたなら、カイトは否定しない。
『がくぽ』は否定してほしいようだったが、カイトが否定したことはない。それはカイトの中で意識されていない問題ではなく、確かにそうと、わかりきっていたことであるからだ。
神威がくぽとは、とにかく激しい男なのだ――カイトにとってはということだが。
ゆえに『流されただけ』と言われるなら否定せず、そうだねと頷いたうえで、カイトは最後、こう答える。
――それで、それが、なに?
神威がくぽとは、激しく、挙句、ひどく弱い男だ。カイトを愛した程度のことで、精神バランスを崩した。
カイトは知っているうえで、呑まれ、流されることを許容した。
この男になら、呑まれ、流されてもいいと、カイトは決めたのだ。
カイトが、決めた。
だから、こう、訊き返す。
――それで、それが、なに?
もちろんこれは、あまりいい答え方ではない。メイコなどにはよく叱られた。もう少しちゃんと、考えなさいと。
そう、あの当時、メイコはカイトへ『考えろ』と叱りつけることのほうが多かった。
恋人の激しさに呑まれ、流されて、カイトがろくに考える時間も持てていないと、お見通しだったのだ。
今は違う。
今は――
こうやって、余計に、余計なことを考える時間が、ある。考え過ぎるほど、過ぎて考える時間が。
だからメイコの叱り方が、『あんたは直感のイキモノなんだから、考えるんじゃないわよ』になる――
「俺は、お主はもう少しぅ、考えたほうがいいと思うゆえな。止めやせんぞ。存分に考えろ」
やはり含み笑うように、がくぽが言葉を重ねる。
がくぽは誤解していると、カイトは思う。メイコのこともだし、カイトのこともだ。
がくぽが思うほどにはカイトは考えなしではないし、であればこそメイコも、考え過ぎるなと止めるというのに。
だからほんとうに、こういうのっていらないんだよなと、カイトはクッションを抱く腕に力を入れて思う。
カイトはいらないと思うのに、がくぽは与える。
記憶をうしなう以前にはやりたくてもできなかったことができるようになって、だとしてもカイトはいらないと思うのに――
そもそもこの『考える時間』は、がくぽが負った傷の深さを示すものだ。
記憶をうしなった。
精神バランスを崩し、制御を失うほど愛した恋人を、まさか忘れたという――
『覚えていない』以上は伝聞情報にしか過ぎないそれを、がくぽは取り戻せない記憶の代わりとばかり、自らに刻んだ。深い、ふかいふかい深い、傷として。
あまりに深い傷が忸怩と痛むことで身の自由が奪われ、あるいは制限されればこそ、がくぽはカイトから手を離せる。
生きる『速さ』の違うカイトにひと息つく間を与え、思考が整うまで、放しておいてやれる。
そう、カイトに与えられる時間とは、がくぽの『痛み』と引き換えのものだ。
カイトが過ぎるほど考える時間を与えられるということは、それだけがくぽが痛みにのたうち回っているということ。
がくぽが自らに刻んだ傷が、それだけ深いふかいふかい、深刻極まりないものであるという――
このマゾ男めと、だからなおさらこんな時間、いらないんだと、カイトは舌打ちしたいような気持ちで思うのだ。
祈るように、希う。早くこの時間が――がくぽが痛みにもがくこの時間が、早く終われと。
「考えて、考えてかんがえて、かんがえて――」
「…たって、しょーがないっ。もっ!かんっ、がえても、かんがえても、かんがえても――っ」
まるで暗示でもかけるかのように唱えるがくぽに、カイトは涙声で叫び返した。クッションに半ばまで顔を埋めたまま、恨みがましい上目で、がくぽを睨みつける。
「ふか、み、に、はまって………くるしぃ。し、つらい。も………っ」
のどが詰まって声が閊え、カイトは一度、くちびるを引き結んだ。
クッションに埋めているから表情の詳細が見えないとはいえ、頑固な気配はきっと、がくぽにも伝わっただろう。
がくぽは、笑う。
まるで磔にでもされたかのようにソファへと身を預け――
指先ひとつ、動かしもできないまま。
ただ、笑う。
仕方なさそうに、仕様がないと、ただ、笑うことだけはできるから、笑う。
「それでもな、俺は考えろと思う。考える時間が足らなかったのではないかと、疑うゆえな。お主がもう少し考えれば、『俺』が『ちがう』ということは、わかったのではないかと………『ちがう』とわかっておれば、もしや、選ぶ道も違ったのではないかと」
「って、なる。だけ、だもっ!」
笑えるから笑うだけの笑いを浮かべる男の言葉を最後まで聞くことはなく、否、もとよりまるで耳にも入れず、カイトは押し被せるように叫んだ。
「も、やだっ!」
叩きつける。否定の言葉だ。そんな言葉こそ、カイトはがくぽに与えたくない。
与えたくないが、過ぎて考えたがために、溜まり溜まったものがある。積もり積もって、もはや内に押し止めておけないものが。
「………そうか」
がくぽは、静かに受ける。浮かべるのは、やはり笑みだ。多少の翳りは宿して、しかし笑み。
カイトは対照的に、今にも泣きそうな表情で、泣くのを懸命に堪えて、そんな男を睨みつける。
「すきって。――好き。って………」
小さくしゃくり上げ、カイトはまだこぼれていない涙を拳で拭い、瞳に押し戻した。瞬きをくり返して散らし、揺らぐ男を、恋人を、なんとか映す。
「がくぽ好きって。しか、ならなぃ。んだ、も………っ。いつ、なに、かんがえても………あ、おれ、ほんとがくぽ好きって。こまった。からはじめても、おこった。から、はじめても………あ、おれ、ほんとがくぽ好きって」
「…っ」
がくぽの顔からようやく笑みが消え、戦慄したにも似た表情がカイトに向けられる。
が、がくぽを睨みつけていても、カイトにはそういった変化を読み取る余裕はまるでなかった。油断するとこぼれそうな涙を押し止めるので精いっぱいであり、とてもではないが、様子をつぶさに見るなどできない。
「今まで、知ってたことも………おはしの持ち方、キレイ。とか。食べるの、も。口あけてごはん入れるの、みんなと同じ。はずなのに、すごく、キレイ。なんだって……知ってたのに。前だって、今だって、変わらない。知ってた。のに、考えたら、考えただけ………」
「カイト」
「好き。しか、ならないっ!」
がくぽがなにか言いかけたが構わず、カイトは癇癪を起こしたように叫んだ。
すぐに拳を握り、きつくきつく拳を握り、激情を押しこめる。溢れたい激情が押さえこみきれず、体は震えた。震えて、ふるえて震えて、――
「………もしか、して、………マスター。と、おんなじくらい。それより、ちょっとだけ。………がくぽのほうが。……すき。――かも。って」
言っている自分にすら聞こえるかどうかの声で吐きだし、カイトは口を噤んだ。一度は上げた顔をクッションに埋め直す。
くるしくて、つらい。
くるしいのは、クッションに顔を埋めたからではない。きつくきつく、顔を埋めるからではない。
溺れられればいいのにと、カイトは恨みがましく考えた。
溺れられれば、いっそ――
「かんがえたら、かんがえた。だけ………深みにはまる、も。もぉ、くるしぃ。し、つらい………から。ぃや。も、かんがえた。く、ない。がくぽ、好きすぎて、おれ、おかしぃ。これ以上、好き。に、なるの――こわい、も」
がくぽはしばらく、凝然とカイトを見ていた。見ているだけだった。ソファへ鷹揚に身を預け――磔にでもされたかのように、身動きも取れずに。
投げ出したに等しい、その指先が、やがて動いた。
痙攣するにも似た動きで、がくぽの明確な意思に因るとは言い難い。しかし、今まではどれほど意思を費やしてもささやかにも動かなかったものが、動いたのだ。
「………」
がくぽはそんな指先に、軽く、視線をやった。しばらく見つめてから、自らの意思でもって、深く、深くふかく、ソファに身を預ける。
「まあ、――こういうことは、本来、言うべきではない。言ってはならぬことだが……」
天を仰いで、がくぽは瞼を落とし、花色の瞳を隠した。
「記憶をうしなって良かったと、初めて、思ったな。初めて、自らを赦せた――赦してしまったな。迂闊にもほどがある。しかしさでなくば、俺はお主に時間をやれず、お主は想いを深められなかったろう?もし深められたにしても、ずいぶん時間が要ったか……うん、『好き過ぎてこわい』?俺はお主のほうが余程におそろしいわ」
「がくぽ」
「なるほど、メイコの言うことに一理あった。業腹だがな。お主にあまり、考えさせ過ぎるものではない――深みに嵌められるのは俺だ。お主に考えさせぬは、俺のためだな、むしろ」
「……………」
なにを言っているのかこの男はと、胡乱な目を向けるカイトへ、がくぽは笑って返した。笑いたいから笑う、そういう笑みで、カイトへ笑いかける。
指先が、痙攣するように震えた。
「来い、カイト――来てくれ。お主の重みがなければ、俺はもはや、指の一本も自由にならぬ。情けない男よと、謗ってくれて構わん。俺の膝に乗って言う分には、いくらでも」
「……………」
だからなにを言っているのか、この男はと――
非常に胡乱な目を向けてから、カイトは一度、瞼を落とした。クッションに顔のすべてを埋め、上げる。
こういう男だ。
カイトは知っている。
こういう男だ――『神威がくぽ』という男は。
カイトの恋人である『神威がくぽ』とは、こういう男なのだ。
こういう男を、恋人として愛すると、決めた。
カイトが、決めたのだ。
そして今や、当初『決めた』以上に、カイトはがくぽが好きだ。自分で自分に引くほど、いやになるほど、ひたすらに好きだ。
考えれば考えるほど、決めた以上にずっと、カイトはがくぽが好きだった。もはや『好き』という言葉だけでは、まるで足らないほどに。
だから――
「そんなの、いわない。まぞっ」
眉をひそめ、思いきり顔をしかめてやって言い放ち、カイトは腰を上げた。
跳ねるように立って、ほんの数歩。
笑えて仕様がないからこそ、こころの底から笑う男に、恋人の膝に、組みつくように乗り上げた。