第1話-【いづれの御時にか】
「っの、っぎゃ、わっ?!」
カイトが堪えきれず、あられもない悲鳴を上げたのは、背後から勢いよく『大型わんこ』に伸し掛かられたうえ、ばっくりばっくんと耳に咬みつかれたからだ。
――補記すると、『咬みつかれた』とはいえ程度は『甘噛み』であり、傷はおろか痛みもない。そして『大型わんこ』とはつまりがくぽ、カイトと同じ芸能特化型ロイド/VOCALOIDシリーズ神威がくぽのことである。
で、この大型わんこもといながくぽといえば、体格差や膂力差諸々、要するに力に物言わせ、背後から組みつき抱えこんで自由を奪ったカイトの耳をはぐはぐはむはむちゅっちゅくちゅーと、説明どころか挨拶もないままひたすら、とにかく舐めしゃぶりたくっていた。
自由だ。
もちろん、ヤられる方は堪ったものではない。ナニがといって、
「んっ、ぁ、や………っ、ゃ、あ、や、っっ」
――ナニがといってだからつまり要するにアレだ。アレ、そう、
「ゃあん……っっ、から、ヤだっ!って、いってるのがくぽぉおおおおおっっ!!」
ちょっとばかり迂闊にも『あんあん』もとい、『にゃんにゃん』言いかけてしまったねこにゃんこ、もしくはカイトは叫ぶと、背後のがくぽに渾身のぬこぱんちをお見舞いした。
さらにこれも補記しておくなら、肌は朱に染め上げ、涙目で、腰砕け寸前の状態での、トドメぬこぱんちである。威力の方向性である。
案の定で、吹っ飛ぶどころか顔をちょっと仰け反らせた程度の大型わんこは、顎に当てられた手でぐいぐいと押し離されつつも、懲りない真顔で訊いて来た。
「もしかして誘ってるのか、カイト?」
「にゃにがっ?!」
余裕綽々のがくぽに対し、カイトは毛を逆立て、きしゃあふしゃあと懸命の威嚇を吐き出す。しかしてしっぽはお股に隠れ気味だ。なにしろ大型わんことねこにゃんこの対決だ――もちろんここら辺の表現は比喩というものだが。
しかし概ねフィルター不要でそうと見える攻防をくり広げつつ、カイトはどんなにがんばってもがんばっても一向に離れる様子のないがくぽを、きっとして睨みつけた。
――まあ少なくとも、カイトの主観上の話では、ということだ。『きっとして』、『睨みつけた』のだ。
「……やっぱりカイト、誘って」
「にゃに言ってンのかわっかんないってか、がくぽっ?!ナニ用?!ナニしたくてナニしてくれてるのっ?!」
実のところカイトは、今がくぽに手を離されてはまずい状態ではあった。先にも述べた通り、腰砕けなのだ。これは比喩ではない。甘噛み耳の絶大なる効果というものだが、ためにカイトはがくぽに背後から抱えられて、ようやく立っているに近かった。
そこのところがわかっているのかわかっていないのか、しつこくカイトを抱えこんで離そうとしないがくぽといえば、ごく無邪気な様子で首を傾げ、躊躇うことなく答えた。
「カイトが煙草ヤメろって言うから止めたら案の定で口寂しくて居ても立ってもおれないから元凶カイトに責任を取らせようと思って取らせている」
「悪びれないっ?!」
否、わかっていた。わかっていたが、こういう手合いであると、わかっているのだが――
くり返すが、がくぽはごく無邪気な様子だった。無垢とも言い換えられる。しかしてどのみち、この行為に対する反省は皆無だ。
愕然と叫んでから、カイトはくしゃりと顔を歪めた。
「おれっ、俺っ、はっ……!あんなの、がくぽに、いくないからって……だからヤメロって、心配してっ……!」
「だから止めただろう」
ぐずぐずべそべそと半泣きでこぼすカイトに、がくぽは間髪入れず答えた。さすがに腕の力も声のトーンも、和らげている。
悄然と項垂れるカイトの頭に甘えるように頭を擦りつけ、額を肩口に埋め、がくぽはため息のように続けた。
「ヤニで部屋が汚れるとか、煙たいのが厭だとか、副流煙で自分の健康がとか、………あとは、まあ、流行?世の中の流れ的な?――とか、とにかくそういうことじゃなくて、俺のイメージとか、俺の健康とか、『俺』のことを心配して、カイトは言ったから………だから俺だって、カイトの言うことを素直に聞いて止めることにして、止めたんだ、煙草」
「っじゃあ」
抱えこまれ、擦りつかれて不自由なまま、カイトは精いっぱいに顔を上げた。首を捻って、肩口の甘えるつむじを懸命に見る。
そんなカイトにずりりと擦りつき、甘えながらつぶらな瞳を覗かせた大型わんこは、大変無邪気に言いのけた。
「けど、思った以上に口寂しくって、堪え難かったんだもん」
「『もん』っ?!」
いい年をした男がとか、そもそも『神威がくぽ』の商業イメージ的にどうなのかなど、この『語尾』についてさまざまな思考がカイトの中を過ったが、やはり最終的な結論はこれに尽きた。
「だだっこ?!」
目を剥いて叫んだカイトに対し、がくぽといえば、気後れすることもない。さあこれで説明責任は果たしたからもう良かろうとばかり、顔を上げるとばっかり口を開け、またもやカイトの耳を――
「や、ゃあん、あ………っから、ヤめろったらこのおばかぽーーーーっっ!!」
「ん゛ーーー」
想定の範囲内、予測の範疇で決まりきった結果というものだが、またもや顎を押さえられてぐいぐい離され、がくぽは至極不満げな声を上げた。
カイトの足はがくがくだ。もはや先よりも絶対的に、ひとりでは立つことも覚束ない。がくぽがうっかり手を離せば、カイトはへたへたと座りこむだろう。
だから甘噛み耳だ。耳の甘噛みだ。ひとには因れ、カイトはだめだった。無理だ。ナニがといって、
「俺の口寂しさは紛れるし、カイトだって気持ちいいし、なにが駄目なんだ」
「わるびれ……っわる………っ!」
だからわかっていた。わかっているのだ、こういう手合いであると、非常によく、重々にわかっていたことではあるが、がくぽに反省の色はまるで皆無だった。
いや、これは反省どうのという問題ではない。問題は根本的な価値観のずれだ。
つまりの要するにで、単なる友達同士で耳を甘噛みするというのはいかがなものなのかという、それも煙草を止めたから口寂しいという理由で、成人として設定されている同士の男同士のナニという関係でもない同士が――
「ぁく、ぁく、ぽ………っ」
「………仕方ないな」
わなわな震え、まともな言葉にもならなくなってきたカイトに、いかに価値観のずれが大きい相手であっても、察するところはある。
がくぽは言葉どおり、非常に仕方なさそうに、残念極まりないといった風情で渋々に折れ、耳の甘噛みに戻ろうと奮闘していた力を抜いた。
応じて、カイトが顎に当てていた手も外れる。
が、がくぽが諦めたのはあくまでも耳、『耳の甘噛み』だけだった。
膝が震えてまともに立てないカイト、体格的に多少の差はあれ、同じ成人男性としてそれなりの重さはある、しかも今は自分で自分を支えきれないという二重三重に重みのある相手を片手で軽々抱え、がくぽは離した片手をカイトの顎にやった。
束の間の油断に緩むカイトの首を軽く捻らせて自分へと向けると、にっこり、それはもうにっこり、それはそれはもうにっこりと、大変無邪気に笑った。
「そんなに耳が厭なら――キスでも構わないよ?キス1回。で、耳は諦めて上げる。どうする?」
「はぇ……?」
――果たしてそれは等価交換となりえるのか。否、そもそも根本的問題の解決となっているのか。
がくぽの言葉があまりにも異次元的過ぎて理解できず、カイトは追いつかない処理がありありとわかる、きょとんとした表情を晒した。
言ってみるならそれは、あまりにも無防備に過ぎたし、無警戒も甚だしかった。
ひけらかされる相手の隙を、見過ごしてくれるがくぽではない。モチーフコンセプト:SAMURAIの『神威』シリーズであっても、そういったところでこの『がくぽ』に、武士道精神的なものは一切持ち合わせがなかった。
にっこり笑ったまま、ぽかんきょとんとするカイトの顎をやわらかに撫でる。
「1回だ。1回だよ?それで耳は諦めて上げるけど、厭なら耳だ。今度は絶対諦めない。どうする?考えるまでもないと思うけど……だからいいよなそうだよな1回なんだから1回だし、そうでないと耳を絶対諦めないで好きなだけはぐはぐはみはみされるんだし比べようもないなこれはそうだろう?」
「ふぇ、あ、う……?」
句読点の間もないほど立て板に水とまくし立てられ追いこまれ、カイトの目が回った。
『同じ』VOCALOIDとはいえ、実際のところカイトとがくぽの間には、スペックの低い旧型と⇔スペックの高い新型という、大きな隔たりがある。
そしてスペックの低い旧型であるKAITO――カイトは、一時大量の処理をひどく苦手としていた。
苦手とした結果、どうするか。
放り出すのである。
もちろん余程のことであれば、さすがに放り出さない。
が、他人から見てどうであれ、カイトは今の状況を『余程のこと』とまでは判断していなかった。少なくとも、苦手の処理を無理を押してまでやる必要があるとまでの状況とは。
だからカイトはいつも通り、考えることを投げて放り出し、頷いた。
「いっかい、だ、もん……ね?うん。………だったら、まあ………?いい?………か、な……?」
――そうとはいえ、詐欺も一歩寸前の曖昧な回答ぶりだったが、頷いたことに変わりはない。肯定し、がくぽの提案を容れたことに。
そしてがくぽといえば、付けこむ隙を見逃すような相手ではなかった。たとえそれが、髪の毛一筋ほどのかそけきもの、あえかなものであったとしてもだ。
がくぽはにっっっこりと笑みを満面に、目を回すねこにゃんこに顔を寄せた。
「やっぱり、な?カイト………誘ってる。よ、な………」