8-セージの葉巻

「え、ちょっとちょっと、カイトちゃ……って、カイトちゃん?!」

未だに慌てるあまり、言葉が戻らないカイトはしぐさだけで強引に、有為哉を今、自分が整えたクッションソファに座らせた。

抵抗するにしきれず腰を落とした有為哉だが、珍しくも落ち着かない様子できょろきょろと、意味もなく視線を彷徨わせる。

「ね、ちょっとカイトちゃ……コレ、だめじゃないこのクッション、ハニーがカイトちゃんに買って上げたなかでも、いちばんイイヤツ……」

「んーっ!」

有為哉の戸惑いを聞かず、カイトは再びリビングをきょろきょろと忙しなく見回し、とてぽてと小走りに行って戻って来た。

手にしているのは、有為哉がリビングで愛用している膝掛けだ。やわらかな感触で軽いが、保温効果は高いという。

持って来たそれを落ち着かず腰を浮かせる有為哉にふんわり掛けると、カイトはその前に膝をついて座った。やはり落ち着かずに彷徨う有為哉の手を取り、とろんと笑って見上げる。

「いうちゃん、あかちゃん……いつ何月おたんじょうび、いつ?」

「……っ!」

「ああ……」

「あー…」

――つまりニンフたんもしくは妊婦である女性の体を気遣ったうえで、カイトは話を続けようとしたのだと、がくぽに八桂月のみならず、ここに至って当人の有為哉もまた、悟った。

帰って来てからずっと、有為哉は立ったままだった。

ことに意味はない。ここ最近の体の怠さ他、諸々の不調と思っていたことの理由がいい感じに判明し、少しばかりはしゃいだ。結果、あまり疲れを感じない状態だったのだ。

もちろん感じなくとも感じないだけであって疲れは『疲れ』としてあるから、おそらくこの興奮が落ち着いた頃に、どっと来る可能性は高い。

それでも今は感じないから――

感じなくともある疲労と、今はまだ平らで、違和感もない腹部にすでに宿るものと。

束の間言葉を失った有為哉に構わず、カイトはとろとろに蕩けきったやわらかく甘い表情で、握った手にほんのわずか、力を入れる。

「あのね、俺ね、いうちゃんがラクなように……お手伝い、いっぱいする。から、いってねおそうじとか、ごはん作るのとか、なんでも……ひとりで病院行くの、タイヘンな日とかも、あったら、おしえて。俺、ついてく。マスターの代わりに、荷物持ち、させて?」

「カイトちゃ……」

「でね、俺、お手伝いだけじゃなくて……べんきょも、するね。にんぷさん、なにがタイヘンで、ツライのかとか、食べていいものとか、ダメなのとか。初めは、わかんないこと多いし、いうちゃんタイヘンかもだけど、ちゃんとべんきょするから。ぜったい、ラクさせて上げるから……待ってて?」

「かい……っ!」

甘いのは表情や声音だけでなく、その言うこともだ。

呆然と力の抜けていた有為哉の手に力が戻り、カイトの手を握り返す。

一瞬で、握った手を振り解くと、有為哉は自由になったそれをがばあっと広げ、カイトをぎゅぅううっと力いっぱい、抱きこんだ。

「ぃやぁああんっ、ナニコレ天使ぱないッぱない天使ッ!!ちょ、もう、カイトちゃんカイトちゃん天使ぃいいっ!!なにこのかわいいイキモノ現実?!ハニーきいた?!みた?!勝ったぁあああッ!!」

「『聞いた』じゃなくて『来た』、いや違ぇわツッコミどこ。おい、なんで微妙にユリウス入ンだよ。勝ったってナニにだ。むしろおまえ負けてンだろカイトに」

興奮最高潮でカイトを抱きしめ、かいぐりぐりぐりと頬を擦りつけ頭を撫で回しとしながら叫ぶ有為哉に、八桂月は軽く肩を落とした。

落としたのは肩という体勢だけの話ではなく、どことなく体に入っていた力もだ。

彼女が今日、どこになんの目的で出かけたのか、八桂月はちゃんと理解していた。そのうえで、この男はこの男なりに、ある程度わかっていたとしても、緊張して結果を待っていたのだ。

そして想定通りの結果が報告され、しかしそれは『結論』、物事の終わりを告げるものではない。これから始まることの、いわば宣戦のようなもので、新たな緊張を孕む。

その、肩に入った新たにして余計な緊張を、おっとりほんわりと溶かしていい感じに宥めてくれたのは、カイトだ。カイトの、相手を思いやる甘ったるい言動だ。

有為哉も癒されたらしいが、恩恵はもちろん、八桂月も被った。

「ああでも畜生、同意だ。なンであんなぱねえかわいい天使なんだあいつ。ぶッてるわけでもなく天然で天使って、存在が奇跡過ぎンだろカイト。ロイドが生き物かどうかじゃなく、存在が奇跡に天使過ぎて生き物なのかどうかわかンねえわもう」

ぶつくさとつぶやきつつ下がり、八桂月はチェストに腰を預けた。小さく息を吐きながら、胸ポケットを探る。習慣で、つまりほとんど無意識のしぐさでしかないそれで、八桂月は煙草の箱を取り出し、軽く底を叩いて一本、飛び出させた。

「………おい」

「間違いは誰にでもある。理解しているから、たとえおまえだとしても、僕も一度は鷹揚に赦そう?」

八桂月の手ごと、煙草の箱を潰したがくぽの瞳はいつもの、どこかあたたかみを持つ甘い花色ではなく、冷ややかに凍えきった冬の湖、軋み啼きながら命を啜る氷の色だった。

緩んだ気ごと、警戒心的なものもお留守にしていた八桂月の目の前にいつの間にか迫っていたがくぽは、やはり緩んでいたからこそ可能だった潰した煙草の箱、それを握る八桂月の手から、ゆっくりと自分の手を離した。

意図を探る瞳で見つめる八桂月をひたと見返し、がくぽは滴る毒にも似て、とろりとくちびるを開く。

「マスターは、妊娠した。マスターの胎の子の親は、おまえだ」

「………」

「二度はない。おまえに関して、僕は本来あまり、鷹揚ではないからな」

「………………」

低く抑えた声で、説いて聞かせるように一語いちご、がくぽは言う。

八桂月は黙ったままそんながくぽを見つめ、次いで、自分の手の中にある、潰れた煙草の箱を見た。

まだほとんど吸っていない。開けたばかりの代物だ。

それに潰したとはいえ、破裂しただの分解しただのということはないから、火を点ければまだ吸える。

「ふン」

八桂月は鼻を鳴らしてから、未だ霜つく、軋んで啼く氷色の瞳で静かに佇むがくぽに視線を戻した。軽く、首を傾げる。

「あンな、がくの字。たまに思うンだけどよ……おまえ普段、ぶッてンの、疲れねえか」

言うのが、これだ。

がくぽはぴくりと眉を跳ね上げ、ひくつきながら八桂月を睨みつけた。いわば正統的に、未だ寒くとも綻びかけた花色の瞳で、だ。

「はあ?!なんだそれ失礼な誰がブってるっていうんだ僕のどこがぶりっこだと?!」

「いやまあ、そういうな………、ああうんいや、なるほど」

一度は言葉を探すように視線を泳がせた八桂月だが、そう考えるまでもなく結論は出たらしい。がくぽの問いに答えるというより、単なる独白めいてつぶやく。

「相手見てってことか。無理してるンでなきゃあ、いいわ」

つぶやいて、がくぽが反応するより早く、自分の手に握り潰されたままだった煙草の箱を投げた。ことに狙いを定めたようにも見えない、軽く手首のスナップを利かせただけに見えたそれだが、潰れた箱は鋭く、なによりもきれいに、ゴミ箱に入る。

「ハチミツ」

不審げに呼ぶがくぽに、八桂月は気負うでもなく、肩を竦める。

「いい機会だ。おまえも禁煙したっつうしな。俺もするわ禁煙」

「………」

言いながら、胸ポケットに入っていたライターも出し、チェストの上に置く。

喫煙の害はあれこれ言われているが、ことに妊婦相手には厳しい。

有為哉はまだ妊娠四か月、受動喫煙ですら、胎児への影響が大きい時期だ。

だからこそがくぽも、思考を介さない無意識の、習慣となっていた行動を取った八桂月を諌めた。

無意識で他意のない行為でも、断罪されるべきものは必ずある。それがたとえば、一度や二度のことでしかないとしてもだ。

ましてやこの結果が出るまで、今朝までは、なんの対策も取っていなかったのだ。せめて気がついた段階から、早めに対応したい。

それに対して八桂月が出した答えは想定を上回る朗報だったはずだが、がくぽの表情が晴れることはなかった。

不審さを消さないまま、軽く首を傾げる。

「僕にできたことが、ハチミツにもできるとは限らない。簡単だとは」

「あン?」

なんの忠告かと眉を跳ね上げる八桂月を、がくぽは臆することなく見返した。

「僕はロイドだ。タールは影響するが、ニコチンは効かない。喫煙歴も短いが、中毒症状も軽いからな。決めたらできる。が、ハチミツは人間だ。ニコチンが効く。中毒症状があるかないかは、禁煙成功率に響くだろう」

「ぁああ……?」

当然の理と、むしろ淡々と説くがくぽに、八桂月はさらに眉をひそめた。

くり返すが、残念三白眼で、プラスすることの他部品でも補った挙句、ちょっとばかり道を逸れやすい顔つきである八桂月だ。それこそ片足どころか、両足を突っこみかけていたところだった――カイトとの出会いがなければ完全にどっぷりと、そちら方面に就職していた可能性がまるで否めないという。

ために、そうやって軽く眉をひそめただけでも、たとえば幼子であればひきつけを起こしながら泣き出しそうなありさまなのだが、そういえばこの男はこれから父親に、幼子を育てる立場になるのだった。

さすがに生まれたときから日常的にこの顔に接していれば、一見だけで泣き出すようなことはないだろうが――