この手は、小さく、力なく、あまりに弱かった。
掴める希望などないのだと、涙もこぼれぬ絶望の中、ただ立つことだけを、己に課した。
金剛杖
「がくぽさま………がくぽさまっ」
「…っ」
どこか焦って、それでもやわらかく呼ぶ声に縋り、がくぽは懸命に瞳を開いた。
暗い。
白む色が差すでもない、夜の帳に包まれた座敷は、闇に沈んでいる。
「がくぽさま………っ」
「………ああ」
瞬間的に上げかけた悲鳴が、やわらかな声にくるみこまれて、消える。
よくよく見れば、傍らに抱いて寝ていたカイトが、半身を起こしてがくぽを覗きこんでいる。
いつも甘く蕩ける顔が浮かべているのは、案じる色。
言葉もなく見上げるがくぽの頬を、わずかに冷えた手が撫でた。
「起こしてしまってごめんなさい、がくぽさま…………ひどく、うなされていらしたから………」
「……」
撫でる手の気持ち良さに、がくぽは瞳を細めた。
耳朶を震わせる、甘い声。
穏やかに触れる、手の感触。
これが現実だ。
これが、『今』。
「餓鬼の時分の夢を見た」
仄かに笑って告げたがくぽのくちびるが、すぐに戦慄いた。それ以上の言葉を継げずに、締めつけられる胸のまま、苦しく喘ぐ。
震える手で、顔を覆い隠した。
小さく、力なく、あまりにも弱々しかった、この手。
守りたいと望むすべてを、打ち砕かれた。
己ひとり、ただ立つだけで、精いっぱいだった。
呼吸すらも覚束ない――哀れな母と、幼い妹と。
叩きつけられた無力感の痛みを、食い破り、押し返した。
その結果として、ここにある自分。
鬼子と呼ばれ恐れられ、確かに立つ自分がいる――これが、今。
生きている、現在。
そのはずなのに。
「昔のことだ…………すべてすべて、昔の…………今さら、どうでも………っ」
呻く声が、せり上がる感情に押し潰されて消えた。
現在も過去も、今も昔も、等しくそこに在る。
その間に、違いが見いだせない。
すべての記憶が、感覚が、感情が、並列で在る――なにもかも、なにもかもが!
「…………はい、がくぽさま」
やわらかな声が、そっと耳朶を撫でた。
「昔のことです。全部、ぜんぶ…………今さら、どうすることも、出来ません」
「ああ」
穏やかに言い聞かせられて、がくぽは顔を覆ったまま、ぎゅっと瞳を閉じる。
その手を、カイトの手が撫でた。強張る筋肉を慰めるように、あやすように。
「起こってしまったことは、もう、どうにしようもありません」
「ああ」
瞼の裏に、蘇る光景がある。
なにひとつとして、薄らぐことのない記憶。
『忘れる』ことを知らない、自分の記憶――
手を撫でるカイトの感触がなければ、自分が今、どこにいるかさえ覚束ない。
こんな弱り切った自分の姿など、カイトに晒したくはない――いつでも、強く立つ夫でありたい。
そうは望んでも、光もない闇の中では、蘇る記憶を誤魔化す術もなく。
「……………ね、がくぽさま………」
屈みこんだカイトが、耳朶にくちびるを寄せる。熱い吐息とともに、甘い声が吹きこまれた。
「お小さいがくぽさまに、俺は、なんにもしてあげられません…………。でも、今――これからのがくぽさまのことをお守りすることは、出来ます」
甘い声が、不似合いなほどに静かにきっぱりと、告げる。
甘さを失うことはなくても、ひどく力強く、心頼もしく。
そっと撫でるだけでがくぽの手を顔から取り去ると、カイトは微笑んで、凝然と瞳を見開く夫を覗きこんだ。
こくんと頷く。
「俺が、傍にいます。これからずっと。お傍にいて、お支えします。ひとりじゃありません――必ず、絶対、俺がいます」
「……」
見つめるがくぽに屈みこみ、カイトはその瞼にくちびるを落とした。
「必ずや、お守りします、がくぽさま」
「ああ………」
反射で閉じた瞼にカイトのくちびるが当たる。その熱に押されるように、ひとしずく、過去がこぼれて消えた。
くちびるが離れると、がくぽは布団から体を跳ね起こした。傍らに半身を起こしていたカイトの腰を掴むと、強引に自分の下に敷きこむ。
伸し掛かり、にんまりと笑うと、突然のことにきょとんとしているカイトを見下ろした。
「そなたを感じたい。今すぐに」
「……」
きょとんと見つめているカイトに、がくぽはいつもの通り、性悪に笑う。
それでも、そこに暗闇にすら隠しきれない怯えを見て取って、カイトは微笑んだ。手を伸ばすと、がくぽの頬を撫でる。
「はい。カイトのこと、いっぱい感じてください、がくぽさま」
甘い声が恥じらいながら許諾を吐き、頬を撫でた手が首へと回る。
引き寄せられるままに沈みこんで来るがくぽを抱きしめ、カイトはその髪をやさしく梳いた。
獣を慰めるのにも似たその手つきに、がくぽは瞳を細める。カイトの胸に埋まると、まさに獣のように擦りついた。
その頭を抱きしめ、カイトはつむじに口づけを落とす。
「いっぱい俺のこと感じて、俺のことだけで、頭を埋めてしまってください。他事なんて考えられなくなるくらい、俺に溺れて――」