日が翳れば、寒い季節だ。春が兆して大分、日が延びたとはいえ、夕時は早く、そして冷える。
響き渡っていた声がひと段落したことを十分に確かめてから、グミは湯を溜めたたらいと手ぬぐいとを持って、兄夫婦の過ごす座敷へと行った。
つづらひめうた-04-
たらいと手ぬぐいを入り口に置いて、兄にだけはわかるように軽く声を掛けたなら、火鉢を確かめ、すぐに取って返して行火と――
そうそう脆弱ではないものの、溺死気味の夫に連日絞られて疲労の抜けないおよめさまが風邪を引くことがないよう、気の利くしっかり者の妹は、あれこれと考えを巡らせる。
が、実際にはグミはつい、立ち止まってしまった。
壮絶な半眼となると、薄暗い座敷の中をじじっと睨み据える。暗いとはいえ、夫婦の情交の名残りもまだ色濃い、年頃の少女には酷な現場だが――
「………ずいぶんと斬新な使い方よな、あにさま?印胤家らしいと言えば、らしいが――しかしおよめさま相手にとなると」
立ち止まるつもりも、会話をするつもりもなかったグミだが、言わずにはおれないことというのは、どうしてもある。
壮絶な半眼で、ご立腹だとひと目でわかる態でとげとげと言う妹に、襦袢を羽織っただけで煙管を咥えていた兄は、格好だけに因らない自堕落な視線を向けた。
「そうだろう?実はな、カイトが自身で考え、実行した。これもずいぶん、うちの嫁らしくなったと思わぬか?」
煙管を咥えたまま問われて、グミの目はますます据わった。本来は、非常に愛らしい少女だ。だが今、落ちかけの陽にうっすら伸びる陰の、その頭部には尖った角が見える。
幻覚で幻影だ。幻視であればいいという、願望でもあるが。
くちびるから煙管を抜き、ふうっと煙を吐き出したがくぽは、傍らに目をやる。傍らの、ひっくり返った大きな葛籠に。
蓋はまた、別のところに放り飛んでいる。しかし問題は、そこではない。中身だ。
正座したカイトと、蓋をしていたとはいえ、目線が揃う大きさの葛籠だ。詰めるものの大きさもあって、幅もかなりあった。膝を抱えて丸くなれば、成人男性であっても、入るに入れないことはない。
そして実際、夫からの豪奢に過ぎる祝いの品をすべて取り出し、空になっていた葛籠の中には今、カイトがいる。ひっくり返して頭から被り、膝をきつく抱いて丸く小さくなっての、お篭もりだ。
なぜわかるかといえば、まずおよめさまの姿がない。そして、ひっくり返った葛籠が時折かたかたと、勝手に揺れ、その中からぐすぐすべそべそと、洟を啜る音が響く。
しかしどうして中身が推理出来たかが、問題なのではない。いったいどういった理由で、大家老家たる印胤家当主のおよめさまがお篭もりしているのかという――
「穴が合ったら入りたいとはいえ、そうそう穴もなく、思い立って一から掘るのも手間だ。対してこれなら、ちょっとひっくり返すだけで全身隠れる。目が詰まっておるゆえ、そこそこ寒さもしのげるし――実に知恵がついたものだと思わんか」
「思わんわ」
しらしらと吐き出す兄の言葉を、妹は容赦なくばっさりと切って捨てた。再び煙管を咥えたがくぽが微妙に恨みがましい目を向けてきたが、きっぱり無視する。
そこだけは当初の予定通り、グミは座敷の中に深く立ち入ることはなく、なみなみと注いだ湯で重く熱いたらいを入り口のあたりに置いた。きれいな手ぬぐいも置くと、さらりと周囲を見渡す。幸いにして、すぐ傍に火鉢が置かれていた。
グミは注意深く火鉢を覗き込み、灰の量を確かめると、ぴんと背筋を伸ばして立った。
陽が翳った。風が強くなくとも、空気それ自体が冷たく、凍える。春は兆しても、未だ遠い。体を鍛えているとはいえ、兄のように襦袢姿でいられるような陽気ではない。
一見すると自堕落ながくぽの姿は、拗ねてお篭もりしたおよめさまに打ちひしがれ、暑さ寒さを感じられなくなっているとか、そういう精神的なものに因るだろう。
「いい加減に思い切らぬと、風邪を引くことになるぞ。ああ、あにさまはどうでも良い。が、およめさまじゃ。とりあえずリリィに、風邪避けのにっっっっっがい薬湯を作らせるが、夫婦揃って飲みたくなくば、ほどほどにしておけ」
きびきびと言う妹に、くちびるから煙管を抜いたがくぽは、長くながく煙を吐き出した。おそらく、ため息交じりだ。
「まったくもって異論もなく、言う通りだがな………これがどういうわけか、軽いのに重くてな。なかなか持ち上がらぬ難物ぶりと来て……」
「知るか!印胤家当主として、威厳と甲斐性を見せておけ、あにさま!」
ぼやく兄をきっぱりと切って捨てると、グミはさっさと踵を返した。が、すぐさま背を仰け反らせ、顔だけをひょいと覗かせる。煙管をふかす兄とひっくり返った葛籠とをきりりと睨むと、吐き出した。
「冷めぬうちに湯を使え。重いわ熱いわ、それこそ難儀なのじゃ!!」
言い置くと、今度こそ座敷から離れる。
妹の気配が程よく遠くなったところで、がくぽはくちびるに煙管を咥えたまま、傍の葛籠に視線を投げた。煙管を咥えた隙間から、ふうっと煙を吐く。
「――と、いうことだが?」
掛けた声に返って来たのは、涙交じりの鼻声だった。
「み、みられたぁ………っ、みられたぁあ………っ」
「今さら……?」
恨みがましくくり返されて、がくぽは納得いかないように上目になった。
実際、今さらだ。グミが清浄用の湯や手ぬぐいを用意したり、火鉢の様子を確かめていくのは、いつものことだ。その際、兄夫婦が行儀の良い格好をしていたことなど、ついぞない。
常に乱れ、情交の雰囲気も生々しく、カイトに至っては夫と己の体液に塗れた体を惜しげもなく晒して――
概ね常に、カイトは意識を飛ばして、グミが様子見に来ていることに気がついていない。
しかしいつものことなのだ。がくぽや、肝心要のグミからしても、カイトの恨み言は今さらも過ぎる。
今日のがくぽは襦袢一枚とはいえ、体に布を纏って雄々しさを隠していたし、カイトは葛籠に篭もって、全身を隠していた。
あえて言うなら、いつもと比べるとまったくもって、ましな状態だったのだ。
「んっ、ふぇっ、ぐすっ!くしゅっっ!」
「ちっ……」
嗚咽と連動した洟を啜る音に、くしゃみが混ざった。自堕落に投げていたがくぽだが、舌打ちをこぼすと煙管を抜く。
煙管盆に置くと、葛籠に向き直った。
「開くぞ」
「ぃやです、くしゅっ!」
「開くぞ!」
「や………んっ?!」
くしゃみを連発しながらも頑強に拒んでいたカイトだが、寒さとは別にびくりと震えた。がすんと、葛籠に衝撃が与えられたのだ。
外の様子など、暗さもあってまったく窺えない。
おどおどと体を丸くし、様子を窺うカイトの耳に、深いふかいため息が聞こえた。この近さから考えるに、どうやらがくぽが頭を預けているらしいが――
「拒むな。開かせろ。そなたが本格的に、風邪を引く前に。俺が先に死にそうだ」
「だめです!!」
力ないつぶやきに、カイトは反射的に叫んで体を跳ね起こした。諸共に葛籠も跳ね飛ばし、勢いままにくるんと振り返る。
向き合った夫は、背を仰け反らせていた。カイトが勢いよく跳ね飛ばした葛籠に巻き込まれ、すっ飛ばされないためだ。華奢でか弱く見えるおよめさまだが、その気になれば非常に力がある。
夫の状況の委細には構わず、カイトは取り縋るように、羽織られただけのがくぽの襦袢を引っ掴んだ。
「具合、お悪いんですか?!お熱が?!それとも咽喉が……ひやっ、んっ?!」
慌てて迫るカイトを捕らえ、だけでなくころりと転がすと、伸し掛かったがくぽはそのままくちびるを塞いだ。驚いて首を振っても逃がさず、丹念に愛撫を施し、抱き合う体からぬくもりが伝って融け合うまで、塞ぎ続ける。
「ん、はぁ………」
ややして、冷たかったお互いの体が共に熱を持ち、カイトがくったりと力を失ったところで、がくぽはくちびるを離した。
とはいえ離したのはくちびるだけで、体は相変わらず伸し掛かっている。未だ冷えている肩を撫で、足を絡めながら、がくぽはついばむような口づけをいくつもいくつも、カイトの顔に降らせた。
「ぁ、ふ………んっ、ぁは……っ」
くすぐったいと笑って身を捩るカイトは、すでに夫を赦して受け入れている。それでもがくぽは気弱な表情まま、綻ぶカイトの頬を丹念に撫でた。
「………機嫌を直せ。直すなら、それこそどんなことでも……んっ」
機嫌を取り結ぼうとする言葉は、カイトからの口づけに呑みこまれた。今度はカイトから、くり返しくり返して、がくぽへとやわらかな口づけが与えられる。
時に舌を絡め、吸い合っても、深く貪るようなものにはならない。
やさしくやわらかく、ひたすらに慰撫するように、口づけはくり返される。
「カイト」
「……動転しただけです。だって、あんまりにも………はしたなかったですから」
「………ああ」
はしたないくらいでいいと、はしたなくなれと、がくぽは常にカイトに言っている。言うだけなく、そうならざるを得ないほど、仕込んでいる。
だとしても言葉を重ねて反駁することなく、がくぽはカイトの肩口に顔を埋めた。潰さない程度に重みを掛け、擦りついて甘えるしぐさをする。
伸びたカイトの手が、乱れて散るがくぽの長い髪をあやすように、撫で梳いた。がくぽはますます心地よさそうに、カイトに懐いて甘える。
「ん、んふ……っ」
くすぐったさに堪え切れずに笑い、カイトはきゅううっとがくぽを抱きしめた。両膝を立てるとがくぽの体に絡めるように回す。腰を締めつつ、意味深に下半身を擦りつけた。
「がくぽさま、だいすき………だいすき、がくぽさま………ね?だいすき……ですから」
「………ああ」
およめさまのしぐさを、読み違えるがくぽではない。普段は貞淑なおよめさまが、まさか夫を誘うことなどあるはずがないとまで、愚鈍を極めもしない。
一度は預けた体をわずかに起こしたがくぽは、意味深に擦りつけられる下半身へと指を辿らせ、軽く爪を立ててかりりと掻いた。
「ぁっ、ん………っ」
「仲直りと行くか?」
耳朶に吹き込むと、カイトはふるふると首を横に振った。きょとんとしたがくぽを横目に見ると、暗い座敷の中、放り出されているものがあるはずのあたりに視線を流す。
誘われるまま視線を投げたがくぽにきゅっとしがみついて、カイトはちょんとくちびるを尖らせた。拗ねたようにも見える顔で、小さくちいさく吐き出す。
「だってまだ、アレ………使ってないですもん」
「ああ……」
聞こえるか聞こえないか、あえかな声で吐き出された言葉でも、がくぽはきちんと拾った。そのうえで今度こそ、彷徨っていた焦点をきちんと合わせる。
がくぽの角度からなら、カイトが指す『アレ』が見える。つまり、小さなほうの葛籠に納まっていた、微妙に過ぎる贈り物のひとつだ。男性器を象った――
「………そういえば、使っていなかったか。そなたの反応があまりにいいもので、すっかりと胸に重点が移った。きっぱり存在を忘れていたな」
あっさりと言ったがくぽの背に、カイトは抗議の意味で爪を立てた。軽くだ。掻痒感にも似て、痛みはほとんどない。
がくぽは笑うと、カイトに顔を戻した。胸に埋まるカイトの、つむじにくちびるを落とす。
「痛いぞ」
わざと抗議してやると、カイトは爪を立てるのを止めた。代わりに、暗闇の中ですら、きらきらと輝いて見える瞳を向ける。
がくぽは誘われるままに顔を寄せ、反射で閉じた瞼にくちびるを落とした。辿ってくちびるを重ねると、今度は先より深く、意味を持って弄り合う。
「ぁ、はぅ………」
ややして唾液の糸を引きながらくちびるが離れても、がくぽに縋りつくカイトの腕が落ちたり、力を失うことはなかった。かえって力を増して縋りつき、身を寄せる。
「………仲直りして差し上げるかどうかは、アレを使ってから決めます。いいですか、がくぽさま。まだ、仲直りじゃありませんからね?俺にいっぱいっぱい媚びて、へりくだってくださらないと」
「カイト……」
珍しい言葉遣いで、カイトはがくぽに命じる。揺らぐ瞳は暗くとも、がくぽへの思いやりと気遣いとに満ちて、本意ではないままに、しかし確固たる意図を持って選ばれたおねだりなのだと知れる。
がくぽのおよめさまは、貞淑で夫に従順そのもの、基本的には抵抗を知らない。
が、ただ唯々諾々と従うだけのお人形ではなく、無為に従わされることを良しとする性質でもない。
その気性は意外に荒く、猛々しく――因業一家に生まれ、揉まれ、『鬼子』と呼ばれ畏れられながらも、激しい生存競争をなんとか生き抜いてここまで来たがくぽより余程に、強い。
「――よしよし」
宥める言葉を吐きながら、がくぽはカイトのこめかみにくちびるを落とした。耳朶へと辿り、そこだけは変わらず熱を放つ肉を軽く食む。
「たっぷりと媚びて、へりくだってやる。それでそなたが機嫌を直すと言うなら、俺の手管のすべてを尽くしてやろうから」
「ん……っ」
背筋を這い上るものに、始まりの予感に震えるカイトに、がくぽは微笑む。穏やかで、やさしい笑みだった。行為とは裏腹に、欲を孕むことのない。
耳朶からうなじへとくちびるを辿らせたがくぽは、そこで顔を上げた。すでに瞳を蕩けさせているカイトを、悪戯っぽく覗き込む。
「なにより今日は、そなたの生まれ日の祝いだ。いくらでも我が儘を吐け。甘えて、俺に命じろ。そなたが強請るなら、馬にもなってやろうから」
「ええと、その、がくぽさま………」
思い出させられたことの始まりに、蕩けていたカイトは微妙に視線を移ろわせた。
微妙なのは視線だけではない。表情も、いわく言い難い感情を宿して、非常に微妙なものを浮かべ、微笑む夫を見返す。
「それなんですけれど、とりあえず、終わったらですね………おそらく、明日以降になりますけれど………その点については少々、お話が。つまり、ちょっともう少しですね、俺と意見を詰めていただきたいというか、歩み寄っていただきたいというか、その、なんというか………」
もごもごと不明瞭な文を吐き出して、カイトは一度、瞼を下ろした。ふるりと首を振ると、もやつく思いのすべてを振り払って、上機嫌で言葉を待つがくぽにきゅうっと抱きつく。
「とにかく、終わってから!終わってから、です!まずは、がくぽさまにたくさんたくさん、俺の機嫌を取り結んでいただいて……それから、考えます。その結果次第です。がくぽさまを赦して差し上げるか、そっちをまずは考えて、それから!」
「ああ」
カイトの言いたいことのすべてを理解は出来ないものの、がくぽの上機嫌は変わらなかった。すでに赦して受け入れ切っていると、態度で示しながらも言葉は懸命につれないものを選ぶカイトに、さらに相好を崩す。
そうにやついては、大家老家の当主として、威厳もへったくれもないと――
しっかり者の妹に正座で説教を食らうほどに表情を綻ばせながら、がくぽはおよめさまの体と思いとに、溺れこみ、浸り切った。
ちなみに件の妹だが、すぐそこまで来ていた。が、再び響いた甘い悲鳴を耳に入れ、小さくため息をこぼした。
胸に抱く行火は温かいが、温かいうちに兄夫婦に届けてぬくもりを分けることは、どうやら無理だ。そしてもうひとつ言うと、先に苦労して運んだ湯の入ったたらいも、同様。
二人が使えるようになるころには、冷水もいいところだ。昼間のぬくもりも完全に失せて、空気は酷薄なまでに凍えるようになっているだろうに、さらに――
「まだまだ、見極めが足らぬということじゃな。終わったなどと楽観したのが間違いで、徒労の元じゃ。そもそもおよめさまがお篭もり出来るほどの余力を残している時点で、気がつくべきじゃった。まだまだ修練が足らぬ」
――健気に過ぎる反省をこぼしながら、互いに溺れて家業を疎かにしがちな当主夫婦を支える妹は、胸に抱く行火のぬくもりとともに、踵を返した。