雨月狂ひ

市井の者と変わらぬ着流し姿となると、がくぽはおよめさまがいるはずの座敷へと向かった。

「カイト!」

「ぁ、はい。………」

すたすたと歩いて来て、特に緩めることもない。

障子を開いた座敷の中から庭を眺めていたカイトの傍に寄ったものの落ち着くことはなく、がくぽは軽く手を挙げた。

「一寸な、出掛けて………」

言いざまに過ぎ去ろうとしたがくぽは、立ち止まると口を引き結んで、足元を見つめた。

なんだろう、この手。

年やら諸々から考えると、あまりにも愛らしく、着物の裾をちょむっとつまんだ、手。

なんでこんな、愛らしいにもほどがあることをやらかすのだ、自分の妻は。

「………」

「………………」

通り過ぎてそのまま出かけようとした夫の着物の裾を掴んだおよめさまのほうは、なんとも言えない不可思議な感情を宿した瞳で、見つめてくる。

「カイト」

出掛けるのだがとつぶやくがくぽに、カイトはちょこんと首を傾げた。

「雨です、がくぽさま。………雨の日にお出かけになったら、濡れますよ?」

「まあ、それは………」

カイトが言うように、今日の天気は雨だ。かなりいい降りで、このまま出掛ければ、目的地に着く頃には着物から水が絞れる。

しかし腐っても、印胤家。

傘の置き程度、いくらでもある。

大人しく差すような性質かと問われると微妙だが、用事如何によってはきちんと差す。少なくとも、行き道くらいは。

口篭もるがくぽに、カイトはつまんだ着物の裾を、きゅっと引く。あえかな力だが、引き留められている気配はわかる。

「…………雨の日です、がくぽさま」

「………………」

これが正規の仕事だというなら、カイトも大人しく見送るだろう。

しかし、がくぽの姿だ。市井の者と変わらぬ着流し姿になったということは、悪家老として名を馳せる印胤家らしい、悪巧みのためのどこかの秘密の会合に出掛けるか、そもそも自分で仕掛けを施しに行くか――

なんにしろ、正規の仕事ではない。どちらかといえば、印胤家的趣味。

「…………がくぽさま」

「そなたな、カイト」

じじっと見上げる瞳に、がくぽはわずかにくちびるを歪めた。意地の悪い笑みを浮かべると、愉しげにカイトを見下ろす。

「素直に、寂しいから置いて行かぬでくれと、強請ってみてはどうだそう、迂遠に求めず。然もすれば、俺も考えるやもしれん」

いたぶるような口調で落とした言葉にも、カイトは小揺るぎもしなかった。

ただ、ひたすらに透明な瞳でがくぽを見上げ、着物をつまむ指に力を込める。

「……こんな雨の日は、俺の傍にいてくださらなければ、いやです、がくぽさま。傍にいて、俺のことを抱いて、身も心もあたためてくださらなければ。ひとりにされたら、寂しくて切なくて、泣いてしまいます」

「………っ」

自分が言えと言って、カイトは素直に応じただけだ。

そもそもが、がくぽへの愛情を隠しも偽りもしないカイトだ。強請れと言えば、意地を張ることもなく、強請りもするし甘えもする。

それでも、落とされた声音とその言葉に、がくぽの胸は締めつけられるように痛んだ。

思わず足を引いたが、着物の裾がカイトにつままれたままだ。逃げられもしない。

「………」

ひたすらに透明に、笑みでもなく泣くでも怒るでもない表情で見つめるカイトに、がくぽはかりりと頭を掻いた。

かりかりかりかりと掻いて、ため息を吐く。

「…………まったくもって、仕様のない」

ぼやくと身を屈め、裾をつまむカイトの手をさっと払った。そのまま傍らにどっかりと腰を下ろし、愛しいおよめさまの体を抱き寄せる。

「降参だ。………………まあ、わかっていたことだが」

「…………お出掛けしませんか俺の傍に、いてくださる?」

忌々しそうにぼやくがくぽの胸の中から顔を上げ、カイトは静かに訊く。

がくぽは肩を竦めると、一転、笑みを浮かべてカイトを見つめた。

「そなたの傍に居よう。雨の日だ、冷えるからな。存分に、あたためてやろうさ」

「………」

自棄になったのではなく、掛け値なしの本気で言うがくぽを見つめ、カイトはちょこんと首を傾げた。

そのくちびるが、緩やかに笑みを刷く。

つぶさに眺めながら、やはり敵わないと、がくぽは心の底で嘆息した。