からくりくりから
「がくぽさま、ご飯の支度が……」
言いながら座敷に入って、カイトはきょとりと瞳を瞬かせた。
最愛のおよめさまが声を掛けたというのに、がくぽの視線は厳しく苦々しく将棋盤を睨みつけているばかりだ。微動だにしない。
「……?」
首を傾げながらがくぽの傍に寄って盤面を確かめ、カイトは再び瞳を瞬かせた。
半刻ほど前、カイトが座敷を出る前と同じだ。駒がまったく動いていない。
鬼子と称される才を持つのがカイトの夫、印胤家当主たるがくぽだ。しかしその彼が集中力を総動員して長考しても、この膠着状態を脱せないらしい。
「……………」
ちょっとだけ考え、カイトはふいと手を伸ばした。がくぽの陣営の駒をつまむと、ことんと動かす。
がくぽのこめかみが、ひくりと引きつった。
「おい」
およめさま相手に常になく乱暴な声を上げたがくぽは、『相手陣営』、仮想の敵側の駒を動かし、己の駒を動かしとして、瞬く間に五手ほど進めた。
そのうえで、傍らに中腰で立つカイトを睨み上げる。
「見ろ。その手だと、ここで詰みだ」
示す盤面、瞬く間に進めた駒は、がくぽの敗北を示している。
怒られたカイトといえば反論するでもなく謝罪するでもなく、がくぽが進めた盤面をとても不思議そうに見た。
ややして落ちるようにへちゃんと座りこむと、まるで覚えたての子どものような覚束ない手つきで駒をつまみ、ことことことと、がくぽが動かした駒を元に戻す。
カイトが打って、がくぽが直後に打った一手まで戻すと、カイトは再びがくぽ陣営の駒をつまみ、ことりと動かした。そのうえで、がくぽをじいっと見る。
「……ふん?」
がくぽは鼻を鳴らすと、手を伸ばして向かい側、仮想敵陣営の駒を取った。カイトの手に応戦する。
ことりと置くと、カイトはすぐさま、がくぽ陣営の次の駒を取り、がくぽは向かいの仮想敵陣営の駒を打ち、――
……………
…………………………
………………………………………
こっとんと駒を置き、カイトはにっこり笑って傍らに座る夫を見上げた。
「はい、これで詰みです。がくぽさまの勝ちっ」
「ぬ………」
とても得意げに言われたが、正確には『カイトの勝ち』だ。
カイトが打っていたのは中途から引き受けたがくぽ側の陣営だが、仮想敵陣営に専念したのはがくぽで、いわばがくぽ対カイトの勝負。
カイトとの勝負で負けが込むのはよくあることだから、がくぽはそこは気にしない。それは置いて、見るのは勝負のついた盤面だ。
一手一手を実際の『ひと』に置き換え、いったいどういった考えのもと、どういった動きを取ったか、細かに検証する。『ひと』としてあり得ない動きはないか、思考が突飛に過ぎないか――
ややして考証がひと段落し、がくぽはふうと小さく息をついた。張り詰めていた肩から力が抜け、背が撓む。
行儀悪く将棋盤に肘をついたがくぽは、無邪気に笑うおよめさまに、どこか呆れたような視線をやった。
「なにゆえあれで勝つ。手妻がさっぱりわからん」
「んっへ!」
ぼやくがくぽに、カイトはやはり、とても得意そうに笑った。がくぽ側、己が守った将駒を取ると、はにかみながらくちびるを当てる。
わずかに首を引くと、笑う上目でがくぽを窺った。
「『がくぽさま』のお為ですもん。俺がいて、がくぽさまをむざと敗北に晒すような真似、そうそうしないんです」
くふふという笑い声とともに、さらりと宣言する。
がくぽは軽く目を回して天を仰ぎ、体を起こした。素早く手を伸ばすと、愛らしくも頼もしいおよめさまを抱き寄せる。
「がくぽさま」
「そなたはまこと得難き、最良にして最上の嫁よ、カイト。そなたをこの手に得られた、それこそが……」
募る想いに言葉を失ったがくぽは、夫相手に抵抗を知らず素直に懐くカイトを、ひたすらきつくきつく抱きこめた。