イタック・シビラ
常にきっちりと着こなされているがくぽの羽織の片袖が、ずるりと落ちた。だからといって、がくぽが古典的な『ずっこけ』の表現をしたということではない。
原因は、落ちた側の腕に組みついた相手だ。
がっしりと組みつくのみならず、体重を掛けてぐいぐいと引っ張り、まるでぶら下がろうとでもするかのような――
そんな年ではないはずだし、できる体格でもないはずだ。が。
「カイト。………どうした」
相手が相手だ。痛いほどに引かれても、がくぽが不愉快な表情を晒すことはない。子供のように組みついたカイトへ掛けるがくぽの声は、穏やかなものだった。
スタジオの片隅で、出番待ち中だったがくぽだ。
邪魔にならないようにという意図以上に、ひっそりと隠れるようにしていたから、注目する者もない。多少、しゃべっていたところで、うるさいと注意される位置でもない。
それでも自然、低く潜められた声は、しかし、相手への好意から甘さを含んで、隠しようもなくやわらかい――
「ん」
訊かれたカイトは、がくぽの腕に猿の仔よろしく組みついたまま、はるか下から目線だけ投げて寄越した。おねだり時特有の、上目遣い必殺版だ。
「今日、がくぽといっしょに寝たい。寝よ?寝て?」
「………ふむ」
これも一種の三段活用というものだろうかと、窺うようなカイトを見下ろしながら、がくぽはちらりと考えた。逃避だ。
友人でご近所さんでもあるカイトは、たまにこうして、がくぽに同衾を強請る。
同じ男で、そして共に成人だ。起動年数ともあれの設定年齢上のこととはいえ、成人は成人。人間ではなくロイド同士とはいえ、男は男。
それでもカイトは、がくぽに同衾を強請る。いっしょに寝てと。
動揺から来た逃避は一瞬で、がくぽはすぐ、くちびるにやわらかな笑みを戻した。
「俺の家か?それとも、カイトの?」
「………」
笑みと同じく穏やかな声で訊くがくぽに、カイトは無言で瞳を揺らがせた。
瞳は迷う色を刷いてゆらゆらゆらゆらと泳ぎ、先にはすんなりとおねだりを吐きこぼしたくちびるは、なかなか答えを出さない。
「………良い」
長考の果ての結論を待ちきれず、根負けしたのはがくぽのほうだった。
「俺の家に来い。細かいことを気にするマスターでもないし――どうせ、酒飲みで帰りも遅いことだしな」
「……っ」
我ながら言い訳がましいと、がくぽの誘いは後ろめたさの分だけ口早になった。
繊細かつ複雑な機微に構わないカイトといえば、がくぽの『応』の返事にだけ反応し、ぱっと表情を輝かせる。腕にしがみついて落ちていた体が、ようやく起き上がった。
「ありがと、がくぽっ」
「否。………いいや」
軽くなった腕を素早く取り戻して返すと、がくぽは離れかけたカイトを抱き寄せた。周囲からさらに隠れるように物陰に潜みつつ、カイトの腰を抱き、顎に手を掛けて目を合わせる。
「………共に寝たいとは言うが、俺とでは、ただ『寝る』だけでは済まぬと、理解していような?」
「………ぅん」
どこか責める響きを持った低いささやきに、しかしカイトはほんわりと目元を染め、うれしげに頷いた。
顎を押さえる手を振り払って顔を寄せると、がくぽのくちびるの端にちゅっと、かわいらしいキスをする。
「へーき………がくぽと寝る………」
つぶやいて笑い崩れ、カイトはがくぽの肩口にねこのように擦りついた。
カイトには、デフォルトで挨拶のキスの習慣がある。
今のキスが狙い通りの場所だったのか、それとも目算がずれたのか――がくぽには、判別できない。
『判別しなければ』と思うことが、そもそもはおかしいのだが。いや、おかしいと言うのならば――
狂おしいものを飲みこみつつ、がくぽは肩口に懐くカイトへ顔を寄せた。
「わかっておるなら、良い。………が、とりあえず、手付を貰っておくぞ?」
「ぁ、ん………」
胡散臭い言い分もあったものだと自分で自分をけなしつつ、がくぽは狙い通り、カイトのくちびるにくちびるを重ねた。
カイトは大人しくされるがままだ。いや、むしろ伸び上がって、自分からもくちびるを押しつけて来る。
それでも足りないと抱く腕に力を込め、貪るようにくちびるを味わいつつ、がくぽは眉をひそめた。
それで、いったいどうして、自分と彼とは『友人』なのだろう。
いったいいつまで、『友人』であるのだろう――