トッカータとフーガのクリアランスセール-03-
以前、カイトを購入し、起動する際に少しだけ触れたが、ロイドの起動にはおおまかに二通りの方法がある。
『マスター』が販売元のラボへ赴き、起動と初期設定をしてもらったうえで、自ら動けるようになったロイドとともに家路へとつくパターン。
もうひとつが、起動前で梱包材に包まれた状態のロイドを家に届けてもらい、起動操作と初期設定を自分で行うパターンだ。
知っての通り、杉崎家のカイトは後者だ。そして悲劇は起こった。――いや、悲劇というか、しかしまあ、もしかして前者のパターンであれば、がくぽがここまでカイトに固執することはなかったかもしれない。
固執するにしてもだ、もう少し違う、少なくとも水たまりならぬ血だまりをつくるほど鼻血を垂らしながらということはなかったかもしれない――
どのみち『かもしれない』だ。
すべて済んで終わってしまった今となっては、なにもかもが無為な仮定でしかない。
それで、『ヒミツ』だ。ロイドに設定されているという七つの秘密機能、その栄えある一番目は、この起動に関わる『ヒミツ』だという。
「タイミングとしては、起動して、初期設定に入る間際くらいだの。<マスター認証>までが、ぎりぎりか……とにもかくにもな、本格的な初期設定に入ってしまえばもう、機能せん」
「え、けっこう、タイトな…しかもなんか、すごい限定的?なんだ?」
クエスチョンマークを量産こそしたが、へきるはある意味、納得していた。そこまで限定的であればこそ、がくぽも話したところで構わないと判断したのかと。
なにせ起動から初期設定に入るまでとなると、下手をすれば一分もない。どんなに長く見積もっても五分がせいぜいだ。
そこでしか働かない機能であれば、そもそもロイドの起動に立ち合うことが滅多にないのだし、秘密を知っているところで問題の起こしようもないだろう。
そう納得したへきるに、がくぽは真顔で問いを放った。
「マスターよ。その間にぬしら、我らにどう対応する?」
「へ?」
突然放たれた問いに、しかも真顔のがくぽに、へきるは正しく目を点にした。
『その間に』
『ぬしら』
『我らに』
『どう対応する』か?
分解し、当てはめていけば、『その間』というのはだから、起動から初期設定までの数分のことだろう。
で、ぬしらというのは大枠、『マスター』であり、同じく我らというのは大枠、『ロイド』だ。
ここまではわかる。
わからないのは最後、『どう対応するのか』だ。
どう対応するもこう対応するも、そんな、起動から初期設定開始までの数分に、いったいなにかをする隙があるものだろうか。
きょとんとしたまま答えないへきるも、がくぽには想定のうちだった。だとしてもとろくさいだの頭を使えだのといつものように罵倒することなく、淡々と答えを言う。
「まず大半が、挨拶するぢゃろう。――『おはよう』とか、『初めまして』とか」
「あー……ああ?!そっか、そう言われてみれば…初期設定前に、ほんとにちゃんと起動したのかってことを確かめるためにも、とりあえず声かけるな、そういえば」
「仕掛けはそこぢゃ」
「へ?しかけ?」
うんうんうんと納得しているところに素早く言葉を挟まれ、へきるは再びきょとんとした。
そのへきるへ説明を続けるべくくちびるを開き、しかしがくぽはなにも言わないまま閉じた。ふわりと、ごく自然に表情が緩み、エプロンの胸元をつまんでちょみちょみちょみと引くカイトへ視線をやる。
「どうした?」
「ぇと、あの、ひとつめって…」
促されて口を開き、カイトは束の間ちらりと、きょとんとしたままのへきるへ窺う視線を投げた。すぐにがくぽへ戻すと首を竦め、おずおずと続ける。
「『あがぱー』です?」
「『あがぱー』ぁあ?」
頼りなくこぼされた言葉を拾い、へきるの顔は壮絶に歪んだ。
なんだそれはという話なのだが、とはいえカイトの発言が意味不明というのはいつものことだ。しかしてとはいえだ。
くり返そう。なぜならとてもとても途轍もなく大事なことだからだ。
現在のカイトはミニスカにフリルエプロンにニーソックス着用の二次元型メイドさんなのだ。
それもメイドとしての属性はドジっ娘という。
つまりだ。
頻繁にツボを押してくるのはほんとうにやめていただきたいという話なのである。なんのツボをどう押されているかの詳細は割愛するが、ほんとうにやめていただきたい。
無自覚ゆえに指摘したところで自重のしようがないどころか悪化することが目に見えているので言わないからやめようもないわけだが。
というかそうも刺激されて困るなら、へきるはカイトを着替えさせればいいのだ。いつものパンツルックか、もしくは女装であってミニスカであってもメイドではない、別のものに。
しかしてどれほど悶え苦しもうとも自分からメイドさんを手放すようなまねは決してできないし、思いつきもしないだけでなく言われたところできれいに聞き流すのがオタク脳、へきるというものだった。
だからがくぽにMスターなどという新たな罵倒語を繰り出される。
――のだが、カイトのこの言葉を意味不明であると判断したのは今回、へきるだけだった。がくぽはきょとんとすることもなく、無為に萌えて鼻血を吹くこともなく、いたって落ち着いた様子で微笑み、こっくりと頷いたのだ。
「そうぢゃ。『あがぱ』ぢゃ。よう思い出したの。あとで褒美にアイスをやろうが、どのアイスを褒美としてほしいか考えておけよ」
「ごっふぉおおびあいすぅうっ!!」
そこまでどうしても微妙に愁眉であったものが一転、カイトの表情がきらぴかに輝いた。いや、表情だけでなく、なんだか後光っぽいものまで見える。
「ダッツ…ダッツのバニラ……ぅううんっ、ここは季節限定の…あ、でも久しぶりにれでぼーも食べた…んっくふぅううう……っ」
胸の前で手を組むオトメのお祈りポーズとなったカイトは陶然とがくぽに凭れ、ぶつぶつと候補を上げていく。その口の端からは、今にもよだれがこぼれそうだ。はしたないがだから、今のカイトはミニスカフリルエプロンにニーソのドジっ娘メイドなのだ。
「が……っがっくんん………っ、先、先へ……っ、はや、はやく、ひみちゅっ……っ」
「マスターよ」
うずくまってがたぶるしながら片手を伸ばすマスターに、ソファにふんぞり返るようにして座るロイドなメイドは眉をひそめた。
「我もオタク一家のサラブレッド変態オタクをマスターに持つ身ぢゃ。メイド服を着るところまでは許容しようし、メイドプレイも堪えよう。が、赤ちゃんプレイまでは付き合いきれんぞ。さすがにロイド保護局へ訴える」
「ちょっと噛んだらこの仕打ちっ!でもがっくんなに?!メイドプレイしてくれんの?!がっくんにしてほしいわけじゃないけどでもがっくん、メイドプレイまでは許容してくれんの!」
語感についうっかり興奮してしまったサラブレッドの変態オタクなマスター、ついでに年齢=彼女いない歴な童貞にはあはあはあと息を荒げて迫られ、がくぽは天使のようにやわらかな笑みを向けた。
「Mスターが、どうしてもと望むのであればな?」
「あっごめんなさいっ?!ちょーしのりましたっ!うそですほんとですごめんなさいごめんなさいごめんなさいゆるさなくてもいいからケーサツにつーほーだけはやめてぇええええっ!!」
興奮一転、膝立ちとなっていたへきるは正座に戻ると床に額をこすりつけた。誰がどこからどう見ても間違いようのない、立派な土下座だ。
がくぽはふんと鼻を鳴らし――
「まあ、であればこそとも言えるが」
ぽそりとつぶやいた。が、このつぶやきはあまりに小さく、土下座で平謝りするへきるの耳には当然、届かなかった。
「それでな、話を続けるが聞け、Mスター」
「ぶひゅぅっ」
土下座するへきるの頭を容赦なく踏み、がくぽはしらしらと話を続けた。
「つまりな、『マスター』となる人間が寄越すその挨拶、ロイドと初めて出会っての第一声の、さらには第一語めで、対応性格を微妙に調整しておるのぢゃ」
「んぶふぅ……ってほんとに新たな感じで目覚めるからさすがにやめてがっくん!あれこれ属性付加されても、処女とは違うんだからさ!童貞は童貞喪失が遠のくだけでしょ?!げふぅっ!」
生涯童貞の四文字熟語も相当に重いが、次点、童貞喪失も使いようによってはかなりの重さとなる。
頭を踏む足を跳ね上げたのも束の間、またしても床に沈みこんだへきるを、がくぽは呆れ返った眼差しで見た。
「なにが新たにか。すでに手遅れぢゃろうが」
「うんわりと知ってる!」
つまり手遅れか。
いや、今さらだ。もちろんへきるは手遅れだ。ありとあらゆる意味で、ありとあらゆるものが。取り戻したいとも思わないので、さらに手は遅れ、離れていく。
生き生き元気に答えたへきるといえば、それで気も取り直した。
「あのさがっくん、性格を調整って、それ、アペンドの話じゃないんだよな?がっくんも含んだ、これまでのロイドもっていう」
最近出回り始めた『アペンド』は、既存ロイドに対応性格を増やしたというのが売りのひとつだ。これまではある程度限定的であった性格や性質といったものの幅が広げられた。
たとえば鏡音レンであれば、ショタっ子、魔女っ娘少年、男の娘といった――まあ、ろくな幅の広げ方をしていないが。
それはそれとしてくり返せば、それまでロイドの性格は限定的であり、家庭の雰囲気やなにかで多少の幅はあれ、基幹部分は大きく変わらないものだった。
が、がくぽは言う。実は初めの段階で性格を変えていると。
「そうぢゃの…より正確には、変えておるのはストレス耐性の度合いぢゃ。結果、性格にも多少、影響が出るというな」
「ふぅん…?」
腑に落ちたような落ちないような、微妙な表情で微妙な相槌を打ったへきるに、がくぽはくちびるを半月型にした。
「それで『あがぱ』ぢゃ」
「『あがぱ』?え?」
ぱちりとひと瞬きしたへきるに、がくぽは片手を上げ、親指、人差し指、中指の三本を立てた。それを某法則のようにへきるへ向ける。
「清音、濁音、半濁音…その代表音として『あ/が/ぱ』という。そうむつかしい話でもなかろ」
「いや、そう言われるとそうかもだけど…なんでその三括りになんの?」
きょとんとしてほとんど無邪気に訊いたへきるを、がくぽは呆れ返ったというように見た。
「少しは頭を働かせよ、マスター。先に言ったぢゃろうが、我らが反応するのは『マスター』と出会って初めての瞬間だと。第一声の、第一語めぢゃとな。常識をわきまえた相手であれば、とにかくまずは挨拶をする――その挨拶ぢゃ。思い返せるだけ思い返してみよ、マスター」
「え?へ?ああー………っと、あいさつ?あい……おはよう?おやすみ?こんにちは、こんばんは、はじめまして……あ」
促されるまま挙げていったへきるが、はたと気がついた顔となった。
そう『清音』、文字に『濁点:゛』も『半濁点:゜』もつかない言葉だ。
通常の、いわば『常識をわきまえた』挨拶のほとんどの、第一語めは清音なのである。
しばらく考えてようやく濁音始まり、『ごきげんよう』が出てきたが、半濁音始まりはついぞ出て来なかった。
それに出てきたとはいえ、現代日本の挨拶と考えたとき、『ごきげんよう』はけっこう、特殊な例だ。
そう、『特殊』なのだ。
「まあ、日本の、日本語対応時のみゆえ、確かに限定機能ではあるがの。なにもなければ清音で始まるはずのものが、濁音だの、ましてや半濁音だので始まるのはふつうではない=ストレス耐性を強めに設定するというな。で、それを逆手に取っておるのが、我やグミといったシリーズなんぢゃが」
「へ?がっくん?と、グミ?」
もはや頭がぱんぱんでただ問い返すだけのものと化しているへきるを、今度はがくぽも罵らなかった。
呆れた様子ではあるが、常から考えると非常に親切に説明してくれる。
「我らの名ぢゃ。がくぽに、グミ…濁音始まりぢゃろ?本来であれば、別にふつうなんぢゃがな………たとえばな、『おはよう、がくぽ』と言うものもいるが、『がくぽ、おはよう』と」
「んぁあっ!濁音始まりっ!って、え、それ、濁音始まりって認識されんのっ?!」
ぎょっとしたように瞳を見張ったへきるへ、がくぽはきまじめな様子でこっくり、頷いた。
「される。わかりやすかろうとたとえで『挨拶』と言いはしたが、別になんでもいいからの。あくまでも認識するのは、出会って・初めて聞いた・マスターの第一語めぢゃ。――通常より高い確率でストレス耐性の強い性格を表出させるため、ラボが企んだわけぢゃ」
「ぅ、ぅっわぁああ……公式…公式がびょーきパターン………それもまさかのとこが、まさかのとこで」
芯から理解すればこそこころから震撼したへきるを眺め、がくぽはなんの気もないふうに続けた。
「ところでな、マスター。ぬし、我が起動した際の、その第一声――なんであったか、覚えておるか?」
「へ?」
さらりと差し挟まれた問いに、へきるは本気できょとんぽかんとした。その瞳が記憶を漁ってゆっくりと上を向き、眉がひそめられ、首が捻られ、――
「いや、覚えてってか…ふっつーだったんじゃないの?そこはさ、ほら、さすがに」
「『ぱねえ』ぢゃ」
「ん?」
さっくり明らかとされた答えに、へきるはぎしりと固まった。きゅむっとくちびるを引き結び、皮膚の下に葛藤を踊らせて、ソファに座って睥睨するがくぽを見返す。
物難いハウスメイド仕立てとはいえ、きっちりグロスまで塗ってつややかに仕上げたがくぽのくちびるが、悠然と開いた。
「『ぱねえ』ぢゃ。マスター、ぬしが、我の起動に際して発した第一声の、第一語めはな」
「ぱ…」
「『ぱねえ』」
ソファにふんぞり返るような姿勢であっても、ごりごりごりと押しこむようにがくぽはくり返した。三度。
大事なことは二回言う。しかして三回くり返したなら、それは真実であるということだ。
通常、常識的に、一般的には清音で始まるはずの第一声の第一語が、五百歩ほど譲って濁音始まりのそれが、杉崎家のがくぽの始まりのとき、
「半濁音ですね!」
「―――――――っっ!!!!」
空気を読めないから読まないことに定評のあるKAITO、今はドジっ娘メイドという属性付加によりさらにパワーアップ中のカイトが明るくトドメを刺し、へきるの上げた悲鳴は人間の可聴域を超えた。