言葉に直すなら、『あっかんべーおしりぺんぺん!』といった感じで、ひらりと身を翻し、背中を向けて駆け去っていく。

道端に座り込んで見送ったカイトは、伸ばした手を中途半端に撓めてから、諦めたように膝を抱えた。

「あーあ………………………………フラれちゃった」

「んなにぃっ?!」

和音と若音

「へ?」

ぼそりとこぼした慨嘆に、思いもよらず返答があった。カイトは座り込んだまま、きょとんと振り向く。

車一台がようやく通れる狭い道の反対側の歩道に、同居人――カイトの『弟』だと主張する、がくぽがいた。

いたのだが。

「ふ、ふられ…………っ?!」

「…………うーわーあ、がくぽ……………なにその、オモシロイ顔……………」

カイトと同じ芸能特化型ロイド/ボーカロイドの中でも、ずば抜けた美貌を誇るのが、がくぽだ。

だというのに今は、その美麗に過ぎる顔を無残なまでに崩壊させ、わなわなと震えていた。

思わずぼそっとつぶやいた、カイトの素直過ぎる感想は聞こえなかっただろうが、がくぽはすぐに険しい表情を取り戻すと、つかつかと歩いてきた。

「貴様、今、フラレたと」

「ああ、うん。失恋しちゃった」

いつも通りの傲岸極まりない態度で詰問されて、カイトはあっさりと頷いた。

その言葉に、がくぽの足取りが思いきり乱れる。

ぐらりと傾いで倒れかけつつ、なんとかカイトの傍に来ると、中腰となって肩を掴み、悲愴とも言える顔で覗き込んできた。

「どこの男だっ?!」

「おとこぉ…………?!」

言うまでもなく、カイトは男だ。

男のカイトがフラレたと言って、どうして詮索される相手が、同じ男なのだろう。

――やっぱり、がくぽはヘンだ。

常に抱く感想に今日も落ち着いて、カイトは肩を掴まれたまま、軽く顔を反した。

「ほら。まだいるでしょ。美人の…………」

「あ゛ぁ゛?!」

まるきりチンピラの風情で、がくぽは示されるまま、カイトの視線を追った。

いた。

美人…………………………な、ねこ。が。

「…………ぁああ゛…………っ?」

「あー、がくぽ、……また、オモシロイ顔…………」

チンピラままで表情を空白にするがくぽを見て、カイトはまたも小さくつぶやく。

言動はチンピラそのものだが、がくぽは貴族か王族かという、優美にして気品に溢れた美貌の持ち主だ。

いろいろ残念なのは逆に、親しみが持てていいと言えば、フォローになるだろうか。

しばらくがくぽの顔に見惚れてから、カイトは軽く手を振った。

「ノラじゃなくて、家ねこだと思うんだよね。だからもしかしたら、触らせてくれるかもーって、思ったんだけど」

近づくことまでは赦してくれたものの、手を伸ばしたところで、ねこはあっさりと身を翻し、――

「…………貴様な」

「まあ家ねこでも、警戒心の強い子はいるし」

仕方ないよねとつぶやき、カイトは立ち上がる。合わせて立ち上がったがくぽは、ひどく胡乱そうにカイトを見た。

「貴様な。まさか去り際に引っ掻かれて、怪我をしたりなどはしていないだろうな」

「えー。それはへーきだよ。痛いとこ、全然ないし………」

「信用ならん。貴様の頭は海綿かへちまのように、すかすかだしな!」

「えー…………」

罵りながら、がくぽはカイトの全身を検分しだす。

そうして、わずか数秒。

「貴様………………っ」

「あー、がくぽ…………オモシロイ顔の、出血大サービスディだったりするの、今日…………?」

手を持ってわなわな震えるがくぽからさくっと顔を逸らし、カイトはぼそぼそとつぶやいた。

もちろんそうやって、誤魔化せる相手ではない。

がくぽが持つカイトの手、正確に言うと中指の先。

「これはなんだ、貴様……………っ」

「………………ぁは」

ぴきぴきと引きつって訊くがくぽに、カイトはとりあえず笑う。

引っ掻き傷だ。それも、ごくわずかな。ほんの皮一枚、軽く削れた程度の。

「い、痛くないもん………痛覚神経にまで届くほどじゃないし、こんなの、適当に………」

「ふざけるなっ、このうすらぼんやりがっっ!!」

媚びる笑みで言い訳を連ねていたカイトを、がくぽは思いきり怒鳴りつけた。

怒鳴りつけるのみならず、引き気味になっていたカイトの腰を抱くと、肩に担ぎ上げる。

「ちょ、がくぽ…………っ!!」

「うすらぼんやりしているのは顔だけにしろ、貴様っ!」

「えー……………」

がくぽはカイトを担いで、飛ぶように道を歩く。

担ぎ上げられてもなお怒鳴られ、逃げようもなくお説教に晒され、カイトは諦め気味で慨嘆の声を漏らし、風のように過ぎていく景色を眺めた。

指先、ミリ単位のかすかな擦過傷だ。

ともすれば、気がつかないまま数日くらいは過ごしていそうな。

小さなちいさな、字義通りのかすり傷。

「……………だって、言ってんのに、………………」

「あ゛あ゛?」

肩に担がれたまま家に飛んで連れ帰られたカイトは、リビングのソファに放り出され、がくぽによる手厚い手当てを受けた。

手厚い、だ。

補修剤を軽く塗っておけばいいだけの傷だというのに、入念に擦りこみ、さらにはぐるぐる巻きに包帯までされた。

厳重に巻かれた包帯によって膨らんだ指を見つめ、カイトは肩を落とす。そのカイトを、救急箱を片付けていたがくぽが険しい瞳で睨んだ。

「俺のものに傷をつける、貴様が悪いんだろうが」

「おれのもの…………?」

というのはもしかして、カイトのことだろうか。

この場合、それ以外に対象もいないが、それでもカイトは首を傾げた。

がくぽの中では、カイトはいつから『自分のもの』なのだろう。

「うすらぼんやりしおって。勝手に失恋した挙句、傷まで作るなど」

「あー………。うん、はぁい。ごめんねー」

誠意の欠片もなく謝るカイトに、がくぽは舌を鳴らしながら自分の頭に手をかけた。高く、きれいに結い上げた髪を解く。

「あ………」

ばらりと散る、紫光の滝にうっとりと見惚れたカイトの元へ、がくぽはつかつかとやって来た。

険しい表情はそのままに、カイトの隣にどっかり座る。体を反すと、ぐいっと頭を突き出した。

「撫でさせてやる。好きなだけ撫でろ」

「はえ?」

きょとんとして瞳を瞬かせるカイトに、がくぽはさらにぐいぐいと頭を突き出す。

「撫でろ。外のねこなんぞ撫でたがらんでも、言えば俺をいくらでも撫でさせてやるというのに。まったく、兄でありながら、貴様の手の掛かることと言ったら………」

「……………」

それとこれとは、ちょっと違う。

しかもそうまで撫でたかったというか、単に撫でられそうだったから、トライしてみただけというか。

「おい」

「あー、はぁい……」

ぶつくさと腐し続けるがくぽをきょときょとんと見ていたカイトだが、ぎろりと睨まれ、仕方なく手を伸ばした。

がくぽは言い出したら、自分の思うとおりになるまで引かない。怒鳴って喚いて力ずくで、強引にカイトに言うことを聞かせる。

主に面倒さで手を伸ばしたカイトだったが、ほんのり冷たく艶やかな髪を梳いているその瞳はやわらかに解け、次いできゅっと細くなった。

「あー………」

包帯を巻かれて、膨らんだ指。

伸ばしたその手を弾かれて、背を向けて走り去られた。

ねこは警戒心が強いものだし、そう簡単に撫でられると思ってもいなかった。そうやられても、やっぱりと思っただけ。

だと、思っていた。

「…………ぷふ」

「なにを笑う」

「んー。うん」

吹き出したカイトを、よしよしと撫でられ梳かれるまま大人しくしていたがくぽが睨む。

カイトはさらに笑って、片手ではなく両手でがくぽの頭を抱き、長い髪を梳いた。

傷ついていないと、思っていた。痛くないと。

けれどがくぽは、カイトの指に創られた小さな傷を見つけた。

うすらぼんやりがと罵られるけれど、確かに自分はうすらぼんやりだと、カイトは思う。

ねこに背かれて去られて、やっぱりと思ったのは、意識の表層。

奥底で『傷ついて』いた自分がいることに、がくぽを撫でて気がついた。

カイトが傷ついていると、やはりがくぽは先に気がついて――癒すための代替品として、自分を。

「がくぽね。がくぽって、ねこじゃなくて、犬だよね、どっちかっていうと。大型犬」

「いぃぬぅだぁあ~~~っ?」

カイトが笑いながらこぼした感想に、案の定、がくぽは綺麗な顔を壮絶に歪めた。ぴしぴしびしびしと、空気のひび割れる音が聞こえそうな不機嫌顔だ。

慣れているので怯むこともなく、カイトは笑ってがくぽを撫で続ける。

「貴様……………ふざけるなよ……………っ。よりによって、俺が狗だなどと…………」

「ん、ぁ………ぁはは、がくぽ……っ、っ…………」

のそりと顔を上げたがくぽは、犬そのままのしぐさでカイトの頬に鼻を押しつけ、ぺろりとくちびるを舐めた。

思わず首を竦めて笑ったカイトの口の中に素早く舌を差し込むと、覆うようにくちびるを合わせてくる。

「ん………っ、ふ、ぁ…………、ん、ぁ…………っ」

伸し掛かられるまま、カイトはソファにころんと転がる。それもがくぽは追いかけて来て、口の中をしつこく弄った。

ぴちゃぴちゃちゅぷちゅぷと、まるで動物が水を舐めるような音を立てながら口を漁られ、唾液を啜り上げられる。

しばらくしてカイトの手から力が抜けたところで、がくぽはようやく離れた。

糸を引く唾液を啜り、濡れたくちびるを舐めながら、がくぽは鼻を鳴らす。

「…………貴様、狗とこんなことをするつもりかこのうすらぼんやりが…………」

「ぁ…………ふ」

痺れるくちびるを舐められて、カイトは笑う。

兄弟でだって、こんなことはしない。

兄弟でもしないけれど――がくぽの態度はまんま、テレビなどで見る『犬』そのものだ。

『飼い主』の意識が自分から逸れると、きゃんきゃんわんわん吠え立てて猛烈に抗議し、挙句いじける。

けれど『飼い主』がめげていると見るや、自分の全身全霊を尽くして、懸命に慰めようとする――

「ぜったい、がくぽって、犬」

「ぁ゛あ゛?!まだ言う…………っ」

カイトは凄もうとするがくぽの首に腕を回して、強引に自分へと引き寄せる。

牙をむき出すくちびるを、笑みの形をしたカイトのくちびるが覆った。