Tussie Mussie
小さな夜をゆくための奇貨寓話集
それで、その瞬間に、カイトの頭はもう、真っ白だ。なにもかもがまっさらきれいに、弾けて飛ぶ。
つまり、カイトの現在地だ。がくぽの膝の上だ――乗りたくて乗った膝ではない。がくぽに強引に乗せられた膝だ。
つまり、つまり――曰く、がくぽはカイトの『椅子』なのである。
「否、ただの椅子ではないぞ?またと得難き座り心地の、そなたにとって最上にして最高なる、至高と言って差し支えない…」
どうでもいい。
そんなことは、すごく、とても、どうでもいいことだ。
大体にしてカイトは、こんなに四六時中しゃべり続けの『椅子』など聞いたことがないし、否、そもそも『しゃべる椅子』自体がどうだ。どうなのだ。椅子が好き勝手にしゃべったら通常、それは怪奇現象ではないのか。怪談だ。乱歩ならヘンタイだ。どのみちタイヘンだ。
挙句がくぽは、なにくれとなくカイトに触れる。髪を梳いたり、背を撫でたり、腹を赤子相手のようにあやし叩いたり――
これは、そう、これは、これはもう、せくはらだ!せくしゅあるはらすめんとである!!めめんともり!
――といった結論にカイトが至ったのもつまるところ、ちょっとしたパニックに陥っていればこそだった。
そもそも同居を始めて日が浅く、互いへの理解も浅い。
だというのにこの同居の開始から、ずっとがくぽはカイトの度肝を抜き続け、呆然自失とさせ続け、非常識かつ自儘に、やりたい放題、やらかし続けた。
少しばかりネジのずれたキャラクタが多いと言われるVOCALOIDの中でも、堅実と常識派の筆頭とされるシリーズがくぽ――『神威がくぽ』でありながら、だ。
いかに鷹揚を謳われるカイト――KAITOシリーズとはいえ、さすがにいい加減、過ぎた。
そういうわけで、混乱と困惑と動転とを積み重ねて減らす余地もなく、本日この瞬間、とうとうカイトの堪忍袋の緒は切れた。
で、ほどよくぷちパニック状態のカイトは、そのまま亜光速で思考を空転させた。
つまり、相変わらず『せくはら』され中なのである。せくはらは、いくない。いくないことをされ中で、され続けの、されこうべだ。
とはいえ、まともに諭して聞く耳のある相手とも思えない。
なにしろこのがくぽ、ロイドにとって決して無視できない最上位者であるはずのマスターの言葉ですら、いっさいの容赦も呵責もなく聞き流すような輩なのだ。しかも、ごく頻繁かつ日常的に、かつ、悪意も他意すらもなく、いっそ無邪気に。
まともな手段ではだめだ――カイトは固く、思いこんでいた。パニック中だからだ。パニック中であるとは、そういうことだ。同時にそうなるほどまともでなく、がくぽが追いこんだということでもある。
とにかく、まともな手段ではだめだ――そう悩む間中もせくはらはツヅクよどこまでも――ほらまた、前髪すくってちゅうとか、会って数日の、友人すら未満値の同居人を相手にやるか?!
「………っっ!!」
「ん?どうした、カイト…」
そこでついに閃きを得たカイトは、若干、ホラー映画を思わせる勢いでがくぽと顔を合わせた。
セクハラ男である。
目には目を、歯には歯を、セクハラにはセクハラを――
ちゅうにはちゅうを!!
――といった結論にカイトが至ったのもつまるところ、パニックが結構めに極まっていればこそだった。
そして、思いつくや即座にがくぽの頬を両手で挟みこみ、紅を塗らずとも艶めかしいくちびるに、ためらいもなく自らのくちびるを押しつけたことも、また。
触れて、押しつけて、離れる。
それだけだが、――カイトはそれでなんだか、気が晴れてしまった。鷹揚なのだ。基本、過ぎて鷹揚なのだ、KAITOシリーズというものは。
で、わだかまりがほどけたカイトは、いわば『してやったり』という得意顔で、どうだとがくぽを見た。
出会った当初からカイトの椅子を自称し、スキンシップ過多で、言うこと為すこと、いい加減常識外れも過ぎる、規格外な『がくぽ』――
「ぅ…っ?あ、え……ぇえ、ぁ、………かぃ、っいや、俺はだな、そんな、別に、こういうっ…っ」
「………………………」
これまでとはまったく違う意味で呆然として、カイトはがくぽを見つめていた。
がくぽはカイトが触れたくちびるを片手で押さえ、目を伏せて、ひどく恥じらい、照れきっていた。ぬめるように白い肌を罪なほど赤く染め上げ、周章狼狽の様子だ。
がくぽが、あの『がくぽ』が、だ。
そう。
カイトにキスをされても嫌悪の情がいっさいないどころか、初心にも過ぎる、――処女めいた雰囲気すら醸して。
「だからだなっ、つまり、かぃ…っ、ぅっ?!」
しばらく唖然と見つめていたカイトだが、やにわにがくぽの頬を両手で挟みこみ直した。
驚いて見つめるがくぽの、花色の瞳。
その瞳に、自分が映っている。間違いなく伝わるよう、ことさら大きく、ゆっくり動かした、くちびる。
――かわいい。
同時に映った笑みが、我ながら悪魔的だなと。
若干冷静に分析しつつ、カイトは再び、がくぽのくちびるへ――