ことり、ダイヤ、かがみとやぎ
小さな夜をゆくための奇貨寓話集
気配に敏く顔を上げたカイトは、静かに微笑んだ。人差し指を立てるとくちびるに当て、小さく首を傾げる。
「っっ………」
カイトの『静かに』のジェスチュアを認めたマスターは、両手のひらを口に当てた。それはもう、素直かつ、非常に素早い動きだった。
そのさまがいいようにツボに入ったカイトは堪えきれず、肩を震わせる。
けれど、静かに――あくまでも、『静かに』。
マスターといえば、カイトの様子に構うどころではない。足音すら忍ばせ、リビングに入った。無遠慮に開いた扉も音を立てないよう、慎重に閉ざす。
それから、ようやくソファに座るカイト――そして、その膝を枕に、横になるがくぽの元へ。
『ねてる?』
口を開いたはものの、声を潜めても足らないと、マスターは音を出さず、くちびるの動きだけで訊く。
無垢な瞳でマスターを見つめるカイトは、綻んでいたくちびるをいっそうの笑みに緩め、頷いた。
『ねてる』
音はなく、くちびるだけで――
『かわいい』
「ぐっ、ぶふっ!」
ほんとうにかわいくて仕様がないとばかりの、蕩ける笑みで言ったカイトに、不意を突かれたマスターは堪えきれず、吹き出した。
慌てて口を塞ぎ、それでも足らないと後ろも向くが――
「………………………………………………」
「ご、ごめ………」
ようやく発作を治めて振り返れば、至極不満そうなカイトの瞳が迎えた。マスターは気まずく口を開きかけ、ほとんど反射で上がった自分の片手で、その口を塞ぐ。
なにかを呑みこんで、咽喉が大きく上下し――
『ごめんなさい』
「……」
音を呑みこみ、くちびるだけ――否、両手を合わせての拝みこむ姿勢とともに謝ったマスターに、カイトはひと瞬きした。過ぎる無垢から深淵にも似る瞳が、頭を下げるマスターを覗きこむ。
しかし、長くはない。
大ぶりなジェスチュアで誤魔化すのではなく、心から反省しているのだと――
マスターが浮かべる表情から、すぐさま読み取れたからだ。
機嫌を直したカイトは瞳を細め、膝を枕に、腹に顔を埋めるようにして横たわる相手を見下ろした。未だ眠りは深く、安寧の内にある――
散らばる長い髪を掬い、梳く手のやさしさに、あるいは向ける表情の甘やかさに、マスターの表情も綻んだ。
「す…」
音の気配に顔を上げたカイトへ、マスターは微笑みとともに、くちびるだけを動かした。
『すき。なんだね』
読み取り、ひと瞬きして、カイトは指に絡めた紫煌の髪のひと房を持ち上げた。くちびるに当て、瞳を伏せる。
『すき』
音もなく、けれど力強く返し、カイトは再び顔を上げた。笑う、くちびるが動く。
『ほんとに、すごく、かわいい』
「――」
今度はマスターがひと瞬きし、――
軽く、天を仰ぎ。
合わせた両手は、先とは意味が違う。下げた頭も、神妙な表情の由縁も。
『ごちそうさまでした』
くちびるの動きを読んだカイトは声もなく、けれどひどく愉しげに笑った。