すずめのせんせ
小さな夜をゆくための奇貨寓話集
ことに難易度が高いわけではない。が、どうしても苦手な、掴みにくいリズムというものがある。
「♪‐♪、ったっ!」
――自分でも音がずれたとわかったその瞬間、がくぽは強い衝撃を受けた。
が、これは心理的な、比喩だけの話ではない。心理的な衝撃を受けたところで、重ねて肉体的な打撃をも加えられたという。
カイトだ。
がくぽの傍らに座っているのだが、肩に頭突きをかましてきた。表情は、完全にむくれている。
というのも、がくぽがこの音を外すのが今に始まったことではないからだ。今に始まったことではないというか、新しく与えられた曲の、同じところでつまずくこと、はや幾度目か――
初めこそ、懸命に音を追いかけるがくぽを応援するように傍らに在ってくれたカイトだが、どうやら我慢の限界を超えた模様だ。鷹揚さを謳われる機種だ。
しかし我慢の限界を超えるほど、がくぽは何度もなんどもなんども――
とはいえがくぽとて、好きで間違えているわけではない。
「………二重苦もいいところだぞ、カイト」
がくぽは容赦のない頭突きをかまされた肩をさすりつつ、ぼやく。
が、そうやって泣きの入ったがくぽを、カイトが見てくれることはなかった。
カイトといえば、むくれた表情まま、常になく荒っぽいしぐさで立ち上がっていた。クッションやらあれやらこれやら、リビングの床に散らばるものを投げるように脇へ寄せる。
最後に、同じく放り出していた自分のマフラーを取ると、それを首に巻くのでなく、ひれのように持った。
足が、刻むのはリズムだ。
「………カイト?」
「……っ」
花色の瞳を不可解に瞬かせたがくぽを、カイトは滅多になくきつい瞳で睨んだ。
一瞬だ。
すぐに瞳は和らぎ、というよりがくぽから逸れ、上げた自らの手の先を追った。
やわらかに、カイトの体が揺らぎだす。足が刻むリズムと、山谷を描き、あるいは弧を描く手と――
「あ………あ、ああ。っあ……っ」
なんとなし、カイトのやりだしたことが見えて、がくぽは慌てて譜面に目を戻した。その譜面を、ひれとしてカイトとともに舞うマフラーがやわらかに、しかし容赦なく払いのける。
「っ、………っ」
束の間、途方に暮れたがくぽだが、すぐに気を取り直した。
やり直しもし過ぎて、もはや完璧に暗譜している。首を傾け、うつむき、確かめながらうたう段階など、とうに過ぎているのだ。
あとは顔を上げ、咽喉を開き、声を――
「♪‐♪、っ、ぅ……っ」
付け焼き刃の合わせにしては上々だと思えたのは初めだけで、やはりがくぽは同じところでつまずいた。
音が狂ったと自分でわかった瞬間、咽喉が閉じて、声が萎み、顔が下を――
「っっ!」
「ぅっ?!」
カイトが強く踏み鳴らした足の音で、がくぽは慌てて顔を上げた。
がくぽの花色の瞳が自分を見たことを確かめ、カイトはなにごともなかったかのように、初めからまた、リズムを刻み始める。足が軽やかに跳ね、併せて手が上がり、下がり、――
くり返し、三度も合わせると、がくぽもカイトの振りつけの意味がわかってきた。
ロイドとして当たりまえだが、カイトはそう、複雑な動きを自ら考案したわけではない。足でリズムを、音程の上げ下げを腕で、付加された記号の意味をひれで補っている。
――それはそれで、才能が突出しているのでは。
カイトの動きを懸命に追いつつも、がくぽは己との力量差を考えずにはおれず、疲れきった。
そもそも本来のうたい手であるがくぽ以上に曲を理解しているからこそ、できることでもある。そう気づくと、ますますもって疲労感が募るというものだ。
そういう具合に、自信喪失も甚だしい状態のがくぽだったがしかし、見せつけられた才能の差に自棄を深める暇はなかった。
否、『なかった』のではない、『与えられなかった』、だ。
三度、がくぽがつまずき、立ち止まっても、カイトは飽く様子も倦む様子もなく、即座に初めからやり直した。
もういいと――自分の不甲斐なさに付き合わずとも、そう、才能の差を見せつけずとも、もういいと。
言える気配でも気迫でもなく、がくぽは圧し負けて引きずられるように、引きずられて、カイトの動きを懸命に追い、歌詞を、音を、声を、乗せた。
――目は、些事を捉えるのではなく、広く、大きく、
――足音を、リズムを感じればいいのは、腹で、
――声は、ひれの先に、先に、上に、絡ませ、離れず、………
「♪-♪、♪」
気がつけば音が続き、声が止まることはなく、がくぽはますます伸びやかに、笑みを浮かべ、カイトを舞わせた。
ふてくされたようだったカイトの表情も咲き綻び、足はさらに軽く、腕は大きく、ひれは優美に、がくぽのうたに乗って、滑らかに流れる。
つまずくことのないうたを、二度、くり返して、カイトはようやく動きを止めた。
「♪」
「っと、っ!」
上機嫌で飛びついてきたカイトを危うく受け止め、――
抱きしめるがくぽの腕の力は否応なくきつく、強くなったが、カイトがクレームをつけることはなかった。