さてそろそろ寝ようと思ってがくぽが布団に手をかけたところで、枕を抱えたカイトが勢いよく飛びこんできた。
勢いよく飛びこんできたものの、枕元に座ってがくぽと相対すると、そこで固まった。
ディル・ディル・ディル
小さな夜をゆくための奇貨寓話集
くちびるが戦慄き、開いて、――力を失い、閉じる。
あとには、絶望にも似た色を宿して揺らぎ見つめる湖面の瞳があるだけだ。
きつく引き結ばれたくちびるは二度とは開かず、けれど瞳はがくぽへ縋る。
縋るが、その理由を説き明かす言葉を吐くことはない――
「まあな」
しばらくそんなカイトを観察してから、がくぽは鷹揚に口を開いた。
「確かに説明し難い、なんとも言葉にし難いことというのは、あるな。願いは強く曲げられずとも、さていざ要望にはし難いということは、ままある。ましてなんだ、……同居して、三日目か?俺もいい加減、そなたが掴めておらぬが、そなたとて、『俺』という男の性根が掴みきれてはおらぬものな。なおのこと、口にし難いこともあろうさ」
がくぽの声音にも態度にも苛立ちはなく、不機嫌も不愉快も、片鱗すらなかった。どこまでも鷹揚に、理解を示す。ただ、理解だけを。
言う通り、同居も始めたばかりであれば、相手がなにを考えているのか、なにを考える相手であるのかというのを図り難いのは、ごく普通のことだ。
けれどだからこそ、いつも以上に気をつけて言葉を尽くし、考えを伝える努力を怠ってはいけないはずだ。
はずだが、がくぽがカイトへそうとまで諭す気配は、いっさいなかった。
いっさいなく鷹揚なまま、しかし止まることを知らず、がくぽは流れるように言葉を連ね重ねる。
「まあしかしごく常識的に判断して、たとえ枕を抱えていたところで枕元に座るだけで布団に入らぬならば、眠れぬな。いやまあ、ロイドだ。人間とは『睡眠』のありようが違う。やってやれぬことはないが、そうまでしてやってやるべき理由のほうがむしろ思い当たらんだろう。いかにそなたが思考の突飛さを謳われるKAITOシリーズであろうともな?」
――『ごく常識的に判断し』たときに、だ。
いったいどうしてこの状況で、『部屋に虫かおばけが出たかして、こわくて逃げてきたのか』とか、『自分といっしょに寝たいのか』という選択肢がいっさい出てこないのか。
思考が突飛なのは、むしろがくぽのほうだと。
だんまりを決めこんでいる身であれば、まったく言えた義理ではないのだが、カイトは枕を抱えたまま唖然として、布団を挟み相対して座るがくぽを見ていた。
いっそ皮肉かいやみを続けられたというならまだわかるのだが、がくぽはどこまでもどこまでも真剣で、まじめなようだ。見つめられても構わず、鼻の頭にしわを寄せ、首を傾げる。
「………否、確定するまで、すべての可能性は『起こり得る』と仮定しおくべきか?除外すべきではないか。なにしろそれこそ、KAITOシリーズゆえな…」
「……っ」
同居も始めたばかりであれば、相手がなにを考えているのか、なにを考える相手であるのかというのを図り難いのは、ごく普通のことだ。
だからいつも以上に気をつけて言葉を尽くし、考えを伝える努力を怠ってはいけないのだが――
止まることを知らず、がくぽが言葉を連ね重ね、考えを伝えれば伝えるほど、カイトには『がくぽ』がわからなくなる。
いくらどうでもその評価はあんまりだと、ほとんど愕然と見つめるだけとなったカイトへ、がくぽは笑った。笑って手を伸ばし、自らの枕を掴んで、わずかに位置をずらす。
空けた布団の半分を、軽く叩いて示した。
「というわけで、カイト。枕は布団に置け」
「っ!」
揺らぐ湖面の瞳を見開いたカイトへ、がくぽは頷いた。
「ふむ。やはりそれで良かったか」
「……っ」
今度の言葉はつぶやきであって、カイトへ告げたというものではなかった。
けれどそれでようやくカイトは、無為と言葉を弄するがくぽの意図を察した。
カイトの反応を探っていたのだ。
弄する言葉に揺れて返すカイトの反応を掬い取り、あるいは揺れず反応しない言葉を省いていくことで意図を絞りこみ、組み立てて、伝えられない願いを探っていた。
未だよく知らない相手であれば、勝手な判断で除くことなく、すべての選択肢を並べたて――
枕を抱える腕から、凝り固まっていた体から、魂でも抜けるように力が抜けていく。
そのカイトへ、がくぽはごくきまじめに頷いた。
「なに、案ずるな。もちろん俺は、抱き枕にもなれる。そなたにとって最上の座り心地の椅子であることが俺の本来ではあるが、抱き枕としても十全に機能することを………」
そこまで言って、がくぽは口を噤んだ。言う間に恨みがましさを宿して睨んでくるカイトに、花色の瞳を瞬かせる。
あえかに首を傾げ――かけて、ふいにその花色が得心を宿し、煌いた。
「逆か。そうか。そなたが抱き枕か。昼間の俺の、椅子の礼に、夜はそなたが俺の抱き枕となると」
「~~~っ!!」
耳朶のみならず、顔からうなじから全身を火照らせたカイトは、抱えていた枕を投げつけた。がくぽが空けてくれた、がくぽの枕の隣の空白にだ。
ほとんど投げつける勢いで乱暴に置くと、羞恥の涙に潤む瞳で険しくがくぽを睨みつける。
塗り上げたように真っ赤に染まりながら睨んで、カイトは倒れこむようにがくぽへと抱きついた。
「っははっ!」
これでほんとうに眠れるのかというほど朗らかに弾む笑い声を響かせ、がくぽはカイトをしっかりと抱き返した。
諸共に布団へ倒れ――
とはいえ一度離れ、消灯して布団を掛け直しまでしてから、がくぽは改めて、この不器用な同居人を抱きしめた。子どもがお気に入りのぬいぐるみを抱くように抱きくるんで、頬をすり寄せる。
「まあ、言っても今宵はきっとな、『お試し』だろう?うむ、ことの初めらしくて良い。良いぞ。お試しから継続するもよし、改良の間を置くもよし、断念するもよし………良し良しだ、カイト。良し良しだぞ。そなたも好きに愉しめよ」
「………っ」
――カイトの抱える負い目など、自分にとってはなにほどのこともないのだと。
連ね重ねて弄される言葉の奥深くに隠れる意味に、いたって当然と与えられる思いやりに、カイトは刹那、きつくくちびるを引き結び――
ほどけた。
そう、『良し良し』だ。
『良し良し』なのだ。
この男のそばに在れば、きっとすべてのことは『良し良し』となる――
くちびるだけでなく全身がほどけてがくぽに預けられ、カイトは甘えるようにすりつく。抱いた確信の重さは瞼にかかり、抗う気も起きなかったカイトはそのまま目を閉じ、寝に入った。
がくぽはそんなカイトの髪を、やわらかに梳いていてくれた。