アイス<キス
「あーん」
リビングのソファに座ったがくぽの膝に乗せられたカイトが、しあわせに緩んだ顔で口を開く。
がくぽはアイスカップから最後のひと匙を掬って、カイトの口に差しこんだ。
「よし、これで終いだ」
「ほええ?!」
スプーンを抜きだしながら言うと、カイトは大きな瞳をさらに大きく見張って、驚愕を隠しもせずにがくぽを見た。
「おわり?おわりって、おわり?!」
「ああ。終いだ。今日のアイスはここまで」
悲愴な表情で縋りつくカイトにも、がくぽはきっぱりと言い切る。空になったアイスカップを振って示して、頷いた。
「おやつはカップ三個までと決めたろう。これで三個めだ」
「ややややや」
淡々と言うがくぽに、縋りつくカイトはわなわなと震えた。
一度仰け反ってから猛然と顔を戻し、
「やだぁあああああ!!」
絶叫した。
「やだやだやだやだやだ!!アイスアイスアイスアイスぅうううう!!まだ食べたいたべたいたべたいよぉっ!!」
駄々っ子そのままに叫ぶカイトに、がくぽは眉をひそめた。
KAITOシリーズの御多分に漏れず、カイトもアイスが大好きだ。毎日のおやつのたびに、この攻防をくり返している。
アイスを前にさえしていなければ、一回に三個までだぞ、と言っても、素直にわかったと頷く。
しかし一度アイスを食べだすと、約束がすべて、お空の彼方にすっ飛んでしまう。
アイス以外で約束したことは、へそを曲げさえしなければすっ飛ぶことはないから、そもそもが約束を守れない性格というわけでもないだろう。
だが、アイスだけはどうしてもだめだと。
どんなにご機嫌にさせておいても、アイスを前にしていないときにどれだけ言い聞かせても、毎日の攻防がなくなることはない。
「カイト」
「アイスアイスアイスアイスアイスぅうううう!!がくぽぉ、アイス!!アイスちょぉだい、アイスぅ!!」
着物の袷を引っ張り、胸をどんどんと叩き、カイトはがくぽの膝の上で暴れる。
頑丈なソファだから多少暴れても壊れることはないが、がくぽの足がそれなりに痛い。
がくぽは空のアイスカップとスプーンをローテーブルに放り出すと、喚くカイトの頬を軽くつまんだ。
「カイト、聞き分けろ。キスするぞ」
「…っ」
困惑とともに吐き出されたがくぽの言葉に、カイトはぴたりと止まる。
がくぽの着物の袷を掴んだまま、ちょこりと首を傾げた。
「キスするの?」
「ああ」
かわいらしい問いに、がくぽは眉をひそめたまま、それでも頷く。
カイトは小難しい顔になって、うにゅにゅにゅ、と考えこんだ。
しかし長くはない。すぐに顔を上げると、がくぽの首に手を回した。
「キス!」
「はいはい」
無邪気な言葉とともに、駄々っ子を止めて喜色に輝くカイトの顔が近づく。
がくぽは肩を竦め、カイトの後頭部に手を添えると、強請られるままに口づけた。
ちゅ、と音高くくちびるが合わさり、離れる。
「ぇへへへへ」
「よしよし」
「もっと!」
「ああ」
今日も丸く収まった、とがくぽは安堵しながら、カイトに顔を寄せる。
「よーし、がくぽ!そこに座れ!!説教だ!!」
「…」
「ん!」
くちびるが触れ合う寸前に落ちてきた声に、がくぽはぴたりと止まった。しかしカイトは止まらず、結局キスは続行される。
ちゅ、と音高くくちびるが合わさり、離れたところで、がくぽはカイトの頭を掴んで押さえた。
「マスター、俺はもう座っているのだが」
ソファの前で腕を組んで仁王立ちするマスターを見上げ、がくぽは淡々と言い返す。
仕事から帰って来たばかりのマスターは、うんうんと頷いた。
「よし、じゃあ、すぐにも説教だ!」
「そうか」
がくぽは素直に頷き、わずかに居住いを正す。
「がくぽー」
頭を押さえられたカイトが、甘ったれた強請り声を上げた。
仁王立ちしたマスターは、厳然とカイトを見下ろす。
「カイト、マスターががくぽにお説教するから、膝からおんりしなさい」
「んー?」
振り返ってマスターを見つめ、少しだけ考えてから、カイトはがくぽの首にかじりついた。
「やだ!」
「うむ、そのままでよし!」
拒絶に速攻で諦め、マスターはカイトの頭を撫でるがくぽへと顔を向けた。
「がくぽ、おまえな。幼気なカイトに、いったいなにをしているのかな?!」
「いたいけ」
マスターが放ったカイトの形容を、がくぽは無感情にくり返す。
カイトはこれでいて成人男子だ。――見た目だけ、という註釈がつくのだが。
その見た目も、天然無邪気な言動に惑わされて頻繁に幼く見えるから、罠だ。
マスターは肩を怒らせ、がくぽを見据える。
「聞き分けないとお仕置きにキスするぞ、なんて、どこのエロゲを参考にしたんだ、がくぽ!おかーさんはがくぽをそんなこに育てた覚えはありません!!」
きりきりと言われ、がくぽは素直に頭を下げた。
「ごめんなさい、おかーさん」
「だれがおかーさんだ、がくぽ!!俺はマスターで、しかも男だ!」
「…」
仮にもロイド保護官として長年働いているマスターなのに、ロイドに対してこんな混乱した態度を取っていいのかとは思う。
思うが、がくぽは特にそこにツッコみはせず、無感情にマスターを見上げた。
見つめられたマスターは、困惑に眉をひそめる。組んだ腕を、指が忙しなく叩いた。
「いいか、がくぽ。そもそも俺には、果てしなく疑問があった。なんでおまえ、食事のたびにカイトを膝に乗せて、給餌してるんだ」
そう。
がくぽは食事となると、カイトを膝に乗せ、親鳥かなにかのように給餌した。
カイトが来てからというもの、マスターは彼が箸やスプーンを持つところを見たことがない。
すべてがくぽが食べさせるからだ。
それも、必ず膝抱っこ。
これが幼い子供であるならともかく、見た目は成人しているカイトだ。
扱いがおかしいこと甚だしい。たとえ見た目だけの成人であろうとも。
そのマスターの問いに、がくぽはかえって不思議そうに首を傾げた。
「きちんと面倒を見るからと、約束したろう」
「んぁ?」
「カイトを飼うと言ったときに、俺がきちんと面倒を見るからと」
「…」
がくぽの答えに、マスターは微妙な表情になった。
確かに言った。拾ってきた犬ねこを抱いた子供が必ず言う台詞、ちゃんと面倒見るから飼っていいでしょ?!を。
言ったことは言ったが。
「がくぽ、ロイドを『飼う』とか言わない。仮にもおまえ、ロイド保護官のロイドなんだから」
「ごめんなさい」
「うん、わかればいい」
素直に謝ったがくぽに鷹揚に頷き、マスターは顎を撫でた。
つまりがくぽは、面倒を見るという約束を守っている、と。
「…………果てしなくずれている……………っ」
「マスター?」
くずおれかけたマスターを、がくぽは不思議そうに見る。
なんとか体勢を整え直し、マスターはカイトを抱っこしたままのがくぽを、困ったように見つめた。
「約束を守れるのはいい子だ。おまえはいい子だよ、がくぽ。だけどな、なんでキスだ。それは下手すれば、性的虐待に当たるんだぞ?」
「それは…」
それまで端然としていたがくぽだが、初めてその瞳が揺らいだ。
首にかじりついたまま離れないカイトの後頭部を見やり、その頭を撫でる。
「…………………なにを言うても聞かぬで、困っていたときに……………口塞ぎと思うて試しにキスしたら、それ以降、気に入ってしまって………………」
「がくぽ…………………」
今度こそ耐えきれず、マスターは床に膝をついた。
なんだその困惑。
口塞ぎでキスするなら、もっと劣情を高まらせたうえでやってくれないものか。そんなほとほと困り果てたように続行しなくても。
「いや、劣情を高まらせちゃいかん!」
そう、それはまずい。
まずいが、しかし。
「がくぽ、おまえな…………そうやって、したくもない」
「飽きた!!」
説教が別の展開を見せようとした瞬間に、がくぽの首にかじりついていたカイトが顔を上げて、高らかに宣言した。
「待ってるの飽きた!!マスターマスター、お説教まだ?まだやる?俺飽きた!!」
「そうかカイト、飽きたか!じゃあ止めよう!!なにかして遊ぼう!!」
カイトの問いに速攻で返し、マスターは床に胡坐を掻いた。
目線の低くなったマスターを見下ろし、カイトは無邪気に笑う。
「わぁい、ありがと、マスター!マスターもキスする?!」
「よしがくぽ、説教だ!!」
即座に前言を撤回し、マスターはきりりとがくぽを睨んだ。
キスの『基本』を教えていないとは、由々しき問題だ。このままではカイトは、無闇なキス魔となってしまう。
だが今回の場合、がくぽのほうもひどく困惑した顔で、カイトを見つめていた。
その頬に手をやると、自分のほうへと向け直す。
「カイト。キスは俺だけだ」
「ほえ?」
「んぁ?」
戸惑いに揺れながら発された言葉に、カイトとマスターが、揃って胡乱な声を上げる。
がくぽはカイトだけを見つめ、困惑した顔のまま、くり返した。
「キスするのは、俺とだけだ。たとえマスターといえど、他の者としてはだめだ」
「んぇ」
きょとんとしていたカイトは少しだけ考え、それからとびっきりの笑顔になった。
「じゃあがくぽ、キスする?!」
「ああ」
「ん!」
上機嫌になったカイトが顔を寄せる。
がくぽはカイトの後頭部に手を回すと、そのくちびるにくちびるを合わせた。
「…………………あー…………………………」
取り残されたマスターは、ぼりぼりと頬を掻いた。
「……………………つまり、したくないわけじゃない、と。………………………んでもあの顔ってことは、なんでキスしたいかも、わかってない、と……………………」
軽く天を仰いで考えると、ぼそりとつぶやいた。
「性春の目覚め…………………………?」
部屋の中なのに、冷たい風が吹いた。