スポンジにボディソープを垂らす。
数回揉んで泡立ちを確認し、がくぽは頷いた。
石鹸ごっこ
「カイト」
「ひゃはっ!!」
湯船に浮かぶあひるさんに夢中になっていたカイトが、明るい笑い声を上げて顔を向ける。
「来い」
「ん!」
手を伸ばすと、カイトは湯船から上がり、がくぽに背中を向けてへちゃんと座った。
その体を抱えこんで、がくぽはスポンジをなすりつける。
繊細な皮膚を傷つけないように、やさしくやわらかく。泡でこそげるように、そっと。
「くすぐったい!」
「こら、暴れるな」
「でもくすぐったい!!」
抱えこんでいても、カイトは笑いながら身を捩る。がくぽは腕に力を込めてしっかりと肌を密着させ、暴れるカイトを押さえた。
「きちんと洗わねば、あとで苦労するのはおまえだぞ」
「くすぐったいもん!」
カイトは笑い、ちっともじっとしない。
そうは言っても、これでも多少の我慢はしている。
初めていっしょに入ったときに遠慮なく暴れて、滑ったがくぽがタイルに頭を打ちつけてしまったのだ。
大したことはなく済んだものの、しばらくガーゼを当てていたがくぽの記憶が相当いやだったようで、浴室では外ほど、好き勝手に振る舞わなくなった。
わかっているので、がくぽもそれ以上なにか言うこともなく、スポンジで丁寧に撫でていく。
たとえくすぐったいと言われても、力を込めて肌を擦るようなことはしない。
手のひらで撫でるように、やさしくやわらかく。
「んんっ」
「すぐ終わる。いいこにしていろ」
「んぁっ」
くすぐったいのを堪えるカイトが、かん高い声で啼く。
「ふぁ、も、がくぽぉっ」
「いいこだ」
「んんっ」
隅から隅まできれいに洗って解放すると、我慢し過ぎたカイトは少しだけくったりして、湯船に凭れかかった。
その体に適温にしたシャワーを掛け、泡をきれいに落とす。
いつもはぬめるように白い肌が、今はほんのりと薄紅に染まっている。
なめらかな肌を撫でて、がくぽは頷いた。
「そら、きれいになった。もう良いぞ。いいこだったな」
「ふひゃ…」
褒めてやると、カイトは小さく笑った。わずかに火照った顔を上げて、満足したねこのように細めた瞳で、がくぽを見上げる。
「俺、きれい?」
「ああ」
「いいこ?」
「ああ」
いちいち頷いてやり、がくぽはスポンジに新たにボディソープを垂らした。数回揉んで、泡立ちを確認する。
カイトを洗ったら、次は自分の番だ。
肌を擦ろうとしたところで、カイトの手ががくぽの手に重なった。
「俺がやる!」
「…」
「がくぽのこと、きれいにしてあげる!」
瞳がきらきら輝いている。おもちゃを前にした仔猫の瞳だ。
返答に困っている間に、カイトはスポンジを取り上げると、がくぽの前に正座した。
「ん、んん~♪」
不器用な手つきで、がくぽの肌にスポンジを当てる。ご機嫌だ。
新しいおもちゃを取り上げるのは面倒なので止めて、がくぽはカイトの手に手を添わせた。
「力が強い」
「んにゅ?」
「あまり力いっぱい擦ってはだめだ。手で撫でるように、こう」
「んくっ」
手本にカイトの体を撫でて、力加減を教えてやる。
「やってみろ」
「んんっ」
数回そんなことをくり返すと、カイトはスポンジを放り出した。
「もぉ、手でやる!!」
「…」
手でやる、と言いながら、がくぽの首にしがみついて甘えだす。さっききれいに流したのに、また泡だらけだ。
「仕方のない」
つぶやきながら、がくぽは放り出されたスポンジを取り、カイトをしがみつかせたまま器用に、自分の体を洗った。
時折、カイトの手ががくぽの肌を撫でていく。どうやら、泡を伸ばす遊びに興じているらしい。
「あわあわ!ひゃはっ」
がくぽの手を掴み、カイトは自分の体に添わせる。
「よしよし」
「んぁっ」
がくぽはおとなしく泡を伸ばす動きに応じてやって、もう一度カイトを泡まみれにした。
別に、二、三回洗ったところで、大した害があるでもない。
ふたりして泡まみれになって、ふたりしてシャワーを浴び、ふたりで湯船に入る。
がくぽの膝の間に座ったカイトは、狭い湯船の中であひるさんを泳がせて、ご満悦だ。
「カイト、十数えたら出るぞ」
「じゅう」
「そうだ。教えたろう。覚えているか」
「覚えてる!」
得意げに叫び、カイトは胸を張った。
「いち、じゅう!!」
「よし、出よう」
「ん!」
膝の上のカイトを促し、がくぽは湯船から出る。上がり湯をして、浴室の扉を開いた。
「っっ!」
脱衣所に、暗い顔で正座したマスターがいて、がくぽはびくりと竦んだ。
「マスター!!」
竦んだがくぽに対し、カイトは明るい声だ。びしょ濡れの体で、跳ねるように脱衣所に出る。
マスターの前にへちゃんと座って、その暗い顔を覗きこんだ。
「おふろ入る?」
「うん、カイト」
こっくりと頷くと、マスターはうっそりと顔を上げて、立ち竦むがくぽを見た。
「その前にな、がくぽ」
「ああ」
「風呂掃除」
「…?」
掃除用のスポンジと洗剤を渡されて、がくぽは訝しげにマスターを見下ろした。
マスターはどこまでも暗い顔で、深いふかいため息をつく。
「おうちでソープごっこは勘弁してくれ、がくぽ………………」
「そーぷ、ごっこ?」
がくぽは眉をひそめて、マスターの言葉をくり返す。
マスターの前に座ったカイトが、楽しそうに笑った。
「そーぷごっこ………………せっけんごっこ?ひゃはっ、あわあわなるの?あわあわごっこ?」
「うんそう、概ねそんな感じだ、カイト。カイトは頭がいいなー。ソープが石鹸だってわかるのか」
「うん!!」
褒められて、カイトがうれしそうに頷く。洗剤とスポンジを持つがくぽを、得意そうに振り仰いだ。
「いや、マスター……」
わずかに慌てたがくぽに、マスターは首を振った。
「あのな、がくぽ。幼気なカイトになにしてるってか、もうそれはいいわ。それはいいけど、おうちでソープごっこするんだったら、せめて事後はすぐに風呂掃除してくれ。おまえのこともカイトのことも愛してるけど、さすがに、濁り湯には入りたくない」
「マスター、誤解だ。ただ風呂に入っただけだぞ」
「体あらいっこしたー」
「うん、なにが誤解なんだ、がくぽ」
「…」
誤解だ。
確かに誤解だが、微妙に説明が難しい。
がくぽの中にある『ソープ』の知識はそれほど深いものではなく、なにがどう違うと取り上げて説明出来ない。
「………わかった」
「うん」
素直に頷いたがくぽに、マスターもしょげ返って頷く。
そうまでしょげ返られると、誤解されたことが悲しいというより、誤解させてしまったことが悲しくなる。
「がくぽ?」
「ああ」
きょとんと見上げたカイトにがくぽは、神妙な顔で頷く。
「ほらカイト。体拭け。がくぽは風呂掃除だから」
マスターが手を伸ばし、バスタオルを取ってカイトへと差し出した。カイトは両腕を広げる。
「ん」
「ん?って、『ん』?!」
「マスター、風呂掃除はもう少し待て」
「は?!」
スポンジと洗剤を置くと、がくぽはマスターの手からバスタオルを取って、カイトに被せた。
体を洗ったときと同じく、やさしくやわらかく水気を取っていく。
「ふわふわ、気持ちいい!」
「そうだな。ほら、立て。足が拭けぬ」
「ん!」
カイトは素直に立ち上がり、がくぽは全身から隈なく水気を取った。
きれいに水気を取りきると、今度は用意しておいたパジャマを取る。
「手を通せ」
「ん!」
「次は足。俺の肩に掴まれ」
「うん」
そうやって、カイトの身支度をきちんと整えてやる。
髪が濡れたままだが、そこはマスターにドライヤーを頼んで、と顔を向けて、がくぽは瞳を見張った。
マスターは床にうずくまって、完全に撃沈状態だった。
「マスター?」
「……………がくぽ、おまえな…………………」
それ以上言葉が継げず、マスターは深いふかいため息をついた。
きちんと面倒を見ると約束した、と主張するがくぽは、朝から晩まで、カイトに掛かりきりだ。
食事も膝に乗せて食べさせてやるし、時として移動も抱いて運んでいる。
実態は知らなかったが、風呂にいっしょに入っているのも最初からで、そう、最初の日は怪我をしたのだ。
けれど懲りることもめげることもなく、がくぽはカイトの面倒を見続け――というか、これはあれだ。
カイトはたぶん、うちに来た当初より、さらになにも出来なくなっている。主にがくぽがすべてやってしまうせいで。
やり過ぎだ、と言うことは出来るのだが、問題はカイトだ。
当のカイトが、それを嫌がっていないのだ。
嫌がっていないどころか、がくぽが構いつけていないと、みるみる不機嫌になる。
マスターが遊んでやってもご機嫌ではあるのだが、いちばんはがくぽだ。
がくぽが少し、なにかに気を取られたり手を取られたりすると、カイトはすぐにへそを曲げ、暴れ出す。
だが構っていれば構っているだけ、ご機嫌だし、いいこだ。
どう考えても、幼気なカイトになにをする、状態だが、その幼気なカイトが、がくぽをお望みなのだ。
そして望まれているがくぽのほうは困惑顔ながら、決してカイトを手放さない。
「うん、なんだ、あれだ………」
「マスター?」
まだ雫を垂らしているがくぽに、マスターは力無く頷いた。床に置かれたスポンジと洗剤を取り、ふらふらと浴室へ入っていく。
「マスター?」
「風呂掃除は俺がやるから。おまえはカイトの面倒見てなさい」
「マスター?!」
わけがわからないがくぽの前で、浴室の扉が閉まる。
首を捻るがくぽだったが、物思いも長くない。
「がくぽ!」
「待て、俺はまだ濡れている!」
飛びついてこようとしたカイトをタオルでブロックし、がくぽは急いで体を拭いた。
実際、カイトが来てからというもの、ぼんやりする暇はない。少しでも油断すると、このいたずらっこに組みつかれる。
「がくぽ、俺も拭く!」
「いいから、いいこにしていろ。あとでアイスをやるから」
「アイス!!」
明るく笑うカイトを見つめ、がくぽは瞳を細めた。
手は掛かるが、カイトの面倒を見るのは苦痛ではない。この明るい笑顔で、すべての苦労が帳消しになる。
「がくぽ!」
「ああ」
笑うカイトが腕を引く。がくぽは応じて、少し屈んでやった。
くちびるを、くちびるが掠めていく。
風呂上がりのくちびるは、ほんのりと温かかった。