3番目のマトリョーシカ

ソファに座るがくぽの後ろ、顔の両脇から、にゅっと手が伸びる。

閉じられたがくぽの瞼をそっと覆って、耳朶に吹き込まれる、甘く穏やかな声。

「だぁれだ?」

「イト」

迷うことなく即答したがくぽに、背後に立って目を塞いだ相手は、壮絶に顔を歪めた。

「んなんでぇええ?!今おれ、すっごいカイそっくりにできたと思ったのにぃいっ!!」

喚きながら手を離したのは、がくぽが言った通りに、イトだ。

せっかくの愛らしい顔を無残に歪めたイトは、背後で成り行きを見守っていたカイを悔しそうに振り返った。

「そっくりだったよな、カイ?!」

「うん、じょーずだった!」

こくこくと頷くカイと、地団駄を踏むイトと。

目を開いて軽く振り返ったがくぽは、くちびるに余裕の笑みを刷いた。

「これで、三戦全勝だ。すでに俺の勝ち越しは決まっているが………あと二戦、やるか?」

「ぅうぅううっ、神威がくぽっ、よゆうっ!!むかつくぅうっ!!」

「ていうけど、いっちゃん………。そもそもこれ、リベンジ戦で、そのうえで僕たち、三連敗だよ合わせると、八連敗だもん。がくぽも余裕になるよ……」

「さんよりうえはいっぱいだから、はちれんぱいとか、いみわかんないっっ!!」

「いっちゃんんん………」

勝負ごとに熱くなるのはやはり、子供っぽさでわずかに勝るイトのほうらしい。

カイはどちらかというと、すでに諦めモードに入っている。

現在三人は、がくぽとカイ・イトのKAITOコンビに分かれ、勝負の真っ最中だった。

内容は要するに、『カイとイトの区別がどれだけつけられるか』だ。

ソファに座ったがくぽの背後から、カイとイトが『だーれだ』と声を上げる。訊いた相手を、がくぽが声のみを頼りに当てるという、ごくシンプルな勝負だ。

すでに五回勝負を一度終えて、カイとイトは勝ち星ゼロのまま。

強請ったリベンジ戦ですらすでに、三戦全敗中だった。

声色を変えたり口調を変えたりといろいろやっているのだが、がくぽは今のところ負けなし、いや、負ける気配すらない。

「………ちなみにおまえ、聞き分けられるか?」

リビングの真ん中に備えた家族用ソファで勝負に興じるロイド三人を横目に、端に置いた遊戯机に向かってオセロの勝負中のミトトシが、対戦相手である海斗に訊く。

カイとイト、二人のKAITOは海斗のロイドで、調声ももちろん、彼がやっている。

「んうん、八割ぐらい。でもさっきみたいに、イトが本気だしてカイのマネしたり、カイがそうやったりすると、さすがにキビしい」

「………そうだな。私も聞き分けられなかったが」

――ちなみにチェスや将棋、囲碁などと比べれば、非常にシンプルイージーなルールなのが、オセロゲームであるはずだ。

しかし彼らは独自ルールで展開しているため、傍目には勝負の行方がさっぱりわからなかった。同じ色の駒で挟んだのに、間の駒をひっくり返さずに遠く離れた駒がひっくり返るなど、理解不能にも程がある。

「もぉ、こうなったら勝ち越しとかそういうモンダイじゃない!!どーにかして、一回でも神威がくぽのこと負かして、ぎゃふんと言わせないと気が済まない!!」

「んー。ぜったい負けないがくぽとか、かっこいーと思うけどなあ……」

「そういうモンダイじゃないんだよね、カイ!!」

まあ概ね、そういう問題ではない。

いきり立つイトと、うっとり見つめてくるカイとを眺め、がくぽはくちびるに刷く笑みの色を変えた。

どちらもどちらで、それぞれに――

「でどうする、やるのか?」

「やるっ!!もぉぜったい、神威がくぽ負かすぅううっっ!!」

訊いたがくぽに、イトがびしっと人差し指を突きつけて叫ぶ。

がくぽは笑って、前に向き直った。ソファに凭れると、目を閉じて待つ。

「えっとぉ、いっちゃん、あのね…………」

「んなに……………ん…………」

勝敗に頓着していないカイだが、作戦の七割ほどは彼の立案だ。ちょっと考えたなという作戦のときには大抵、カイが絡んでいる。

勝敗にこだわらないことと、作戦を考えられないことは、また別だ。

言い方を変えると、勝敗にこだわることと、有用な作戦を立てられることは、また別だということになる。

ごしょごしょもしょもしょとしばらく作戦会議をしていたカイとイトは、がくぽが痺れを切らす前に、ぱんと互いの手を打ち合わせた。

「よっし今度こそイケるっっ!!」

「んっ」

気合いを入れると、もそもそ動く気配――背後であるうえ、がくぽは念を入れて目を閉じている。

気配で探るしかない動きだが、焦ることもない。がくぽのくちびるは笑みすら刷いて、二人の『作戦』を挫くことを楽しみにしている。

背後、顔の両脇から、にゅっと手が伸びた。

目を閉じたがくぽの瞼をそっと覆うと、耳朶に吹き込まれる、甘くやわらかな声。

「だぁーれだ」

「っ………」

即答することなく、がくぽは反射で開きかけたくちびるを引き結んだ。

考えたなと、思う。

なるほど、迂闊に名前を答えれば、即座にがくぽの負けが決定する――そこまで考えてのことかと、一瞬疑問に思ったが、作戦を立案していたのが、カイだ。

イトならば反射の答えに単純に反応しそうだが、カイは――

「………」

「………っ」

背後から、わくわくどきどきした気配が濃厚に漂ってきて、がくぽのくちびるには笑みが戻った。

目を塞がれたまま、ソファに殊更に凭れると、ゆっくりと口を開く。

「目を塞いだのが、カイ。『誰だ』と訊いたのが、イト」

「っっっ」

「っ!!!」

答えたがくぽに、わくわくどきどきの気配が驚きに変わり――

「んなんでぇええええっっ?!こんっどこそ、カンッペキだとおもったのにぃいいいいいっっ!!!」

イトの絶叫が轟き渡り、とりもなおさずそれが、彼らの敗北宣言で、がくぽの勝利を告げるファンファーレだった。

「なんで塞いだ手と声がちがうってわかんのっ、神威がくぽ?!」

「ね。僕といっちゃんの手、おんなじだよね?」

手を離したカイも、不思議そうに自分の手をひっくりしゃっくりして見る。

カイとイトは、同じシリーズのロイドだ。性格や調声の具合で多少の差は出ても、肌の質感は同じはず。ましてや共に生活し、その暮らしにも大差ない以上、肌質に変化が出ようはずもない。

しかしがくぽは笑って、納得いかない顔のカイとイトを振り返った。

「違うぞ。二人とも、まったく」

「んえぇえ違う?」

「えーわかんない。いっちゃん、ちがう?」

「んぅーっ」

カイとイトは首を傾げ、互いの手のひらを当て、触りして、違いがあるかどうかを確認する。

がくぽは笑って、首を捻るばかりのカイとイトの手をつついた。

「ほら、違うだろうが。ちゃんと感覚を研ぎ済ませろ」

「んーーーっ………」

さすがに不思議さに唸っていたカイだが、ふと顔を上げた。振り返って楽しそうに笑っているがくぽを、じじっと見る。

「がくぽ。あといっかい」

「ん?」

なんの話だと、きょとんとしたがくぽに、カイはまじめな顔で手を伸ばした。振り返って、しかも開いたままのがくぽの瞼にそっと当てて、視界を塞ぐ。

「あー………」

そうだ、『だれだ』があと一戦、残っていた。

万策尽きたと思ったが、まだやる気なのか。

思いながら、塞がれた視界をさらに閉じるべく、瞼を下ろそうとした――ところで、がくぽはかえって、瞳を大きく見張った。

くちびるに触れる、やわらかな感触。

「…………だぁれだ?」

照れと、悪戯っこのわくわくうきうき、そして、盤石のヒーローを期待する子供のような、ときめき――

たっぷりと詰まった、蜜のように甘く滴る声に訊かれて、がくぽはこくりと咽喉を鳴らした。

「………カイ」

「んー、せーかいっ!」

答えたがくぽに勝利を告げる、カイの声は無邪気そのものだった。

ぱっと手を離すと、がっくりと項垂れたイトに向き直って、よしよしと頭を撫でてやっている。

「もー、なんなのかな、神威がくぽのスペックって………口の感触も、ちがうもんなの?」

「どぉかなぁ。僕、わかんない」

もはや地団駄を踏むレベルも超えたらしいイトは、むしろ学究の徒のごとき深遠な表情になっていた。

傍らに座ってよしよししてくれる相方に顔を寄せると、やわらかに笑うくちびるにちゅっとキスをする。

「あ、こら、己らは」

「ちがう、カイ?」

「えそんな一瞬で、わかんないよ!」

「でも、神威がくぽはわかったじゃん」

「でもいっちゃん、こんなだよ?」

言いながら、カイはイトのくちびるにちゅっとキスをする。

「おい、こら、己ら」

「これでいっちゃん、わかる?」

「ムリ。………てか、よく考えると、おれとカイでやっても意味ないくない、これおれ、おれとちゅう、できないもん」

「あ」

イトの言葉に、カイはぱかんと口を開いた。ちゅうちゅうし合う二人に、手をわきわきと鳴らしていたがくぽへ顔を向ける。

イトも顔を向け、いやんな予感に反対に身を仰け反らせたがくぽと自分のくちびるとを、交互に指差した。

「おれ、カイと神威がくぽとはちゅうするけど、『おれ』とはちゅうできないもん。おれとカイのちゅうがどうちがうかなんて、くらべらんないし、わかんないじゃん」

「だよね。僕もだよ。がくぽといっちゃんとはちゅうできるけど、僕とはできないもん。僕といっちゃんのちがいなんか、わかんないね!」

エウレカを叫び、カイとイトは至極まじめな顔で、仰け反るがくぽへ身を乗り出した。

「ねえ、ちゅう、ちがうの僕といっちゃんのちゅう」

「どうちがうのどこがちがうのおれとカイって、そんなにちがうの?」

「いや、己ら…………っ」

至難至極の問いに、がくぽはしどろもどろになった。

「世紀のハッケンだったね自分とはちゅうできないから、自分のちゅうとは、くらべられないとは!!」

心底から感嘆したように叫ぶ海斗に、ミトトシは眉間に指を当てた。皺の刻まれたそこを、ぐにぐにと揉む。

「おまえが彼らのマスターなのだということを、ときどき、納得もしたくないのに、ものすごく納得させられるんだが………」

ゲームに興じつつもロイドの勝敗の行方も追っていたマスター二人だったが、ここに来て盤面がすべて埋まった。

海斗が最後に置いた黒石が、なぜか対極の黒石をひっくり返して白にし、ついでに置いたばかりの石までもが白へと転じる。

盤面、見事に真っ白だ。

補助用の石をぴんと跳ね飛ばして受け止めた海斗は、にんまりと笑って快哉を叫んだ。

「俺の勝ちっみぃ、相変わらず弱いよねっがっくんの勝負強さを見習いなよ、『マスター』!!」