がくぽが突きつけた拳を見て、カイトが浮かべたのは『不可解』だった。

「なにつまり、君………俺のこと、殴りたいの?」

小首を傾げ、ひどく無邪気な態で訊く。怯えもなく素朴に、いっそいたいけなほど純粋な『不可解』――

SANDOKAN

カイトの眼前に突きつけられた拳には年季の入った殴りだこがあって、武骨だ。挙句、今日、この生徒会室に呼び出すきっかけとなった乱闘事案の後を引きずり、擦り傷だの切り傷だのが未だ赤々しく、なおさら不吉に映る。

それでもカイトが浮かべるのは単なる『不可解』であり、そこにがくぽに対する怯えや不信はない。

いっそ怯え、脅かされたのはむしろ、そうやって生徒会長へ拳を突きつけた問題児、がくぽのほうだった。

殴りたいのかと――

がくぽの『宣戦布告』に対し、カイトが返せる言葉はいくらでもあった。

いくらでもあって、いくらでもあったはずなのに、そのうちからカイトは的確に、まったくもって正確無比かつ無情に、がくぽがもっとも突かれたくないところを突いてきた。

まさか、殴れるわけがない。

たとえどんなことがあろうと、ほかの誰を、なにを殴ろうとも、ただこのひとだけは、このひとりだけは、決して、必ず、殴れるわけがないというのに――

ならばどうして拳を突きつけ、啖呵まで切るようなまねをしてしまったかといえば、勢いだ。

若気の至りと言おうか、売り言葉に買い言葉と言おうか、不機嫌なところで受けた説教に、感情の制御がしきれなかった。

「…っりたい、とは、ぃって、ないっ。俺が、一方的に……っでは、なくっ。『ヤるか』と、訊いた。んだっ」

動揺しきったがくぽには、引き際が見極められなかった。すべての元凶たる拳を引くことも思いつかず、みっともなくどもりながら、まだ虚勢を張る。

カイトは拳から目を離し、そういうがくぽを上から下から、とっくりと眺めた。

上げっぱなしで筋肉が攣れるという以上に、震える腕。強張りながらうつむき、逸らされた顔。なにより、完全に引けている腰――

「でもさ、がくぽ俺、殴り合いっていうか、そもそもひとを殴るってのが、したことないし」

「なっ?!」

飄と投げられた返しに、がくぽは驚愕とともに顔を上げた。

『それは男として生まれたなら、あり得ないはずだ』と。

少なくともがくぽにとっては、『男に生まれる』とはそういうことだった。別に乱闘まで日常とする必要はないが、大なり小なり、殴り殴られという経験を必ずしている。

しかし、愕然として見たカイトの瞳はおそろしいほどに澄んで、まっすぐだった。

――そういう世界もあるのだということを、がくぽは知らなかった。否、架空の、お伽噺の世界の話だと。

がくぽの反応に構わず、カイトは飄々と言葉を振るう。

「当然、やり方わかんないし。対してがくぽはさ、もう、なんていうか、『プロ』でしょしたら、考えるまでもないよね。『ケンカ』になんか、なりようないでしょ。がくぽが一方的に俺を殴って、なぐって、気が済むまで殴って、終わり。――でしょ?」

「……っっ」

痛恨の一撃が連打で極まり過ぎて、がくぽはすでに瀕死だった。比喩ではない。すべてすべての言葉がもう、過ぎ越して的確で、ほんとうに心臓が止まりそうだった。

もはや身も世もなく号泣したい心地でぷるぷるぷると、憐れに震えながらがくぽは拳を引く。

今にも頽れそうな相手の、引いていくその拳を、カイトは軽く掴んで引き留めた。のみならず、自らへと寄せる。

びくりと竦んだものの、がくぽが手を跳ねのけることはなかった。そんなことをすれば、寄せられたカイトのくちびるに拳が当たる。

あらゆる意味で身動きが取れなくなった問題児がただ眺める前で、生徒会長は生傷だらけの拳にくちびるを当てた。当てたくちびるが皮膚をくすぐりながらぱくりと開き、覗いた白い歯と、赤い舌――

「っ、くっ」

刻まれた無数の生傷を避けることもなく、カイトはがくぽの拳にがぷりと喰らいついた。

一度、きつくきりりと牙を食いこませ、ほんの慰め程度にちろりと舐めて、離れる。

くちびるとともに手も離し、カイトは呆然と拳を引いたがくぽへ、ほんわり微笑んだ。

「はい。おしおき終了」

告げて、カイトの笑みには隠しきれず、諦念が滲んだ。わずかに濡れ光るくちびるが、ため息のように甘くこぼす。

「いい加減、俺は君に甘いね、がくぽ。――今日はこれで、おしまいにしてあげるから」

こぼしてうつむき、しかしすぐ、カイトは顔を上げた。廊下のほうへ、軽く手を振る。

「ちゃんと顔を出したときのご褒美で、おやつ用意してたんだった。上げるから、水道で手をきれいきれいしておいで」