飛ぶように通りを歩き、階段を駆け上ってアパートメントの扉を開く。
その途端、中から香ばしく焼けたチーズとスパイスの香りが漂ってきて、がくぽはこくりと咽喉を鳴らして唾液を飲みこんだ。
Quiche Lorraine
「カイト、ただいま…………」
「あ、おかえり、がくぽ!ナイスタイミン♪俺これから、新作のお味見しようと思ってたとこだよー」
「………」
キッチンカウンターの傍に立っていたカイトを見て、がくぽは続く言葉を飲み込んだ。
カウンターの上には、部屋の中に満ちるいい香りの原因と思しき、グラタン皿がある。
そしてそのカウンターの前には、エプロン姿のカイトが――
「カイト、おまえ……………その、格好は………?」
「ん?ああ」
言葉に迷い悩み、結局はそう訊くしかなかったがくぽに、カイトはひゅるんと一回転してみせた。
可愛らしいサロンエプロンの下で、ひらりふわりと広がる――スカート。
カイトが着ていたのは、現代若者向けというよりは多少古ぼけた感じもする、少し田舎臭いデザインのワンピースだ。
しかし妙に、カイトに似合っている。似合っているがしかし。
「さっきまでさ、隣のローラおばーちゃんとこで、近所のみんなが集まってお茶会してて。あんたもおいでーって呼ばれて、そこでこの、キッシュも習ったんだけど」
スカートの裾をつまんで持ち上げつつ、カイトはカウンターの料理を示した。
「んでさ、『これきっと、あんたに似合うと思って作ったのよー!』って言われて、着替えさせられて」
「……………」
がくぽはなんとも言えない顔で、黙った。
アパートメントの隣の部屋に住む老婦人は、人好きで物怖じしない性格の、豪快なひとだ。
異国からの留学生であるがくぽとカイトにも気を遣ってくれて、なにくれとなく世話を焼いてくれる、得難い隣人なのだが――
「……………………あのさ、がくぽ」
なんとも言えない顔で黙りこみ、カウンターの前に来たがくぽに、カイトもまた常になく真剣な顔を向けた。
「俺、最近……、なんか、うすうす………………そのっ、………気がついたっていうか………っ」
いつもはなんでもかんでもはきはきと言うのに、珍しくもカイトは口篭もる。
躊躇いながら言葉を探したが、率直に言う以外の道はないと結論し、懸命な色を宿してがくぽを見つめた。
「あのさ、もしかして……もしかして、だけどっ……………ここらへんのひとって、俺のこと、女だと思ってない………?!『女役』じゃなくて、『女の子』!男だって、わかってなくない?!」
「……っ」
縋るように胸元を掴んで叫んだカイトから、がくぽは顔を背けた。
もしかして、ではない――完全に、そうだ。
そしてもうひとつ言うと、実際年齢よりもかなり、洒落にならないレベルで年下に見られている。
日本では年上に見られることも多かったがくぽですら、こちらに来てからは幼く見られることばかりだ。
それでもがくぽならば、実際の年齢を告げてパスポートを見せれば、『日本人がベビー・フェイスってのは本当なんだな!』と笑って納得してもらえる。
しかしカイトに関してはどんな手を打とうとも、『いやいやいや、いくらベビー・フェイスったって、それはない。ベビー・フェイスにも限度がある。カムイはまだまだ、ジョークがヘタだな!』と――
「ねえ、がくぽ!がくぽったら!」
「……………………」
縋って胸座を揺さぶるカイトから懸命に顔を逸らしたまま、がくぽはフォークを取ってキッシュに差し込んだ。
一口入れると、程よく焦げたチーズとバター、そして外国ならではの馥郁としたベーコンの香りと、加減ばっちりに調えられた塩味が広がり、病みつきになる予感がした。