きみ、いといとしもの

いつもは濃厚にして甘ったるい空気に満ちる、がくぽとカイトが二人で暮らすアパートメント――

その、ダイニングルームだが、今日、この場に漂うのは、一触即発にも似た緊張感だった。

四角いテーブルの対角に置いた椅子に座ったがくぽもカイトも、表情が硬い。

だからと言って、空気が険悪なわけではない。甘さもあり、幸福もあり、けれどそれがゆえに募る――

そんな空気の中、カイトはいつも以上にゆっくりと、紙の上にペンを走らせた。

ともすれば過ぎる緊張に震えそうな手を堪え、なんとか書き終えて眺めること、一拍。

「………おけ?」

「ああ」

普段とは違い、ひどく気弱に恐る恐ると訊いたカイトに、がくぽもまた、普段とは違って殊更に力強く頷いてやった。

その返事に、カイトの顔がぱっと輝く。しかしそれも一瞬のことで、すぐにまた、表情は不安を兆して曇った。

「これで、ほんとのほんとに、がくぽと俺、夫婦『内縁の』とか、『身内的に』とか、そういうんじゃなくて………ちゃんと俺、ほんとにほんとの、がくぽの『奥さん』?」

「………」

矢継ぎ早に重ねられた問いには即答せず、がくぽは一度、ダイニングテーブルに広げた一枚の紙を見た。

テーブル上で容積以上の存在感を主張するその用紙は、平たく言えば『婚姻届』だ。

現住地は、同性同士での『婚姻』を認めている。さらには『外国人』であっても、届け出を受理してくれる。

選んだのは偶然ではなく、いずれと将来を見据えてのことだったが、ようやく念願が叶ったわけだ。

とはいえいくら『結婚した』と言っても同性同士の場合、『夫婦』ではなく『パートナー』と称されることが多い。また、『奥さん』は、男女間での夫婦の役割分担を表す言葉でもある。

そういった意味で正確を期すなら、たとえ法的に婚姻が成立していたとしても同性同士、カイトががくぽの『奥さん』となることはないが――

「ああ。きっちり法的に、おまえは俺の『妻』だ、カイト」

「んっへっ!」

細かいことは省き、肯定してやった瞬間にカイトが閃かせた笑みは得難く幸福に満ちて、がくぽの胸をこれ以上なく熱くした。

無理を押して、外国にまで連れて来た甲斐があった――

すべてが報われた感慨に耽るがくぽの頬に、腰を浮かせたカイトがちゅっと音を立て、キスをする。

「これからも――ううん。改めて。末永くよろしくね、がくぽ……俺の『ご主人さま』☆」

「……カイト」

ちゅっちゅと、くり返されるキスとともに紡がれた言葉に、がくぽは緩んでいた表情を引き締めた。

背筋を伸ばしてカイトへ向き直ると、甘えて首に掛かろうとしていた手を取って、ひたと見据える。

「カイト、世間では男の体裁だどうだこうだと言うが、断言しよう。夫婦において主は妻、夫は従だ」

「………がくぽ?」

覚えのある風向きに、カイトはひくりと引きつった。漂っていた甘やかな空気が、さっと吹き払われる。

がくぽといえば、『新妻』の反応にまったく構わない。いや、未だ至らぬ妻を説き導くべく、さらなる熱をこめ、身を乗り出した。

「家計を握り家庭を回し、夫をいいように働かせる――そう、妻こそが夫婦にあっては本当の主人、『ご主人様』だ。夫などその下僕――いや、犬だ。犬でいい。つまりこうして名実ともに夫婦となったからには、おまえは法的にも俺の主人、そして俺はおまえの犬公認ということだ」

「がーくぽがくぽ、がーくーぽー」

カイトは目を眇め、『夫』を呼んだ。しかしこの件においては常にそうであるように、今日もまた、旦那さまもといわんこに、最愛の『奥さん』の声が届くことはなかった。

「これからもよろしく頼む、『ご主人様』」

「あー………」

――案の定の流れと淀みのない結論に、カイトは瞼を落とし、堪えきれないため息をこぼした。

「君ってほんと犬なんだね、がくぽ。根っっっから、『犬』なんだね………。とりあえず、よろしくしてあげるから、三回まわってわんと鳴きなさい、もう」