至極の叡智
少し考え、がくぽは顔を上げた。口を開く――
が、がくぽがひと言を発するより先に、目の前のカウンターにがんと音を立て、マグカップが置かれた。
「へい、ほっとみるくッ!いっちょぉ、お待ちッ!」
「………」
いったい目の前に置かれたものはなにで、ここはどこの江戸前寿司屋かラーメン屋かという話だが、がくぽの目の前に置かれたのはほこほこ湯気を立てる、作り立てのホットミルクを入れたマグカップで、ここは最愛の恋人と暮らすアパートメントのダイニングだ。
そしてがくぽとカウンターを挟んでキッチンに立つのは、江戸前職人でもラーメン屋のおっちゃんでもなく、最愛の恋人たるカイト――
笑顔が自棄だ。とても引きつって、自棄だ。
「………」
がくぽはまた少し考え、会話を続けるより先にマグカップを取ることを選択した。
もちろん、ただ手に取るだけではない。カップに口をつけ、ずずずと啜った。
熱い。
『ホット』ミルクなのだから、当然だが――そして後味には、ほんのりと甘い。
これは、カイトが必ず入れるハチミツによるものだろう。
カイトの作る『ホットミルク』は、単に牛乳を温めただけというものではない。
必ずティースプーン一杯のハチミツと、なにかしらのスパイスが入る。
カイト曰く、これは『おばぁちゃん直伝秘伝の味』なのだそうだ。
説明から鑑みるに、カイトの祖母はホットミルクを一種の薬膳、民間薬扱いしていたらしい。だから飲む季節や時間、理由によって、スパイスの種類やブレンドの量を細かに変える。
ちなみに、初めの頃に何気なくレシピを訊いたがくぽだが、カイトの説明が三種類めに入ったところで白旗を掲げた。際限がないことが、すでに明らかだったからだ。
確かに言えることがあるとするなら、カイトの祖母もカイト自身も、非常にまめだということだ。
そんなこんなでがくぽは未だ、今日のホットミルクになにが入っているのか、すべてはわからないわけだが――
後味は悪くない。
がくぽは甘いものが苦手だが、ほんのりと残るハチミツの甘みはむしろ、心地よい。今日はさらに、ブランデーも垂らしてくれたらしい。ますます香りがいいし、気分が上向くという――
ことりとカウンターにカップを置き、がくぽは改めて口を開いた。
「まあ、これもこれで、悪くないわけだが……ああいや、好きです大好きですむしろ愛してます」
カイトのこめかみがひくりと引きつったのを見て取り、がくぽは素早く言い直した。しかも敬語だ。空気の読み感と反応の仕方が下僕のそれだ。
しっかりと尻に敷かれているわけだが、それはそれのこれはこれというもの。
ヤケノヤンパチ笑顔のままのコイビトへ、がくぽは怯むことなく主張を続けた。
「で、まあ、好きは好きだが――やはりいちばんは、『哺乳瓶』から直に飲むホットミルクだと思う」
「ほぬ、……」
がくぽの言葉を中途半端にくり返し、カイトは眉をひそめて固まった。
がくぽは再びマグカップを手に取り、ホットミルクをずずずと啜る。
ずずずと啜って、――ずずずと三回啜っても、まだカイトが固まったままのため、少し心配になった。
そうそう、うぶであるはずもないが、表現が難解に過ぎたかもしれない。別の言い方をするなら、少々下品に過ぎたというか、いくらなんでも変態に過ぎたというか、特殊性癖にも程が――
「『ほぬ』っ!」
――熱さにごくごくとは飲めないホットミルクをずるずると啜りつつ、がくぽが上目で別の表現を模索し出した頃だ。
ようやくカイトのくちびるが動き、妙なトーンの声を漏らすと、ふわりと目元を染めた。
朱は目元から、頬に耳にうなじにと、全身の肌に広がっていく。色だけでなく、表情も羞恥に歪んだ。ぷるぷる震えるのはちょっとした怒りゆえなのだが、夜の寝室を思わせる艶めかしい様子でもある。
一応天秤にかけたうえで、がくぽは兆す危機感より、うっかり見惚れることを優先した。
そんなおまぬけだめわんこもとい、最愛の恋人を潤む瞳できりきりと睨み、カイトは叫んだ。
「それはほっとみ…ってか、『そこ』から離れろってば、がくぽっ!こんっっの、えろおやぢがっっ!!」