麻黄甘草、五虎葛根
役目を終えた――あるいはこれからが本番である――体温計をケースにしまいながら、カイトはやれやれと肩を落とした。
「ん…っと、38度強。かな。ま、なんにしても、がくぽ――どこに出しても表彰ものの、立派なおねつっこさん。だよ」
「ぅっ、げほほっ」
いつもはカイトとがくぽと二人で並んで眠るベッドに、今は赤い顔のがくぽがひとり、横たわっていた。
否、顔が赤いのみならず、がくぽは息も荒く、目もやたらに潤んでいる。
まかり間違うとまかり間違いそうな風情だが、間違えてはいけない。
現在のがくぽはどこに出しても間違いのない『おねつっこさん』、もとい、風邪引きだった。
昼食の近辺から様子がおかしいと首を捻っていたカイトだが、夕方になって確信に変わった。
それで、ソファで伸びていたがくぽをベッドへ突っこみ直し、体温を測ってみたなら――という。
――まあ、『駄犬』なだけで、ほんとうにはおばかさんじゃないってことなんだよ、うちの子は。
フォローなんだかどうだか、微妙なことも考えつつ、カイトは思考を巡らせた。
これが日本であるなら、まずは問答無用で医者に連れていく。が、ここは外国だ。
渡航してからこれまで、医者にかかることがなかったので不案内ということもあるが、だけでなく、根本的な医療制度の違いがある。ために、現状、どちらかといえばこれは最終手段だ。
「ま、最終的にはおばぁちゃんたちに訊くとして……ん?」
「かぃ……か、かぃと」
不慣れな環境での今後の方針を練るカイトを、がくぽががさがさの声で呼んだ。顔をやると、首を横に振られる。
「ます、く……」
「ああ、はいはい…」
今や話すこともつらいのだろう。なんとかという態で絞り出された単語に、カイトは軽く頷いた。
今後の方針も大事は大事だが、まずはとにかく、カイトへの感染予防だ。不案内な異国の地で、ふたりともに病で倒れるような事態こそ、もっとも避けたい。
確か寝室のクローゼットに放りこんだままの『おばぁちゃんの知恵袋』こと、カイトの祖母からの餞別の中に、使い捨てマスクが箱であったはずだ。
ほかにもいろいろ入っていたような気がするから、使えそうなものがあれば、いっしょに出して――
「ま、すく、したら、へゃから、でて……なお、るまで、よ、るな。ぉれも、ますく、して………ぉまえに、ちかょ、らなぃ、から」
――続くがくぽの要望はげほげほと、咳きこむ合間に吐きだされた。挙句、がすがすに掠れ、ひどく聞き取りにくい。
それでも最後まで辛抱強く聞き、カイトはすっと、目を据わらせた。
とはいえすぐにはなにも応えず、踵を返すとクローゼットへ向かい、中を漁る。
目的の袋はすぐに見つかったし、これも記憶通り、使い捨てマスクが箱で入っていた。使い捨てマスクに、氷嚢に、吸い飲みに、――
もう夕方だ。カイトたちが住んでいる近辺は比較的治安のいいほうではあるが、とはいえもはや、ひとりで外出したい時間ではない。
しかも、たとえ無理して出かけたところで、異国の店にこういった、日本で馴染んできた品が置いてあるかといえば――
不慣れな地での緊急事態に、使い慣れた、馴染みの品ほど有り難いものはない。
祖母の『知恵袋』に平伏したいほどの感謝の念を捧げつつ、カイトはマスクの形を整え、鼻から顎までをぴしっと覆った。
きっちり支度をしたうえで、たすたすたすと、微妙に堪えきれない足音とともに、ベッドへ戻る。
ぜえはあと、荒い息で横たわる病人へ、カイトは決闘を申しこむ白手袋であるかのように、もうひとつのマスクを投げつけた。
「前言撤ッ回!うちのわんこはほんっっっと、おばかっ!だからカゼなんか引くんだよっ!!」
「んぶっ?!」
マスクを投げるだけでなく、カイトは追うように腰を屈め、頭を下げて、がくぽと勢いよくくちびるを合わせた。
ただし、マスク越しだ。否、マスク越しではあるが、――
非難の声を上げようとしたがくぽへ、カイトは潤む瞳で首を横に振った。
「おばかじゃないなら、こういうときは駄犬らしく甘ったれろ、がくぽ。でなきゃ、俺、なんのための『奥さん』なんだか…」