風が吹き抜ける。乾いて、冷たい風だ。音も遠く、香りも薄い。

高くたかく、頭上高くを吹く風だ。

空の風だ。

これは自分の風ではない。

しょちこあとる

前編

部屋の中央に立ち尽くし、花とうたの神、大地に根差す神であるカイトは、茫洋と考えた。

ただ茫洋と、霞む思考で――力を失って、霞んでいく頭で、考えた。

そこは高い塔の、最上階に位置する部屋だった。出入りをするための扉の他には、小さなちいさな窓がひとつあるだけの。

鎧戸を開いて風を通せば、吹き抜けるのは乾いて冷たい、空の風。

大地とは程遠い、カイトと境界を異にする、――

これでは、意味がない。

カイトは霞んで沈みゆく頭で、茫洋と終末を紡いでいた。絶望を撚って織られる、終焉を。

これでは、自分の意味がない。

これほど遠く、とおく、大地と離されては、声が聞こえない。

求め、望む、祈りの言葉が、届かない。

カイトが慈しみ守る、あまりに小さくちいさな、かそけき声は、空にまで駆け昇れない。

願い叶え、いのちを与える神であるというのに――

空の高みへ堕とされては、もうなにも出来ない。

なにも出来ないなら。

なにも与えられず、なにも与えられないのなら。

この存在に、もはや、意味などない。

存在する意味が、ないのなら――

***

「んくっ!」

ぱちりと目を開き、そのあまりの唐突さに、カイトはしばらく固まっていた。

なぜこれほど唐突なと、固まったまま考え――

「………おはようございます、カイト殿」

「ぁ」

起き抜けの瞬間だけに聞かれる、わずかに掠れた声に呼ばれ、カイトはひとつ、瞬きをした。固まっていた手が明確な意思に因らず動き、声の主の胸元に縋りつく。

がくぽだ。

認識する。

縋る指に伝わるのは、着物越しでも火傷をしそうな熱で、鼻腔に広がるのは、寄り添い抱き眠る情人を慈しむ想いだ。想いの強さ分、隙間を嫌ってぴたりと張りついた体はあまりに近く、視界をかえって狭めるが、少し首を動かせば瞳に映るのは、いくら見ても見飽きることのない、燃え立つ命の色。

「ぁ………ん、んっ」

未だ馴れることもなく、つい見惚れたカイトのくちびるを、がくぽのくちびるが覆った。がくぽはまるで獣が慰撫するようなしぐさで、やわらかにカイトのくちびるを含み舐め、水分を得たそこをちゅくりと吸い上げる。

朝だ。

朝から気分が盛り上がってお互いを貪ることもあるが、少なくとも今朝のがくぽはそこまで飢えてはいないようだ。口づけはあくまでも挨拶程度で、節度を保ってカイトから離れた。

「ん、ん……がく、んふっ!」

とはいえ、がくぽが完全にカイトを離すわけではない。寝乱れたカイトの髪を梳き整えながら、頬に頬をすり寄せ、額に耳朶にくちびるを降らせと、まめまめしい愛撫は続く。

くすぐったさに笑いながらもカイトは縋る指に力をこめ、逃げる態でがくぽの胸元に額を擦りつけた。

「………カイト殿?」

剣の主にして生涯の伴侶と仰ぐ相手の異変を、東方の剣士が気づかずにおれるわけもない。また気づいたものを、知らぬふりで流せることもない。

愛撫の手を止めたがくぽがそっとかけた声には、すでにカイトを案じる色があった。

「どうしましたその、………」

カイトにも『わかる』平易な言葉を探すわずかな間を挟み、がくぽは慎重に問いを継いだ。

「こわい、夢でも、見ましたか?」

「あ」

原因を探る言葉に、カイトは逃げて胸元に埋めていた顔を上げた。とても賢くて頼りになる自分の守り役を、無邪気な称賛の眼差しで見つめる。

「それ!」

正解を告げるカイトの声はむしろ明るく弾んで、『こわい』の片鱗もなかった。

なにしろがくぽのたったひと言で、もやついていたものがすとんと腑に落ちたのだ。どう表せばいいかわからなかったものに形が与えられて収まりどころが見つかり、とてもすっきりした。

そうだ。

あれは、こわい夢だ。『こわい夢』というのだ。それで『夢』で、過ぎ去った昔、終わった話で――

「こわい夢、ですか、カイト殿見たのですか?」

対するがくぽは、すっきりどころではない。焦りを含んだ声音で慌てて訊き返しつつ、カイトを抱く腕にも力が入った。

そんなことからも情人の突き抜けた愛情具合が知れて、カイトはまた、幸せに笑いほどけてしまう。

もやついた胸の内などきれいさっぱり流れて、代わりに満ちるのは幸せだ。幸せで、これほどの幸せを惜しみなく与えてくれる相手への尽きせぬ愛情が溢れて、それがまた、しあわせで――

ここには最愛にして最強の守り役がいて、今は彼の腕の中だ。

世界でいちばん安らげて、いちばん幸せな場所。

――だから、だいじょうぶ。こわくない………

胸の内を掠めた言葉の、その本当に意味することには気づかぬまま、カイトはただ笑って続けた。

「うん。みた。人間につかまったときの夢」

「なっ………?!」

予想だにしない答えだったのだろう。いや、そうだ。こんなことは、いくらがくぽが敏く賢いとしても、予想の範疇を軽く超えているだろう。

毛を逆立てる獣にも似た様子で驚愕し、絶句したがくぽに、カイトは自分の配慮不足に気がついた。

がくぽはカイトの守り役だ。だけでもなく、過保護にして溺愛の気質が強い。

剣の主に全存在を懸ける気質の東方の剣士だというのもあるが、もとからして、愛する相手には依存的に傾注する癖があるようだ。

そのがくぽが、まさかカイトが人間に捕らわれたなどという話を、たとえ夢、過ぎ去った昔の終わった話としても、聞いたとして――

だがそもそもカイトは、『古き』に類する神だ。

世界に神しかいなかった時代、『人間』という種族が生まれる前から存在している。

それはとりもなおさず、神と人間とがもっとも熾烈に争っていた時代に、その渦中にいたということでもある。

まるで無関係に、なにごともなくここまで来られるような、生温く甘い時代ではなかった。

おっとりほんわりとした風情からは想像しにくいが、カイトは現存する神の中でも、もっとも過酷な時代を生き抜いてきたのだ。

挙句、元は敵であった人間の、さらには同性である男と番い、男ノ神でありながら子まで生すという――

いくらなんでも波瀾万丈、無茶苦茶にも過ぎる経歴を、やはりおっとりのんびりと流してきたのだが、だからがくぽだ。

そんなカイトの守り役は、カイトが『そんな』であることを補うためかはたまた、とにかく過保護さでは抜きん出たものがあり――

「あ、えと、だいじょーぶだよすぐに、べつの人間が出してくれて、ええと、その、たすけてくれたし、それに、んとっ、えぇっとっ!」

守り役の血管が迂闊な方向に切れないうちにと、カイトは慌てて説明を足した。しどもどと宥める言葉を探しつつ、うろつかせた視線が閉じた窓に行く。

石造りの家の中は、外の光を通さず暗い。ましてや扉も窓も閉めていれば、なおさらだ。神の視界には、たとえ真闇であってもすべてがつぶさに見えているが、だとしても『暗い』は『暗い』だ。

なによりも、空気が篭もる。

「<精霊>、風おねがい」

カイトは驚愕に緩んだがくぽの腕から抜けて身を起こしつつ、遠くにふぅっと息を吐いた。吐いた息を基点に<精霊>が宿り、こうっと音を立て、小さな竜巻が起こる。

竜巻はこうこうと啼きながら部屋を巡り、閂を跳ね上げ、木戸を弾き飛ばし、扉に窓にと、次々に開いて回った。

すべての開口部を解放した小さな竜巻は、こうこうと啼きながら外へ出て行く。

「ふぁ……」

開いた窓から朝の光が眩しく差しこみ、涼やかな風が吹き抜けて淀みを払う。

寝台にへちゃんと座ったカイトは目を細め、風に当たった。

季節は初夏、これから暑くなろうという時期だ。しかし北の果てに位置するこの森は、ことに朝ともなると、初夏であっても風は冷たい。

冷たいが、これは大地の風だ。

カイトの風だ。

同じ冷たくても、夢で見た――あの日、カイトを絶望させた、空の風ではない。

「………」

きゅっと眉をひそめ、カイトはぶるりと震えた。

こわい夢には、続きがある。

カイトを捕らえ、力の源たる大地から離して『空』――丈高き塔の最上階に幽閉したのも人間だが、そのカイトを塔から救い出し、野に還してくれたのもまた、人間だった。

『神』とても古きと新しきと分かれ、決して一枚岩ではないように、人間もすべてがすべて、敵しているわけではないのだ。

たとえばがくぽのように、敬意や好意を示してくれる相手もいる。

それは神と人間とがもっとも熾烈に争っていた時代でも、そうだった――