彼らは『しようとしていた』とは言ったが、『なにもしていない』とは言っていない。前段階の準備として、すでになにかしらのことをされた可能性がある。
がくぽの顔から表情が消え、躊躇いなく剣が抜かれた。一連の動きは流れるように淀みなく、罵り合う双ツ神へと抜身の剣が走る。
しょちぴるり
第1部-第9話
「リンのばかばかばかばか、ああも、めんどくせっ!ばかのさんびゃく………っうっわ!!」
慌てて仰け反った少年は、間一髪で剣の軌道から逸れた。
避けられるようにしたのは、もちろんわざとだ。一撃で仕留めてしまっては、カイトになにをされたのかを確認出来なくなってしまう。
月光を受けて冴え冴え輝く剣より、なお冷たく澄んだ表情で向かうがくぽに、少年は両手を掲げた。
「なになになに?!いったいなにがあった?!なんでイキナリ、おかんむりだよ!!」
「カイト殿になにをした」
低く問う。
少年はさらに仰け反って、がくぽから飛び離れようとした。しかしわずかにも動けば斬るという意思を隠しもしないがくぽの気迫に、微動だに出来なくなってしまう。
「まだなんもしてないって!」
叫んだ声は、声変わりも迎えていない少年特有のかん高さで、耳を打つように野辺に響く。
それでもカイトは微動だにしない。
神の睡眠がどんなものであれ、そこまでの鈍さではないはずだ。
がくぽは剣の構えをさらに、臨戦態勢へと傾けた。
「ならばなにゆえ起きない。これほどの騒ぎの中にあって、微動だにすらしない!」
低く小さく、しかし厳しく問うがくぽに、少年の表情が反った。少女が現れて、くちびるを尖らせる。
がくぽの気迫の前に動けなかった少年だが、少女のほうが怖じ気ることはなかった。軽く肩を竦める。
「騒ぎだって聞こえてなければ、ないも同じでしょ」
「聞こえないわけが」
「聞こえないわ」
即座に反駁しようとしたがくぽに、少女はうっすらと笑った。怒りに熱く滾っていた心が一瞬で醒めるほどに、冷たく、酷薄に。
「言ったでしょ。リンとレンは異端の神。存在を禁じられた神だと。意味わかる?リンとレンは、『存在を禁じられ』ているの。存在を禁じられているってことはね、そこにいても、感じることができないってことなのよ。見ることも聞くことも、話すこともできない。いいえ、そこにいることにも、気がつかない!」
吐き捨てて、リンは自分の顔に手を当てた。その表情が反り、半面が少女、半面が少年になる。
まったく同じ造りといえば造りなのだが、闇の中ですら明確に、右と左で違和感がある。どちらも愛らしい面だというのに、吐き気を催すような、不愉快極まりない違和感が。
剣を構えたままわずかに足を引いたがくぽに、少女と少年はそっくり同じにくちびるを引き上げて瞳を細め、愉しそうに笑った。
「「これだけ騒いでも、聞こえることはない。触れたところで、感じることもない。目の前にしても、見ることはなく、気配を感じることもない。我らの存在は有だが無。それが双ツ一ツの我ら<おめておとる>に対し、<神>の選んだ裁断」」
「私には見える。聞こえる、感じる」
耳の中を引っ掻き回されるような、少女と少年の合声だった。単体で聞いていたときにはそうとは思わなかったのに、今はこれ以上聞かされると、気が狂いそうな危惧がある。
襲い来る眩暈と闘うために言い返したがくぽに、少女と少年は声を上げて笑った。
「「なによりそれが、おまえが神ではない証左。神成らぬ身、人間である証。<神>は感じない。<神>は我らを禁じた。いいや、神『が』我らを禁じた。異端として、異常として」」
「………っ」
耳が鳴る。
体から勝手に力が抜け、がくぽは剣を地面に突き立てた。杖にして縋って、ようやく立つ。膝が笑って、呼吸が詰まった。
頽れる寸前のがくぽに、一ツ体の双ツ神が肉薄する。
ごく眼前に迫ると、子供らしい骨ばった両手を自分の頬に当てた。
「名乗ろう。女ノ神がリン」
「名乗ろう。男ノ神がレン」
言葉とともに、当てた手でふざけるように頬をつねってみせる。
視界が霞んで揺らぐがくぽに、一ツ体が背後を指差す。少女と少年の、微細な差異によって神経を撫で上げる合声が、深く静かに命じた。
「「<しょちぴるり>に、おまえを刻め。おまえの楔を打ち込むがいい」」
「……」
掻き回された頭は自由を失って、指差されるままに背後を振り返る。
眩んで霞む視界が、どういうわけかひどくはっきりと、眠るカイトを映し出した。
相変わらず、肌の透ける薄絹だ。露出も多く、月明かりの下で見るとその扇情的なことは、喩えようもない。
男だとわかっている。
わかっているのに、心と体が煽られる。芯に火が点いて、飢え渇くようにその体を欲してしまう。
「……」
がくぽの体がふらりと揺れて、カイトへと向く。地に刺した剣に支えられたまま、虚ろな瞳が獣の欲望だけを輝かせて、無防備に眠る体を見つめた。
「「行け」」
「………」
合声に、背中を押される。がくぽは一歩踏み出し、剣から手を離した。
わずか、刹那。
「「っ!!」」
声も上げられず、一ツ体が飛び退く。あどけない顔は壮絶に引きつり、自分たちに向けて剣を放ったがくぽを凝然と見た。
手を離したと見せた刹那に、がくぽは支えとしていた剣を持ち替えた。杖から、攻撃の型に。
そしてやや動きが鈍いものの、躊躇いもなく、子供神を薙いだ。
間一髪だった。避けられたのが、奇跡だ。
無言のまま凝然と見つめるだけの神に、がくぽは荒い息を継いで、剣を構えた。
「次は外さぬ」
今にも倒れそうな風情でも、その声には確信が満ちていた。
宣言に束の間、双ツ顔が歪む。しかしすぐに表情が反って、少年単体となった。
「呆れた精神力だよ!もう、ほんっと、呆れます。まさか俺らの『声』を跳ね返し、なおかつあの色香にも惑わされないとは、おまえほんとに人間か?」
「……」
がくぽは無言で腰を落とす。
本気で打つ姿勢に、少年は両手を掲げ、飛び退った。表情が反って、少女となる。暗闇に遠目となると、その様が確認は出来なかったが、体の動かし方でそうと察せられた。
あからさまに、少女の所作となるのだ。
「しょーがないわね。その、ふっざけんな、死ねッ!!ものの精神力に免じて、今日は退いてあげる。まあ、おまえがここにいるかぎり、機会は何度でもあるしねー」
明るく不吉なことを告げて、少女はさらに飛び退る。剣の射程範囲から完全に外れると、両手が上がった。両頬をつまんで、嘲るように捻る。
「「また今度」」
「っ」
少女と少年の合声が告げて、その体が靄のように消えて失せた。
堪えても神経を掻き回されて、がくぽは歯を食いしばる。しばらくそのまま耐えて、剣を下ろした。
膝をつきたい心地だったが、東方の剣士にとって、膝をつくことは死にも等しい。敵に背を向けることなかれと叩きこまれるように、膝をついたときが死に時だと教え込まれている。
荒い息を継ぎながら、がくぽは怠い腕を繰って、剣を鞘に納めた。胸に手を当て、わずかにくちびるを歪ませる。
恨みがましく思ったものだが、救われた。
メイコに踏まれたことで再び痛みを思い出した胸の傷が、『神声』に掻き回されるがくぽの思考を保ったのだ。
体が揺らいだ瞬間に、走った激痛。その瞬間に晴れた思考。
わずか一瞬の痛み、一瞬の晴れ間だったが、正気の縁とするには十分だった。続く『神声』に思考は掻き回され続けたが、その後は無意味と体を歪めて、胸の痛みを増長させ――
今となるとかえって、痛みのあまりに気絶したいようだが、救われたことは間違いない。
この痛みがなければ、彼らの命じるまま、カイトの体を暴いていただろう。
「………っっ」
胸を押さえる手に力が込められ、爪が立った。
体の芯に灯った欲の炎は鎮火することなく、熾火のように燻っている。わずかにも煽られれば、再び業火となってがくぽの心身を灼くだろう。
彼らが無理やりに植えつけた種火ではない。
元からがくぽの中にあり、それが増幅されただけのこと――そう、元はといえば、自分の心が。
「………っ」
きりりと奥歯を鳴らし、がくぽは一度、瞼を下ろした。
次に開いた瞳に、感情はない。すべてを心の奥底に圧し沈めて、がくぽは平静を取り戻した。
ふらつきながら、横たわるカイトの元へ行き、座る。眠っているだけと思っても、不安があった。
手を伸ばし、躊躇ってから、結局頬を撫でる。
「………カイト殿」
遠慮がちに掛けた声に、応えはない。
がくぽは冷たい頬を撫でさすり、剥き出しの肩へと辿った。
「………カイト殿」
「ん……」
小さく呻き声が上がり、カイトの瞼が震える。がくぽは力なく、肩を揺さぶり続けた。
「カイト殿」
「ん………ぁ、がくぽ…………」
重く瞼が開き、寝惚けた声が上がる。
名前を呼ばれた瞬間に心に走ったのが紛れもなく歓喜と安堵で、掻き回されて疲弊しきった体から、どうしようもなく力が抜けた。
駄目だと思いつつ、カイトの隣に倒れ伏す。
眠そうな瞳のカイトは、傍らに横になったがくぽを不思議そうに見た。
「…………どしたの、がくぽ?なにかあった?」
冷たい手に頬を撫でながら訊かれ、間近に香るのが、痛む胸が透くような薄荷の香りだ。
がくぽは束の間、撫でられる感触を楽しみ、穏やかに微笑んだ。
「少し、疲れただけです…………あなたを探して、走り回ったものですから」
「ん………?」
笑みを含んでも力ないがくぽの声に、カイトは横になったまま首を傾げる。
がくぽへと擦り寄ると、こつんと額と額を合わせた。夜闇にあっても、閉じられた瞼を飾る睫毛の美しさがわかるような気がした。
「あっついね……また、どこかいたいの?くるしくて、おれ探してた?ごめんね、気がつかなくて……」
「……」
頬を撫でていた手がそのまま辿り、がくぽの後頭部を抱く。幼子でもあやすように髪を梳かれ、胸元に抱きこまれて、がくぽは泣きたいような心地に陥った。
薄荷が香る。
胸が透くような香りなのに、子供の頃に好きだった薄荷水のように、その中に甘さが隠れている。
抱きしめて、心ゆくまで味わいたい。
甘いものが貴重で、滅多には赦されない贅沢なのだとわかっていても、おかわりを強請りたかった子供時代を思い出す。
妹や弟は無邪気に強請っていたが、長子として厳しく躾けられたがくぽは一度として、強請ることが出来なかった。
あのときの、切なく重苦しい気持ち。
甘さに和みながらも、ひどく泣きたかった。
抱きしめてくれるカイトの体からは、冷気が沁みこむ。
なのに体に篭もる熱が冷めることは一向になく、がくぽはひたすらに強張ったまま、抱かれていた。