いくつかの問題が浮上した。
生活していれば、そういうことは間々ある。それらを地道に解決して今の人間の勢力があり、がくぽとても人間であれば、解決能力に欠けるということもなかった。
しかしすんなり解決できる問題と、解決までに時間がかかる問題とがある。
そして、日々深刻さを増す問題が。
しょちぴるり
第1部-第11話
「………っは」
潜っていた湖から顔を出し、がくぽは浅瀬に立った。浅瀬とはいえ、がくぽの腹までは水に浸かっている。
神は『穢れ』を知らないようだが、がくぽは人間で、生きていれば代謝が行われ、日々体は汚れる。怪我がひどかった間は濡らした布でカイトが拭いていてくれたが、よくなれば頭から水を被りたい。
できれば湯を。
しかし基本的には沐浴の習慣がない、神の領域だ。
「あっついお湯?あるけど、………やけどしないの?すごいね、人間………」
首を傾げながらカイトが案内してくれた、森の奥にあった温泉は、完璧に源泉だった。素敵な沸き立ち具合で、とてもではないが、そのままでは入れない。
薄める水も傍になく、運ぶにしても限界がある。
諦めて、がくぽは湖に潜ることにした。
期間限定だとは思う。北の森は冷気の厳しい地方で、比較的暖かな今の季節ですら、湖の水は凍えるように冷たい。
本格的に冬が到来すれば、手を浸すことも出来なくなるだろう――それ以前の問題で、表面が凍りついて差し込む隙もなくなるだろうが。
東方の人間は、狂的な清潔好きだと揶揄されることもある。
がくぽとしては『狂的』なつもりはなかったが、出来れば二日か三日に一度は体を洗いたかった。欲を言えば一日一度は入りたいが、幸いイクサ暮らしに慣れた身は、不潔にも慣れている。
「………」
湖に冷やされて、まるで神のように冷え切った自分の肌を撫で、がくぽは小さくため息をついた。
とにかく冬になる前に、どうにかしてこの問題を解決しなければならない。しかも北方における冬の到来は、東方出身のがくぽが予測しているよりも、早い可能性がある。
「……ん」
恨めしく見つめていた澄んだ水中に、さらりと魚が泳ぐ。がくぽの体に擦りそうなほどの近くを泳ぎ過ぎて行った魚は、北方ではよく、燻製にされて食べられているものだ。
もちろん手間暇をかけて燻製にしなくとも、単に焼くだけでも食べられる。
手づかみでも捕えられそうな気はしたが、銛があれば確実だ。そんなものは持ち歩いていないが、少し太い木の枝の先を削れば、十分に銛となる。そのまま串焼きの串にも使えるし、便利極まりない。
湖を囲む森へと目をやったがくぽは、響いた笑い声に動きを止めた。
「ぁはは、くすぐったい!」
「………」
――あまりというか、かなり振り返りたくはなかったが、仕様がない。
がくぽは振り返って、肩を落とした。
沐浴を必要としない神であるカイトだが、がくぽがやることの真似をしたがる。
岸辺で見ているだけのときもあるが、今日は水の中に入った。ただし、がくぽのように全裸とはならない。いつもの薄絹姿のままだ。
そうでなくても肌の透ける微妙な布地だというのに、今は完全に肌に張りついて、内に隠さなければならない形と部品をきれいに浮かび上がらせている。
水の刺激にか、尖る乳首、わずかに骨の浮くあばら、そこから細いままに流れる腰の線――
さらに下は水の中に隠れて見えないが、岸に上がれば。
芯まで凍えるような水の中にいるというのに、熱を覚える自分にげんなりしつつ、がくぽは水中へ視線を戻した。
魚はあまりに無防備に、がくぽの周囲を泳いでいる。
そして、カイトの周囲も。
「わあ、たかいたかい!」
ぱしゃりと水滴を散らして跳ねた魚に、カイトが幼い子供のように手を打つ。その歓びように、魚たちはいっせいに、カイトの周囲を跳ね回った。
「ぁはは、すごい!みんなすごい!」
「………」
笑うカイトから目を逸らし、がくぽは無意識に己の腹を撫でた。
さんざんに踏みつけられ、無茶をされた胸の傷も、どうにか治った。
そして傷が回復すると、がくぽの食欲も通常に戻った。
そうやって出て来た問題が、食糧だ。
カイトは無邪気に、森で摘んできた果実をがくぽに供する。果実だけを。
もちろん、さすがは神域の果実で、非常に美味だ。なによりカイトが生育を助け、その結果として実ったものだ。
おいしさはいや増しに――なる、が。
がくぽは、人間だった。それも物堅い聖職者ではなく、生臭い極みの剣士。
調理され味付けのされた、あたたかいものが食べたいというのが、一点。
そしてもう一点が、肉や魚といった、生臭いものを食べたいという、欲求。
北の森は、がくぽが住処としている場所以外には人間の手が入った形跡のない、自然の宝庫だ。獣が山ほどいる。一人でも手軽に食べ切れる、うさぎなどもたっぷりと。
がくぽの基本は剣士だが、弓も使える。少なくともこれだけ獣がいるならば、一人分の食い扶持を稼ぐための、狩りを行えるくらいの腕はある。
魚獲りだとて同じだ。本職の漁師とはいかないが、これだけ豊富にいて無防備な魚を、食べる分だけ銛で突くくらいのことはやってのける。
元々が、『力』を必要とする剣士の体だ。
傷が治るのと同時に、失われた力を取り戻すためにも他の生き物の血肉を取り込めと、せっつきだした。
せっつかれたが、そこで立ちはだかったのが、カイトだ。
いや、実際にはカイトは立ちはだかっていない。がくぽに血肉を禁じているわけではない。
しかしそもそもカイトは、がくぽに『血肉』が必要なのだということから、理解していない節があった。持ってくるものが果実だけであることからも、それが窺える。
カイトにとって獣同士が食い合うことは常態でも、人間が獣を狩って食べることまでは範疇外なのか、それともすっかり失念しているだけなのか――
もしかしたら平気かもしれないとは、思う。思うが、踏み切れない。
森を歩きながら、寄ってくる獣と笑って話し、時としてうたってやるカイトの前で、彼らを狩っていいものかどうか。
そのお伺いを立てることすら、出来ない。
がくぽが必要だと請えば、カイトはきっと、首を縦に振るだろう。
食べる分だけしか狩るつもりはないし、悪戯に命を奪おうというのでもない。
けれど、カイトにとって友人である彼らを目の前で狩って捌き、腹に入れて――それがいくら、大事にしてくれているがくぽに必要な行為だとわかっていても。
あの南の海を映した瞳は涙に潤み、我慢に歪む気がする。
目の前で狩らなければいいという理屈はすでに、成り立たない。がくぽはカイトから、束の間も離れることを赦されていないからだ。
さすがに用足しだけはわずかに隠れるが、目を離すと言えばそれくらいとなっている、最近のがくぽだ。
「ぁはは、もぉ!」
無邪気に笑い、カイトは魚と戯れる。
その笑顔を見て腹を誤魔化し、がくぽは首を振って未練を捨てた。
血の足らない体は、うまく力が入らずに動きが鈍い。早急になんらかの手を打つ必要はあるが、結局血が足らずに、頭の働きまでもが衰えている。
怪我から回復しても別の怠さがつきまとい、しかも日々悪化していく。
それでも、カイトの笑顔を曇らせてまで求めたいことでもない。おそらくもうしばらく経てば、体が飢餓に馴れる。それまでの、わずかな辛抱だ。
「………カイト殿」
「ん、ぁっ?」
眩しい笑顔を向けたカイトに、がくぽも微笑み返した。
「上がります。どうなさいますか?」
訊くと、カイトは魚をまとわりつかせたまま、がくぽへと寄って来た。
「がくぽがあがるなら、おれもあがる!」
「はい」
従順に頷き、がくぽは岸を目指して歩き出す。
カイトは水の中にあっても、踊っているように歩いた。要するに、無駄な動きが多い。目的地に向かって一心に歩くがくぽとの間には、すぐに距離が開く。
距離が開いても待つことはなく、がくぽは素早く湖から上がり、放り出していた着物を掴んだ。濡れた体に、そのまま着けていく。
「んーっ」
がくぽが着終わったころにようやく岸に上がったカイトは、濡れた獣のようにぷるぷると頭を振った。
可能な限り焦点をぼかし、がくぽはカイトに向き合う。
全身濡れそぼるカイトの姿は、目に毒だ。致死的だ。
肌の透ける薄絹だというのがさらに事態を悪化させ、もはや扇情的という言葉では生温すぎて、鼻で笑う。
「<精霊>、お水おねがい」
軽く頭を振って水気を払い、満足したカイトは、<精霊>を呼ぶ。すぐさま、カイトのみならずがくぽの体からも水気が離れ、宙を舞って森の中に消えていった。
湖はすぐそこなのだが、<精霊>はいつでも適当な場所へ、水気を運んでいく。
一瞬で乾いたがくぽは、垂らしていた長い髪を手早く結い上げた。腰まで垂れる髪を乾かすのにはいつでも難儀したのだが、ここ最近はその不便を味わっていない。
この生活に入ってから唯一、付帯する条件もなく、素直によかったと思えることだろうか。
「ん、がくぽ、くちの色………」
「冷えたせいです。湖の水は冷たいので」
覗きこんだカイトが表情を曇らせるのに、がくぽは穏やかに笑い返した。カイトは不可解そうに、瞳を瞬かせる。
カイトのくちびるは、いつもと同じくほんのりとした薄紅色だ。しかしがくぽのくちびるはおそらく、紫色になっている。冷たい水に浸かって、血が止まったせいだ。
カイトには、そんなふうに色を悪くしてしまうのに、どうしてがくぽが毎日水に入りたがるのか、わからないのだろう。
なにか言いたげにしているが、がくぽは知らぬふりで、まだ地面に置いたままだった剣に手を伸ばした。
「っ」
「がくぽ?!」
頭を下げたところで眩暈に襲われ、がくぽは無様にへたりこんだ。
膝をつくなら死ねと、叩き込まれているのが東の剣士だ。堪え切れずに膝をついた自分に対し、瞬間的に頭が沸騰した。もちろん、それも良くなかった。
眩暈はますますひどくなり、がくぽは額を押さえて小さく呻く。
「がくぽ、どうしたの?!」
「……っ」
苦しげながくぽに、カイトも慌ててしゃがみこんだ。
「がくぽ?!」
カイトの瞳は、すでに潤んでいる。歪む視界にすらそれがわかって、がくぽは懸命に笑みを浮かべた。
「………大丈夫です。体が………冷え過ぎた、だけです」
精いっぱいに笑ったが、表情が引きつっていることが自分でもわかる。元々、普通に笑うこと自体、それほど得手ではない。
己の未熟さに腹が立ったが、そうもかっかかっかしていると、眩暈はさらに治まらない。
大きく息を吐き、がくぽは地面に腰を落とした。体を反して、近くの木に凭れかかる。
「がくぽ………顔色、わるい………くるしいの?どうして………」
「………」
眩暈のせいだけでなく、がくぽはきりりとくちびるを噛んで俯いた。泣きそうな顔で心配するカイトを、見ることが堪えられない。己の不甲斐なさに、頭が沸騰するばかりだ。
心配させたくはない。自分など、駒だと使い捨てて欲しい。軟弱なと罵り、立てと命じて欲しい。
そうすればがくぽは無理やりにも立ち上がり、進むのに。
こんなふうに憐れまれ、やわらかに触れられてしまっては――
「…………すみません。もう、大丈夫ですから」
「………」
しばらくしてようやく眩暈が治まり、がくぽは今度こそ、なめらかに笑った。
しかし、カイトの愁眉は晴れない。くちびるに人差し指を当て、小さな子供のように爪先を咬んで俯き、考えこんでいる。
「カイト殿」
「………」
なにかしら思いつめられそうな気がして、がくぽは少しきつめにカイトの名を呼んだ。それでもカイトは、指を咬んで考えている。
「カイト殿、っ」
「……」
肩を掴んで揺さぶろうかと思ったところで、カイトは決然と顔を上げた。その瞳が宿す色に、がくぽは息を飲む。
いやな予感がする。
思いつめて、禁忌に触れようとしている、そんな気配が。
「かい……」
「がくぽ」
なにをかはわからないままに制止しようとしたがくぽを、カイトは静かに呼んだ。
「さわってもいい?」
「………」
これまで、そんなふうに訊かれたことは、ない。
カイトはいつでも気ままにがくぽに触れ、気ままに離れていく。いちいち許可を取ることもなく、常に唐突に、思うままに。
――違う。
がくぽの記憶が、警鐘を鳴らした。
訊かれたことがあった。一度だけ。ひどく曖昧で、おぼろな記憶。
――いきたい?
訊かれた。
朦朧とした意識で、答えたその声は、音と成っていたのか、言葉と成っていたのか。
自分には不明でも、問いは続いた。
――さわっても、いい?
答えようとした。けれど待たれることもなく、触れてきた、――
「かい、っ」
冷たい手が両頬を挟んで、カイトの顔が近づく。まずいと思ったが、体が動かなかった。
凝然と見つめるカイトが、あまりの近さにぼやけて、当たるくちびるの冷気。
「ん………っ」
触れられて開いたくちびるを、カイトが軽く舐める。そして吹きこまれる、息吹。
「…………っ」
がくぽはぎゅっと目を閉じ、ぶるりと震えた。
薄荷の香り。
爽やかなのに、不思議と甘い。
冷たく体の中を拭き渡り、淀む澱を洗い流して、生まれた隙間を甘く満たす。
「…………っふ」
まるで水差しを当てられたように咽喉を鳴らして、がくぽは懸命に息吹を飲みこんだ。
命が与えられる。
血肉が足らないと喚いていた体が宥められ、活力に満ちて蘇る。
「……………は……っ」
ややして離れたカイトは、呆然としているがくぽのくちびるを指で辿り、わずかにこぼれた唾液を掬い取った。
濡れた指先をちろりと舐めてから、感情の窺えない瞳でがくぽを見つめる。
「ないしょ、ね?」
いつになく密やかなささやきに、がくぽは冷え切った唾液を飲みこんだ。