Episode00-鳥啼く声す-08

桜の花びらは無限に舞い散る。

現実世界とは違って、木が裸になることはない。そこまでの計算をしていないからだ。

舞い散る花びらと、咲き誇る花はあくまで別物なのである。

「そうだな。食うか。せっかくの花見だ」

コードが言い、無遠慮に手づかみで桜餅を掴む。むしゃむしゃと食べると、満足そうに頷いた。

どうやら妹の手作りお菓子は、教師の甲斐もあってなかなかの出来らしい。しあわせなおにぃちゃんである。

「…」

オラクルは、オラトリオをじっと見つめている。視線のプレッシャーにも負けず、オラトリオは手袋を外すと、道明寺へと手を伸ばし、やはり手づかみで口へと運んだ。

道明寺のつぶつぶした食感と、漉し餡の甘さ。そして、桜の葉からのほのかなしょっぱみと、馥郁とした香り。

「お嬢さんはいいお嫁さんになりますね」

「だれがやるか!」

想像だけで鬼のような形相になったコードに笑い、オラトリオは指を舐める。わずかな塩味が心地よい。

ご満悦の表情を確認してから、オラクルも道明寺へと手を伸ばした。

こちらはどこか恐る恐ると掴み、口に入れる前にふんふんとにおいを嗅ぐ。ちょっと首を傾げてから、思い切って一口齧った。

「…おいしいえ、なにこれ。すごい、ふしぎ!」

甘さと塩味のコラボは、オラクルの中で「ふしぎ」と処理されたらしい。

一口齧った道明寺を矯めつ眇めつして、じっくりと観察しだした。

「塩味と砂糖味なのに、ケンカしないんだねえ」

感心したようにつぶやくから、おかしい。

桜餅のほうに手を伸ばしながら、オラトリオは笑った。

「料理のレシピなんか見てみると、塩と砂糖って、結構いっしょに使ってるぜ。バランスさえ守れば、うま味を引き立てるんだそうだ」

「へえ…」

「昨今では、塩きゃらめるやら、塩ばにらといったものも出ているな」

「さすが師匠。伊達にネットサーフィンしてませんね」

微妙に褒め言葉ではない褒め言葉に、コードはわずかに顔をしかめた。素早く足を伸ばし、無防備に放り出されているオラトリオの足を踏む。

「…」

「…」

卓子下の攻防には気づきもせず、オラクルは料理人が試食するように用心深く道明寺を食べた。そうしながら、桜餅を食べるオラトリオをじっと眺める目は、温厚な管理人らしくなく、どこか鋭く厳しい。

オラトリオが桜餅を呑みこむのを確認してから桜餅に手を伸ばそうとして、オラクルはふと気がついた顔で抹茶を眺めた。

どちらにしようかと悩んでから、茶器を取る。鼻を近づけてにおいを嗅ぎ、びっくりするほど緑色の液体を口に運んだ。

「…っっ!」

「あ、まず。砂糖入れんの忘れてた」

「はあ?!」

盛大に顔をしかめて茶器を置いたオラクルに、オラトリオがしまったとつぶやき、その口走った内容にコードが目を剥いた。

コードの耳がおかしくなっていなければ、今、彼のひよっこ弟子は、抹茶に砂糖を入れるとかなんとか、すっとぼけたことを言っていなかったか?

「抹茶に砂糖だと?!」

お菓子の抹茶ではない。手順その他はすっ飛ばされたものの、きちんとした抹茶だ。砂糖を加えるというのは、あまりにあまりな発言だ。

わずかに裏返った声の師匠に、オラトリオはどこか楽しげに肩を竦めた。

「オラクルのやつ、子供舌なんすよ。苦いものだめだから、抹茶をそのまんま飲むのは無理じゃないっすかねえ」

「…いじめ?!」

抹茶の衝撃からようやく回復したオラクルが、涙目で、頼りになる守護者を睨む。答え如何によっては、風情ぶち壊しのファイルの洪水が起こるだろう。

オラトリオは自分の茶碗を掴むと、一口啜った。

なかなかいい味にできていると思う。師匠なら、これで及第点をくれるだろう。

味を確認してから、答えを待つ相棒を見返す。いつも厳しい紫雷の瞳が、無意識に甘く和んだ。

「そうじゃねえって。抹茶って、本来こういう味なんだよ。甘いもんといっしょに飲むこと前提なんで、結構苦めなの」

「苦すぎるだろ?!」

「そんなことねえって。ほらほら、師匠見てみ。嘘じゃねえだろ」

迫るオラクルに手を上げて降参しつつ、オラトリオは苦笑いして師匠を示した。

彼の師匠は、どこか呆然とした顔で、「抹茶に砂糖だと?!」と未だにつぶやいている。

その様子を認め、オラクルはちょっとだけばつの悪そうな顔になった。

戸惑いながらオラトリオを眺め、三島唐津にたっぷり注がれた抹茶を眺める。

「ま、どうせ本式の茶の湯じゃねえんだ。これも十分ありだろ、あり」

「あ…」

オラトリオが手を伸ばし、オラクルの茶碗に触れる。オラクルには、見た目こそそのままなものの、組成がいくつか組み直されたことがわかった。

「悪かったって。ちょっとうっかりしてただけなんだ」

本気で申し訳なさそうな守護者に、オラクルは戸惑った顔で黙りこむ。

組成の変えられた抹茶と守護者の顔とを見比べ、なにか言いたげにくちびるが空転し。

「…」

結局、なにも言えないまま、再び茶碗を手に取った。

警戒心剥きだしの、恐る恐るとした様子で茶碗を口に運び、一口啜る。

「…ん」

小さく合格点を与え、オラクルは上目使いにオラトリオを見た。視線に、オラトリオが笑う。どこか困ったようでもあるその笑顔に、オラクルのくちびるは再び空転し。

「…オラクル、おまえな。いかになんでも、味覚が脆弱ではないか」

腐すコードに、オラクルは子供のように頬を膨らませた。

「そう言ったって、そうなっちゃったものは仕様がないだろう。それに、子供舌とか大人舌とか、私にはよくわからないし」

言いながら、桜餅に手を伸ばし、大きく頬張る。きりりと吊り上っていた瞳が、一瞬で和んだ。

思わずオラトリオが吹き出し、コードの肩が落ちる。

オラクルは慌ててきりりとした顔に戻そうとしたが、甘いものを食べていてその顔は至難の業だ。

結局、なんだか自棄になって、次から次へと桜餅を口に運び。

「…なんの音だ?」

桜吹雪舞う中に、あまりに無粋なアラーム音が響き、コードは眉をひそめた。

オラクルが慌てて口の中のものを飲みこむ。

「オラトリオ、時間」

「お、もうか」

一方、<ORACLE>コンビはアラームの意味を正確に把握していた。

オラトリオが、どこか申し訳なさそうにコードを拝む。

「悪いんすけど、師匠、今日はここまでにしてください。俺らこれから、会議なんすわ」

「会議だと?」

オラクルとオラトリオのふたりが「会議」をするのを、わざわざこうやって時間まで区切られて断られたことなどない。

不思議そうに瞳を見張るコードに、砂糖入り抹茶で口を漱ぐオラクルが首を傾げた。

「今度新しく立ち上がるプロジェクトに関連した、上位者会議に参加するんだ。ほんとうは現地にオラトリオを派遣したかったんだけど…」

「日程が決まったんが、つい最近で、ついでに俺ときたら地球の裏側でお仕事中なもんで。さすがに間に合わねえだろってことで、<ORACLE>経由で参加するんですわ」

具体的な単語はなにも出さないものの、精いっぱいの誠意で説明してくれた機密保持者に、コードも無体を言いはしなかった。

納得したように頷き、砂糖を入れていない抹茶を啜って立ち上がる。

「それならば仕方あるまい。きりきりと仕事に励め」

そのまま帰ろうとするコードに、オラトリオがきょとんとする。

「あ、いや、師匠はここにいてくださって構いませんぜ。まだしばらく残しときますから。桜餅も道明寺も、まだあるし」

自棄になったオラクルが暴食したおかげで、桜餅も道明寺も残り少なくなっている。ひとりでのんびりとつまむにはいい量だろう。

そう思って提案したオラトリオに、コードは鼻で笑って肩をそびやかした。

「残りはやる。家に帰れば、まだエレクトラがつくり置きしているのだ。会議が無事に終わったなら、祝いにでもつまめ」

「ああそれ、無事に終わらせろっつうあれですね」

混ぜっ返した弟子に蹴りを放ち、コードは躊躇いもなく光となって帰っていった。

あれでいて、オラクルのこともオラトリオのこともなにくれとなく気を配ってくれるひとだ。

彼なりのエールだったとちゃんとわかったうえで、オラトリオは髪を撫でつけ直して気合いを入れた。

「んじゃ、オラクル」

「…あ、」

シフトして執務室に戻ろうとしたオラトリオの袖を、オラクルが掴む。ひどく困ったふうで、我が儘を言いたいのに言えない子供の顔だ。

実際、そうなのだということはわかっていて、オラトリオはわずかに身に纏う空気を緩ませた。

「なんだ?」

訊く声が、砂糖入りの抹茶以上に甘い。

それでも躊躇っていたオラクルが、わずかに俯き、上目使いでオラトリオをじっと見た。

「あ、のな。ここ、残しておいて、くれる、か?」

「…」

また来たい、と暗に言われて、オラトリオの顔が心から綻んだ。

即席の空間だが、自分がデザインしたものを気に入ってもらえるのは、それはうれしい。なによりだれより、オラクルが喜んでくれることが、いちばん。

手を伸ばすと、項垂れる顔を持ち上げる。額にキスを落として、耳朶を食んだ。

「もちろん。終わったら、またここでお茶しようぜ」

「…ん」

困ったように愛撫を受けて、だが、オラクルはうれしそうにはんなりと微笑んだ。