鳴り響くインターフォンに、鷹秋は顔を上げた。

「ぎりぎりセーフだな」

「ぅうう………っ」

きっちりと着替え終わった那由多は、未だにベッドに倒れたままだ。その顔には疲労の色が濃い。

まだ朝だ。起きたばかりだ。

そして色濃い疲労とともに、壮絶なまでに欲求不満が吹きだしている。

いってきます時間

「これは放置プレイというやつですか…………そうなんですね、放置プレイなんですね、鷹秋さん…………っ」

「だから自家発電を始めるなって言ってるだろうが。仕事だっての」

呆れたように言いながら、鷹秋は那由多を抱え上げる。もちろん、お姫さま抱っこだ。あまりに躊躇いもなくやられるから、無駄にときめいて仕様がない。

那由多にお姫さま願望などない――あるのは奴隷願望で、むしろ正反対なのに。

「今行く」

鷹秋は那由多を運びつつ、途中にあるモニターに応える。

向かった玄関で那由多を下ろすと、皺になった服をきれいに整えてやった。

「立てるか」

「じんじんします……………」

鷹秋はこれでいて賢かったので、どこが『じんじん』するのか、などとは問い返さなかった。

ぶつぶつ根暗くつぶやく那由多が、なんとか自力で立つのを確認すると、玄関扉を開く。

立っていたのは、スーツ姿にひっつめ髪の女性だ。那由多のマネージャで、さわちゃんと呼ばれている。

実のところ、鷹秋は彼女の本名を知らない。那由多が語ったところによれば、さわは本名を呼ばれると相手を殺しかねないほど狂奔するのだという。

そのために、滅多には名前を名乗らないし、名乗っても呼ばせない。

それで仕事になるのかと思うが、なるのが芸能界というところらしい。

一見、真面目な秘書そのもののさわは、ひょいと家の中を覗きこみ、朝から疲労の色濃い俳優を目に止め、肩を竦めた。

「今日もなのね…………毎日まいにちまいにちまいにち…………」

エンドレスで『毎日』をくり返し、さわはきりっと那由多を見つめた。

「ほら、行くわよ。しゃきっとして!」

「ぅうう、誰も彼も鬼ですか…………………………その環境はその環境で」

「自家発電始めないで!」

慣れているさわはぴしっと遮り、靴箱から服に合わせた靴を出す。

「今日もスケジュール詰まってるのよ。愚図愚図しない」

「ぐずぐず………」

つぶやきながら、那由多はのっそりと靴を履く。しかしそれであっさりと、玄関から出るわけでもない。

振り返ると、腕を組んで見守る姿勢の鷹秋を、潤んだ瞳で見上げた。

「たかぁきさぁん………いってらっしゃいのキス……」

「おまえは本気で、家政夫をなんだと思ってるんだ?」

鷹秋は呆れたようにつぶやき、仕事になりそうもない甘ったれの顔をしている『ご主人様』を見る。

職分は家政夫だ。旦那でも妻でもない。

いってらっしゃいのキスははっきりと、職域から外れている。

「たかぁきさぁんん………」

「仕方ねえな」

外れていることは一応主張したが、だからといって那由多を拒絶するわけでもない。

那由多の体を軽く抱き寄せると、くちびるを合わせた。

「………」

さわは黙って、腕に嵌めた時計に目を落とす。

「ん………んんふ…………ぁっ………んん………っ」

那由多は手を伸ばして鷹秋に縋りつき、長くしつこいキスを堪能する。

してくれと言ったのはいってらっしゃいのキスで、どこの新婚さんでも、いってらっしゃいのキスはここまで長くしつこくない。

おかえりのキスなら長くしつこくても問題はないが、いってらっしゃいの時間のキスが長くしつこいのは、その後の仕事に差し支える。

だがキスを強請るとどこまでもしつこく長いのが鷹秋で、そのキスの虜になっているのが那由多だった。

「ぁ………っふぅ…………っんんっ」

「………残り三十秒」

甘い声で啼く那由多の後ろで、さわが冷静につぶやく。その目は時計をじっと睨みつけている。

「十、九、………………三、二、一、ゼロ。そこまでよ、この万年発情期!!」

「はぁっんっ」

叫んださわの言葉に応え、鷹秋が那由多からくちびるを離す。しかし腕は離さない。今離すともれなく、那由多は崩れ落ちるからだ。

「時間か」

「私って気が長くなったわ。そして度胸も据わったわ。この世界で長くやっていけるかもって自信もついたわ………」

「よかったじゃねえか」

きりきりと吐き出すさわに、鷹秋はさらっと返す。たとえどんな理由であれ、仕事が続くのは社会性動物としては喜ばしいことだろう。

鷹秋は未だに、この仕事が続くような気がしない。

そもそも、やの字のときから長続きするような気もしていなかったし、警備に放りこまれてからも、長続きするような気がしたことがなかった。

ここまで続いているのはひとえに、お嬢こわいの一心だ。

下手に辞めると、湾岸に浮くかもしれない――以上に、なにをさせられるかさっぱり想像がつかないところが、恐怖を増大させる。

素直に湾岸に浮かせてくれれば、まだ慈悲深い。

「おい、ご主人様。そろそろしゃっきりしろ。自分から強請っておいて、へばるな」

「………………僕は出来れば、『ご主人様』ではなくて、『このブタ』とか、『雌犬』とか呼ばれたいんですが……」

力の抜けた体を揺さぶられ、那由多は殊更に鷹秋に擦りつく。一度、男の香りを胸いっぱいに吸い込んで、今日一日分の英気を溜めた。

ふらふらと離れると、熱っぽい瞳で鷹秋を見上げる。

「なんだか最近、呼称こそ『ご主人様』なのに、扱いが性奴隷っていう、逆転的な関係に目覚めてきました……」

「キャパシティが広いにも程がある!」

鷹秋が呆れて叫ぶ。しかし那由多側からすれば、そんな関係に目覚めさせたのは鷹秋だ。

自分のことを頻繁に『ご主人様』と呼びながら、その手管ですっかりと。

「そもそも誰が性奴隷だと」

「キャパが広がるのはいいことだわ」

さらに反論を紡ごうとした鷹秋を遮り、さわは言った。

「天才の名を欲しいままにしていたって、そこで研鑽を止めたら落陽よ。どんな理由のどんな分野のどんな方向性であれ、とにかくキャパが広がるのはいいことだわ。最近そうでなくても、八黄楊那由多は色気が増大しているって評判だし、たぶんそのうち、日○ロマンポルノとかから依頼も」

「自棄を起こすな、敏腕マネージャ!」

あらぬ方を見つめて言い募るマネージャに、鷹秋は少しだけ憐れみの心を抱いた。

続けられると思った仕事が、けれど楽な仕事と同義とは限らない。

その苦労の大半をつくり出しているのがまさに鷹秋なのだが、本人はまったく自覚なく、ひたすらに苦労していると推測されるさわを憐れんだ。

しかしとにかく。

「ほれ、いい加減出掛けろ、おまえら。時間が押してんじゃねえのか」

「ぅうう………この放置プレイさ加減……」

「「自家発電を始めるな!」」

マネージャと家政夫が揃って叫び、那由多は悲しそうに天を仰いだ。

「自棄を起こそうが自家発電しようが、仕事は仕事。行くわよ、那由多今日もスケジュールぎっちぎちよ!!」

「さわさんの鬼っ…………お、鬼…………いえ、女性は対象外ですけど…………っ」

「節操ないのもいい加減にしろ、おまえ……」

朝の起き抜けから続く『放置プレイ』に、那由多の頭は相当に朦朧とし、さらに言うと追い込まれ気味らしい。

普段は女性から虐げられてもそれほど感極まらないのだが、今は微妙に揺れている。

鷹秋は呆れて腐し、那由多の頭を少し乱暴に撫でた。犬ねこを撫でる仕種にも似ている。

やさしくされてもうれしくないはずなのに、那由多は鷹秋にそういう扱いを受けると、ひどく和んだ。

自分の性癖に、最近微妙な危機感を抱いていたりする。

そんな那由多には構わず、さわははっきりと仕事モードに入った。

「今日は外で接待の予定があるから、お夕飯は要らないわ。でも帰りは今日中。十一時かそこらくらいになると思うから」

「了解」

「那由多、しゃっきりして!」

「はぁい……」

返事こそしても、さっぱりしゃっきりすることなく、那由多は未練げに鷹秋を見上げた。しかしこれ以上はどうにもならないことも、一応わかっている。

「いってきまぁすぅ……………」

「しゃっきりしろ、しゃっきり!」

根暗くつぶやいて、とぼとぼと出て行った背中に、鷹秋は叫んだ。

扉が閉まると、やれやれと頭を掻く。

あれでテレビ画面の中では、別人としか思えないしゃっきりぶりを披露するから大丈夫だろうとは思いつつ、いつ馬脚を現すかと気が気でない。

「…………つうか、失脚したら、俺も家政夫から解放されんのか……?」

思いついたことに、ひどく微妙な気分に陥った。

そもそもやの字で、そこから警備会社に放りこまれ、ひとを守るやの字ってなんのことだと思っていたら、今度は家政夫だ。

家事労働に従事するやの字ってなんのことだと、日々疑問に思い、首を傾げているはずなのに、いざ解放されるかもしれないと思ったら、それはそれで微妙な気分になるとか。

微妙な気分に陥ったことにさらに微妙な気分に陥るというスパイラルに嵌まりこみながら、鷹秋は家事を片づけるために部屋の中へと戻った。