何度でも言うが、ダーの美貌は並外れている。

女のように美しいのではなく、女より美しいのではなく、人間を超越して美しいのだ。

住んでいるのが、築年数以上に手入れもされていない、今にも倒れそうなぼろアパートなのは幾重にも卑怯な罠だった。

VARCORACI

2部-第5

「あれ、どうしたんだ俺……勝手に涙が」

「記憶を失うと人間は大変あるね情緒不安定なんて、吾は付き合いきれないあるよ」

夕食に焼肉を食べて帰り、アパートの中に入ると、仁は勝手に熱くなった目頭を拭った。わけもわからないままに、涙が。

もちろん、懐かしい住み処の空気になにかしらの記憶が刺激されているわけではなく、ダーがこの部屋に住んでいるのだと思うと、大抵の人間は目頭が熱くなる。中には人目も憚らずに号泣するものもいる。

それくらいつり合わない。

世界には夢も希望もないのだと、打ちのめされる。

それにだいたいにして、この部屋に帰ってきて仁が懐かしさに涙したら、驚愕を通り越して絶望的な話だ。住んで日が浅いとか以前に、ろくな思い出がないのに。

「その、俺たちはここに、いっしょに住んでいるのか」

部屋のぼろさもさながら、大の男が二人で暮らすには狭い空間だ。天井の低さも相俟って、その狭さはブタ小屋を思わせた。

ただし『ブタ小屋』と言っても、ぴんく色のぶーぶーさんの小屋ではない。

彼らは意外と広い空間に住んでいる。そしてなによりも、大変愛らしくおいしいを両立した、奇跡の存在だ。

前述の『ブタ小屋』に、そんな奇跡の存在はいない。

恐る恐る訊いた仁に、ダーはきっぱり頷いた。

「そうある。吾らはつがいあるからね」

「つがい………つがい?!」

つがいってなんだ、と考える間を挟み、仁は素っ頓狂な声を上げた。

つがいと言えば、つまり夫婦。

「あんた、実は女なのか?!」

玄関に立ち尽くしたまま叫んだ仁を、ダーは部屋の中から呆れたように見た。

「おまえが莫迦なのは変わらないようで、むしろ吾は安心したあるよ。これで世紀の天才にでも変わられてたら、人間が恐ろしくなって人間界になどいられなくなるところある」

ひどいことを言いながら、まめまめしく畳の上に布団を敷く。

連日連夜、ヤりにヤっている布団だ。買い替えを重ねて、仁が住むようになってから六代目に突入しているが、すでにくたびれきっている。

そして、大柄な仁一人が寝ればいっぱいいっぱいになってしまうのに、布団は一組しかない。

「男…なのに……?」

ダーほどの美貌となれば、相手からしてみれば男だの女だのいうのは些細な問題だ。そのくらいの威力は軽々とある。

しかし、ダーからしてみれば仁の性別や見た目はずいぶん重要になるのではないか。

戸惑う仁に、ダーは腰に手を当てて胸を張った。

「男とか女とか、些細な問題ある。吾にとって重要なのは、どんな血が流れているかあるよ!」

「血?」

と言われて、まっとうな人間がまず思うことは。

「俺の血筋が、なにか特別なのか?」

血統だ。

だがもちろん、ダー言うところの『血』は、血統などではあり得ない。

自分の正体に繋がる情報が得られるのかと期待して、無意識に部屋の中へと上がりこんだ仁に、ダーは手を組んで身をくねらせた。

「おまえの体に流れる、不健康に濁ったどっろどっろの血あああ、想像するだけで堪らないあるねばついて咽喉に絡む血液。腐臭一歩手前のその香り……!!」

少しもおいしそうでない。

しかしダーの瞳は欲情に潤んできらきらと輝き、戦慄しながらも身動き取れずに見惚れる仁を見つめた。

「吾はおまえの血が飲みたいある。全部とは言わないあるよ。ほんの一口でいいある!!」

「っ!!」

仁の脳髄は、人外の美貌に蕩けていた。

少なくとも、表層上は。

人間の不思議と言おうか、記憶を失ってもどこかに反射神経は残っているらしい。

叫んで飛びついてきたダーの顔を、仁の手はがっしり掴んで容赦なく放り投げた。

「あいたある」

「あ、すまん」

ふつうの人間なら軽く吹っ飛んで壁にめり込んでいる膂力だったが、そこはダー相手だ。

ダーはいかにも可憐そうに、布団にころんと転がった。つぶやく悲鳴もかわいらしい。少しも痛そうでない。

それでも反射的に謝った仁だが、どういうわけか、今の自分の行動をあまり反省しようという気にはならなかった。現状、低姿勢であることが売りとなっているにも関わらず。

背筋にぞわぞわするものを感じながら、仁は自分でもそんな自分が不思議で、ダーを掴んで投げ飛ばした拳を矯めつ眇めつして見た。

「記憶を失った今ならちょろいかと思えば……人間、意外としぶといあるね」

ダーにとって残念な話をすれば、ダーは今日ここに至るまで、仁の血を一滴も飲ませてもらえていなかった。連日連夜、クズに「まさに化け物」と恐れ戦かれるほどにヤりにヤっているというのに。

セックスに持ちこむことは簡単なのだ。仁の単純な体はすぐに火が点く。夢中になって、ダーを貪る。

しかし、肝心の「血を飲ませろ」には、まったくもって色よい返事がもらえないのだ。

程よく精を堪能し、仁の意識も朦朧としてきたと見えたところで、ダーはささやく。

抗い難い美声を、重ねた欲にさらに潤ませて蕩けさせ、「飲ませろ」と。

これまで、このダーを拒めた人間などいない。

それなのに、我を失って夢中になっているように見える仁は必ず「うるせえ!」と叫んで拒絶し、「そんなに飲みたければ」以下略。

まあ、そのあとのちょっと乱暴なアレも、ダーは嫌いではない。あれだけ吐き出したのにまだ濃さを保つ精も嫌いではないし、それはそれでいい。

いいが、血には劣るのだ。

血に勝るものはない。

それがダーの味覚であり、嗜好だった。

ダーが喩えるなら、つまり、「日本人にとって米以上に主食となり得るものはないというのと同じ」なのだ。

――残念な話をすると、昨今の日本人の嗜好はだいぶ変わってきて、米しか主食になり得なかった時代は終わりを告げているのだが。

日本人の嗜好が変わっても、ダーの嗜好は頑固で、ある意味貞操堅固だった。

血がいい。

できることなら、不健康に濁った、どっろどっろの血。

それが、咬みでのありそうな筋肉ダルマの体の中に流れている。

堪らない!!

「あー……」

恨めしげに見上げるダーに、仁は遠慮がちに口を開いた。

「こんなことを訊くのは、アレなんだが……。その、あんた……もしかして、俺のこと、騙していないか?」

人としての礼儀にもとる問いだ。

少なくとも、ダーは病院から自分を連れ出して、右も左もわからないところを焼肉屋に連れて行き、夕食を奢ってくれた。

そして今は、寝る場所を提供してくれようとしている。おそらく。

おそらく、とつく時点でいろいろ怪しいのだが、低姿勢な仁にはそこまで頭が回らなかった。

ひたすら居心地悪い思いをする仁に、布団から半身を起こしたダーは鼻を鳴らした。

「もちろん、騙しているあるよ!」

「…」

それは堂々と主張することではない。

怒るよりも唖然とした仁に対し、ダーはどこまでも偉そうに胸を張った。

「おまえ、吾をなんだと思っているある。由緒正しき闇の眷属、人の世にその悪名を轟かせしVarcoraciあるよそれはもう、人間の弱みを見つけたら、そこに付け入ることに躊躇いも容赦も呵責もないある。そんなもの、弱みをつくるほうが悪いあるからね!」

「あー……」

ここまで堂々と宣言されると、いっそ善良な気さえしてきた。

もちろんそれは錯覚で、実際のところまったく善良ではない。

ないのだが、自分を悪であると胸を張って宣言されると、かえって素直ないいひとに見えてしまうのが人間だ。

反対に、善行を主張されると偽善者に見える。どんなに真実であろうと。

ダーいわく、人間心理のほうがねじくれていて、よっぽどわかりにくい。

「吾の言う言葉にいくらも真実があると思うなら、それはマヌケあるただの阿呆あるね言葉の裏から真実が探り出せると信じているなら、地獄に堕ちても救われない夢想家の理想屋ある。むしろ酸鼻を極めて凄惨に死ねある!」

とはいえ、堂々としていればなにを言ってもいいわけではないが。

戸惑いながら見つめる仁を、ダーは一転、瞳を潤ませて見上げた。

「でも、ひとつだけ。これだけは信じて欲しいことがあるある」

「え?」

妙なる美声が、気弱に震えながら吐息とともにこぼれる。耳から脳みそを蕩かされるような、絶なる声だ。

どこまでも精緻を極めたダーの白い手が、殴りダコの出来た仁の無骨な手を取り、胸に抱く。

恋に懊悩する幻想乙女の情景をそのまま三次元に描き出したかのような様態で、ダーは切なく吐き出した。

「吾がおまえを愛していること。おまえひとりを愛していることだけは、疑わないで欲しいある」

「…」

もし『仁』なら、即座に手を振り払い、「嘘くせえ!!」と叫んでいただろう。

おそらく、「てめえは食欲と性欲を愛と勘違いしているだけだ!」と、至極まっとうな指摘をしたはずだ。現実問題、食欲と性欲と愛情の区別がついている人間がどれだけいるかは別として。

今の仁は、わりと普通の人間の感性だった。

ごく素直に、ダーの姿に見惚れ、その切ない言葉に呑みこまれてしまった。

それも仕方がない。

普段のダーを知っている人間ですら、その一枚を切り取れば世界一の純愛物語に出来るのにと、一瞬、悔しがってしまうくらいにはダーの美貌はかけ離れて、凄絶なのだ。

免疫がなければそれこそ、「イチコロ」だ。

「あ、うん。その」

どぎまぎしながら、仁はどうにか言葉を絞り出そうとした。

ダーの朱いくちびるは、さっき言ったはずだ。自分の言葉に、「いくらかでも真実があると思うのはマヌケ」で、「ただの阿呆」だと。

グロスを塗っているわけでもないのに艶めくくちびるが、視線を泳がせる仁を眺めてにんまりと歪んだ。

「というわけで、ヤるあるよ」

今つくった雰囲気をあっさりぶち壊し、ダーは軽い仕種で仁の巨体を布団に転がした。幾重にも残念な生き物だ。生きていないが。

「?!」

未だ、人間世界の常識に住んでいる仁は、咄嗟になにが起こったのかわからない。ダーの小柄な体が、巨体の自分をこんなふうに簡単に転がせるわけがないのだ。

呆然として身動きが取れない仁の体に馬乗りになり、ダーは自分のシャツに手を掛けた。

「夜は短いある。さっさと始めないと、寝る時間がなくなるある」

「ちょ、ま、え?!や、やるって」

動揺する仁に、ダーは一瞬だけ考えた。一瞬だけ。

そして、にっこりと笑う。闇の眷属だが、『天使のごとき』の形容詞がつけられそうな無邪気な笑顔だった。

「院長が言っていたある。失った記憶は、なにがきっかけで取り戻すかわからないと。ゆえに、やれることはすべてやるあるよ」

一聴、まともそうな理屈だった。

しかし、ダーだ。どこまでも、自分に都合よくしか動かない。

「というわけで、ヤるあるよ。吾の体を開けば、おまえの体がなにか思い出すかもしれないあるし、吾は腹が満たされるしで、まさに一石二鳥の良案ある!」

「って、いや、その……」

真っ赤に熟れ上がって、凶悪な顔相はすでに大量殺人レベルに達していた。

それでも内面はどこまでも繊細で穏やかな仁は、意味もなく手を振った。

その手を軽々押さえこみ、ダーはにんまり笑う。

「心配するなある。吾はどうすれば人間が気持ちよくなれるか、熟知しているある。おまえにその気があろうがなかろうが、大した問題ではないある。吾が地獄の快楽を与えてやるあるよ」

「…っ」

笑みは凄絶で抵抗のしようもなく、仁は凝然とそれを眺めた。

「さあ、吾の中におまえの精を存分に吐き出すある」

朱いくちびるがくちびるに触れる。

気が狂いそうなほどに冷たく、吐き気を催すほどに死臭漂うキスだった。