→マスターは頭がおかしいひとだ。

マスターに買われて起動して、およそ三年。カイトがなにより学習したことは、その一言に集約される。

→マスターは頭がおかしいひとだ。

だからあらかじめインプットされていた世間的常識から、マスターの行動が類推できないのは仕方がない。マスターの思考が推量できないのも仕方がない。

Gammon & Spinach-02-

カイトの『旦那様』をネット注文した翌日、マスターは引っ越し先を物色してきた。

今まで暮らしていたのは、十畳一間のワンルームマンションだ。

男ふたりでワンルームもかなり手狭なのに、三人にもなれば目も当てられない。しかもお迎えするのは『旦那様』だ。

まったく住居を分けるわけにはいかないが、夫婦の寝室とマスターの寝室を分けるくらいのことはしたい。

というわけで、いい機会なのでマンションを買った。

…と、仕事から帰ってきたマスターが説明。

翌日にはカイトは身一つで、買ったばかりの新築マンションに移動。荷物は夜までに勝手に運び込まれ配置され、一日できちんとした生活環境が整っていた。

前々から虎視眈々と計画していたか、さもなければ唸るように金がなければ不可能な荒業ですべては運んだのだが、世間知らずのカイトにはそこらへんのことがよくわからなかった。

もしかしてこれってずいぶんと破格のスピードじゃないだろうか、と少し首を傾げはしたが、なにもかもすべてが一言に済まされた。

→マスターは頭がおかしいひとだ。

世間はどうでも、カイトにはこの一言で理不尽のすべてが説明不要。

広々としたテラス付きの3LDKという激変した生活環境も、マスターにまったく変わった様子がないので、あっという間に馴染んだ。

良くも悪くも、カイトは鷹揚で適応力が高かった。そして、生活に対しての関心が薄かった。

注文から一週間ほどで、カイトの旦那様は箱に納められてやって来た。

起動させる前に、マスターが設定を自分仕様にカスタムする、そのための期間がさらに一週間ほど。

二週間経って、ようやく、カイトは自分の旦那様だというボーカロイドの姿を見た。

***

「そなたがカイトか」

マスターの部屋から出てきた旦那様――がくぽは、リビングの陽だまりの中、静かにうたの音程をさらっていたカイトに、実に尊大な口調で声を掛けてきた。

尊大なのだが、それがしっくりと来る外見ではあった。

鋭く切れ上がったきつめの瞳に、すっきり通った鼻筋と、利かん気が強そうに引き結ばれたくちびる。

頭の上のほうで高く括られた長い髪は、光り輝く藤色。

着物をアレンジしたボディスーツに包まれたからだは、たくましい造りだと遠目にもわかる。

位の高い若武者といった雰囲気で、どれを取っても文句のない美形で通る。

ソファがないので、床に敷いた絨毯の上に直接座っているカイトは、遥か高みにあるがくぽの顔を、けぶるような眼差しで見上げた。

「わが妻、とでも呼ぶか?」

あまりいい気持ちのしない尖った声で、がくぽはそう吐き捨てた。

カイトは首を傾げる。

「マスターはどうしました?」

直接には応じず、まず確認したカイトに、がくぽは肩を竦める。

「寝ている」

「旦那様と呼んだほうがいいですか?」

「…」

間髪入れずにカイトは訊いた。がくぽが虚を突かれたように花色の瞳を見張り、ややして思いきり顔をしかめる。

「呼びたいのか?」

「あなたが望むなら」

平静に応じたカイトに、がくぽはますます顔をしかめた。

「疑問はないのかそれとも嗜好を調整されてでもいるのか?」

質問の意味がわからない。

がくぽの話し方はひどく曖昧で抽象的だ。主語がない。

プログラムというより、人間に近い気がした。人間よりはプログラムに近いカイトには判読が難しい。

「疑問ですか」

「ないのか。男の身で男と娶わせられることに対して」

カイトは少し考えた。がくぽの望む答えは相変わらずよくわからないのだが、つまり。

「あなたに抵抗があるのなら、別にあなたが妻で俺が夫でも構いませんよ?」

「違うわ!」

大音声で否定され、カイトは湖面のような瞳をわずかに見張った。

マスターとふたりの生活になってから、こんな大きな声が自分に向けられたことはない。

淡々として、起伏がない。

それがマスターのスタイルであり、望む生活なのだ。

「どこをどう飛躍して、そう結論したか、このうつけめもっと基本に立ち返って考えられぬのか」

「基本ですか」

苛々として話しかけられるのも、ここ久しくなかった経験だ。それで揺らぐようなやわな精神ではないが、今まであまり興味のなかった『旦那様』に対して、少し興味が湧いてきた。

「その基本が世間的な基本を指しているのなら、無意味であると指摘しておきます。がくぽ――便宜上そう呼びますが。あなたを買い上げたマスターに関して、把握しておかなければならない重要な事実があります」

「なんだ」

焦点のぶれた瞳に静かに見据えられて、がくぽはわずかに気圧されたように仰け反った。

そのがくぽに、カイトはきっぱり断言した。

「マスターは頭がおかしいです」

「…」

そんなことを断言するパーソナルプログラムもどうかと思うが、断言されてしまうマスターのほうもどうなのか。

言葉を継げないがくぽに、カイトは淡々と続けた。

「マスターは頭がおかしいですから、世間的な基準を用いて判断することは薦められません。マスターの考えを推し量ろうとすることは無意味である以上に不可能です。飛躍以上に、そもそもの着眼点から違いますから、正常なプログラムでは追いきれません」

カイトの言葉に感情はなかった。呆れているとも、誇らしいとも。ただ、事実だから事実として述べる。

それだけのこと。

聞いていたがくぽはだんだんと肩を落としていき、やがて顔を覆った。

「ならばそなたは、マスターのやることなすこと、理解できぬからと、ただ従容と受け入れるのか?」

カイトは首を傾げた。

がくぽの慨嘆の意味がわからない。

マスターを受け入れるとか受け入れないとか、そんな選択肢がそもそも存在するだろうか。プログラムの初めから、マスターは絶対の主として君臨しているのに。

「理解することが必要ですか?」

「…絶望的だぞ、そなた。俺の妻に情けはないのか」

がくぽの言っていることは相変わらずわからない。なににしてもとにかく、曖昧過ぎる。

カイトは少し考えてから、がくぽに微笑みかけた。

「夫があなたで良かったと思います。少なくとも、ほかの誰かではなく、あなたで」

「なにを根拠に」

訊かれて、カイトはごくあっさりと答えた。

「マスターに俺の夫になれと命じられたのに、抵抗しているでしょう。俺のために」

「…」

またも言葉を継げず、がくぽは凝然とカイトを見つめた。そのがくぽに、カイトは微笑んだまま手を伸べる。

「来てください、がくぽ。いくつかうたを入れて貰ったはずです。合わせてみましょう」

「…」

がくぽは動かない。ただ黙って、カイトを見つめる。

気にせず、カイトは言葉を重ねた。

「俺たちはうたうために生まれた、うたうものです。理屈を捏ねまわすより、うたってみたほうが得るものは多い」

なおも動かないがくぽに、カイトは一層手を伸ばす。

「あなたのうたを聴いてみたい。あなたに俺のうたを聴いてほしい。始まりがそれでは、だめですか?」

「…」

手を取ることはなく、がくぽはカイトの正面に胡坐を掻いて座った。

ひとひとり分空けた距離は、今のがくぽの精いっぱいの妥協だ。

だがカイトはそんな葛藤に頓着することなく距離を詰めると、がくぽの手を取った。

焦点のぶれたけぶる瞳が、緊張に引きつるがくぽの瞳を穏やかに覗きこむ。

知らず、声が弾んだ。

「なにをうたいましょうか?」