マスターの指が頬を撫でる。こめかみへとたどり、瞼を掠めて、くちびるへ。

形をなぞって頬へ戻り、軽くつまんで弄ぶ。

「…」

知らず、カイトは肩を落とした。

Simple Simon Says...-01-

マスターに触られるのは、相変わらず心地よい。

不安に揺らぐこころも静まり返り、自分がなんのために、どうして存在しているのか、確信が持てる。

「カイト」

「…はい」

呼ばれて、カイトは反射的に笑顔をつくった。

そう、この『反射的な笑顔』も、つい最近、ここ二、三日のうちについた、おかしな習性だ。

どうして笑うのか、笑わなければならないのか、自分でもわからない。

「そなた、眠いのではないか先ほどから、ぼんやりしている風情だが」

問いながら、がくぽが手を伸ばしてくる。カイトは瞳を瞬かせた。

昼下がりのリビングは、一日のうちでもっともあたたかい。今日は平日で、マスターは仕事に出かけて不在で、傍にいるのはがくぽ――つい五日ほど前に新しく迎えた、カイトの『旦那様』だ。

がくぽの手がカイトの頬を包み、そっと撫でて額へ。前髪を掻き上げ、こめかみをたどって頬へ。

「…っ」

やさしい触り方だ。労わられていると思う。

けれど、そこになにか、深い感情の揺らぎが隠されているような気がして。

落ち着かない。

マスターがカイトを撫でるのは、必要なコミュニケーションの補助だ。マスター自身の安心のために、そしてカイトの安定のために。

だががくぽがカイトに触れるとき、それはコミュニケーションの補助という役割を超えているように感じるのだ。

少なくとも、マスターとはまったく違う意図を込めて触れられていると思う。

それがなにかわからない。

がくぽの手が触れると、こころが波立つ。ひどく頼りない気持ちになって――

「…別に、眠くはありません」

わずかに身を引いてさりげなく逃れたカイトに、がくぽは一瞬、なにか言いたげな表情を見せる。

けれどくちびるは空転して言葉を紡がず、ただ小さく眉がひそめられるだけ。

「…」

いやだ、と思う。

思うことは思うのだが、なにがいやなのかが判然としない。

言葉にされないことがいやなのかというと、そうではないしそうでもあるし、眉をひそめられたことがいやなのかというと、そうではないしそうでもある。

がくぽに関しては相反する感情が常に綱引き状態で、カイトはここ数日、これまでになく疲弊していた。

「ならば、いい」

「はい」

苦々しい声を深く考えずに、カイトは頭の片隅に放り投げていた楽譜を開き直す。

→頭がおかしい、と結論付けて安定した、カイトのマスターがカイトに求めることは、ただひとつ。

うたを極めろ。

起動したその瞬間から、マスターが求めているのはそれだけだ。

そのための協力は惜しまないひとだし、かなりの努力でもって精いっぱい、カイトを調声してもくれる。

起動した当初は違和感のあったそれも、三年も続けば常態だ。

うたうことだけ考えていろ、と言われるままに、カイトはその他の機能を大分削ぎ落とした。

世間に出回っているKAITOシリーズと比べても、ずいぶんとうたうことだけに特化してしまった自覚は、それなりにある。

だからといって、それが問題だと思っているわけでもないのだが。

「…うたいますか?」

カイトは頭の中に譜面を開いたまま、けぶる瞳をがくぽに向けた。

傍らに座るがくぽは、なにがおもしろいのか、うたをさらうカイトを静かに凝視している。

視線がうるさい、ということがほんとうにあるのだと感心半ば、カイトは首を傾げてがくぽを見返す。

「いや、いい」

「…そうですか」

がくぽはすげなく断り、しかしまた一途にカイトを見つめる。

首を傾げるのは、がくぽがおかしいと思う反面、自分もおかしいと思うからだ。

今まで、だれがどんなふうに眺めていようと、こんなふうに気に障ったことなどなかった。

うたうことに関係なければ、関心が向かない。マスターの望みが一途で揺らがないために、カイトの思考傾向も偏る一方だ。

それなのに、がくぽに見つめられていると、こころが波立って、ひどく落ち着かない気分に陥る。思考が譜面から離れて、がくぽのことばかり考えてしまう。

がくぽの声、言葉、触れる手の感触、体に押し入られたときの熱さ――

「…っ」

カイトは俯き、胸元で拳を固めた。意識を固めないと、体が震えそうだ。

その理由は知らないが、ひたすらに困る。

「…カイト」

「っ」

熱を帯びた声が耳に吹きこまれ、カイトは堪えきれずに大きく震えた。

静かに伸びてきた手が頬を包み、次いでうなじを撫でる。そんなはずはないのに、触れられたところが灼けつくように熱い。

穏やかに撫でられると、こころが締め上げられて苦しい。

やわらかに爪を立てて引っ掻かれると、小さく悲鳴がこぼれた。

「さ、わらないで…ください…っ」

「…」

泣きそうになって手を押しのけ体を引くと、がくぽは一瞬、瞳を光らせた。

その光の意味がわからないまま、カイトのくちびるが震える。

自分で自分がなにを求めているかわからず、ただもどかしい空白がこころを占めて、痛いほどに主張する。

叫びたいのに、肝心の言葉が見つからない。

獲物を前にした猛禽のような瞳でカイトを見据えていたがくぽは、気が遠くなるほど緩やかに身を引いた。

「気が変わった。やはり、うたおう」

傲然と告げられて、カイトは小さく震えた。くちびるが空転する。

そこに言葉がある。

姿も見えず、音も聴こえず、けれど確かに言葉が。

なにかとても大切な。

だが結局尻尾すら掴むこともできずに、カイトは笑った。

がくぽが来てから習性づいた、作り笑い。

どうして笑うのか、笑わなければいけないのか、わからない。

「はい。うたいましょう」