B.Y.L.M.

-あるいは

イクサ場にあって時流を読み、南王をうまくおびき出してひとりきりとした彼は、個対個の仕合を制し、南王の首に刃を突きつけた。

南王の剣を叩き折り、首に刃を突きつけたのは、まさか最弱のと侮っていた人間族の男――少年だった。

ひどく若く、そしてどうであったとしても、ひとに変わりはなかった。神期から血を遺す氏族もある南方においては、最弱にして短命を嘆かれる族だ。

対して南王といえば、世界を東西南北四分割したうちの、南方のほとんどを治める王だった。その力、知略、存在のすべてが人智を超えるがゆえに、国の内外から『魔』の冠まで与えられたほどの。

災厄と同義と忌まれる力を誇る南王を、しかし最弱のと嘆かれる人間族の、少年が下した。

突きつけられた刃が首の皮を削ぎ、少年の剣を握る手にいっそうの力が入る。刃は首の皮で終わらず、肉を断ち筋を切り、骨をも――

首が飛ぶと、咄嗟に覚悟を固めた南王だったが、そうはならなかった。

皮一枚でぎりぎり剣を止めた少年は、油断なく南王の動きを見張ったまま、負けを認めるかと訊いてきた。

首が飛ぶと、覚悟までさせられたのだ。これが負けでなくて、なんだというのか。

だから南王は素直に、認めると答えた。自分の負けだと。

そうしたなら――そうしたなら、少年は南王の首から剣を引いた。のみならず、地べたに置くと土下座し、地に額を擦りつけながら叫んだのだ。

「嫁さんに、なってくださいっあ、ちがうっ嫁さんにはなんなくっていいんで、でもとりあえず、とにかく俺の子を産んでください、お願いしますっ!!」

人智の外にあるがために、人智の内にあるものの言葉がほとんど届かない南王だったが、彼は南王と戦い、刃を叩き折って、自らの剣を『届かせた』。南王と、意を通じたのだ。

それで、子が欲しいと言う――今世にあって異質を極め、人智を超えたとして『魔』の冠を与えられまでした南王との、子が。

面白いと、南王は思った。

なにしろ自分を負かしたほどの相手でもあるし、最弱種族であろうが、構わなかった。

そのとき存命の伴侶がいなかったこともあって、南王は即座に彼の要望を容れた。『即座に』だ。

南王はその場で、少年と番い――

それが南王の、幾人めかにして初の、最弱種たる人間族の夫との出会いであり、馴れ染めであり、十とふたりめとなる子を生した理由の、ほとんどだ。

そして今日だ。『今』だ。

その、最弱種たる人間族の父親の血を継ぎ、南王の十とふたりの子のうちでももっとも弱かった末の息子が、南王と戦い、その首を掻き飛ばした。

自らの城の離宮、その奥の間の寝台だ。

掻き飛ばされた首を付け直したばかりの南王は、寝台で自堕落に転がっていた。

いかに南王が人智を超えるとはいえ、さすがに首を飛ばされるのは疲れる。付け直したにしても、すぐと安定するわけでもない。それに、腹に溜めていた子のいのちを喪ったという感覚は、思いのほか、堪えた。

いずれこういう日も来るだろうとは思っていたが、だとしても――

「やはり、得心がゆかぬ」

転がったまま眉をひそめ、南王はつぶやく。

容貌は二十代の前半というところ、髪は腰までを覆うほどに長く、煌いて寝台に散る。

若く、うつくしい――が、性別ははっきりとしない。男にも女にも見えるし、男にも女にも見えない。

これは南王がひとに擬態するときの、姿だった。これが人間族として得た、南王の姿だ。

あまりに人間離れして麗しい容貌なのだが、ではなんの種族かと改めて問えば、確かに人間以外のなにものでもないという。

この容貌を継ぎ、しかし力は最弱の末の子が今日、南王の首を掻き飛ばした――

剣の腕前は、父親譲りだった。技量としては荒いが、本能が強く、とかく生きるに長けるという。

家なしのイクサ場暮らしという生まれ育ちの父親が、ひたすら実戦で磨き抜き、いつかは南王を下した剣技だ。

見た形こそ南王そのもの――あくまでも、そのうちの人型のみだが――であっても、末の息子はぞっとするほど、父親の気質を継いでいた。あまりにも、そのままだった。

そして南王を下した。

父親譲りのその剣技をもって、父親とは違って寸前で剣を止めることなく、南王の首を胴から切り離し、掻き飛ばして、いのちを散らした。

不機嫌に眉をひそめた南王は天井を睨みつけ、紅を塗らずとも朱に染まるくちびるを開く。

「汝れが『ひとの族にありては、息子は母より容色を継ぐが良し』と乞うゆえに、我れは息子に、母たる我れの容色を譲りしが………ああまで気質が似るなら、容貌とても汝れを映せばいいものを。まったく、ひとの族の習いはわからぬ」

つけつけと吐きだし、南王は体を起こした。振り返る――離宮の奥の間、この寝台の、真なる主を。

「見よ、見や、トよ我が夫にして、我が十とふたりめの、末の息子の父よ――」

呼びかけて、南王はすでに開く衣装の首周りを、さらに開くようなしぐさをした。そうやって首の傷――末の息子に剣でもって完全に掻き飛ばされた、その名残りを見せつけるように示す。

「汝れは我れには枷を掛けたが、息子は自由だななにも枷をかけおらぬであろう。この扱いの差が、実際に首を掻き飛ばされて、腹に据えかねた。どうにも治まらぬ」

腹が治まらないらしい表情と声音でもって言いきり、南王は厳しい眼差しで寝台を睨みつけた。

屈強なる武人が三人ほども並んで寝たところで余裕がある、広い寝台の、その中央だ。

そこにいることを知らなければ見落としそうな――豪奢な寝台の、やわらかな布団に埋もれてある、人影。小さな、ちいさな――

しばらく睨みつけ、眺め、やがて南王の瞳から険が消えた。

体を反すと南王は再び、寝台に倒れる。ふうと、小さな吐息がこぼれた。

南王はぼんやりと、天井を眺める。その肌を、絶えることなくさやさやと、涼しい風が撫でていく。

酷暑の季節の長い南方は、いかなる建物であっても風通しを重視して造る。この離宮も同じだ。どの部屋も、ほとんど柱と屋根かと思うほど、壁一面に窓を取り、風を通す。

なかでも今いる奥の間となれば、影の配置から気を遣って、ことに風通しと涼しさとを追及した。

だからこうして、夏季も始まったばかりの今程度の気候であれば、昼間から寝台に埋もれてもいられる。自堕落に過ごすに最適であるし、なによりも――

「治まりが悪いのはな、なによりあれの望みが見えぬがためよ」

ややして南王は、そう、ぼそりと自らの不機嫌の根幹を吐きだした。

「まったくもって汝れの気質通り、生きる展望の乏しき子であったものが、我れに刃した。となれば、狙いは王位であろうなにしろ王の花を手に入れたのだ、望むことがそれ以外に、なにがある――」

苛々とした様子でそこまで言って、南王はくっと、きつく瞼を閉じた。頭痛を堪えるかのように手を上げ、額を押さえる。

「しかしあれは、知らぬはずだ。単なる花であると思っているはずよ。年も四、五百を数えれば、おぼろに記憶のあるものもいようが、でなくば王の花自体を知るはずもあるまい――知らぬままで、あの胆力なき末の息子が、我れに刃するものか王位を望んでああ、否――」

考えをまとめようとする口調でそこまでつぶやき、南王はさらにきつく、瞼を閉じた。きしりと、奥歯が鳴る。

「実のところ我れは、泣きそうである。狙ってくれと嘆願したくて堪らない………なにゆえ言いきれない。そうだと思いきれない。それ以外に、今世にあるものが王の花を掌中に収める意味などなかれ。だというのに…」

確かに泣きそうな声で、軋らせる歯の隙から、南王は狂おしく吐きだす。

末の息子と南王とは、理由もなく今日、死闘を演じたわけではなかった。

王の花を巡り、諍ったのだ――西に芽吹き、砂と風に洗われ磨かれて顕現せる、奇しなる花を。

ただしこれは、野辺の花ではない。不可能がなかったと言われる時代、可能のみの時代である前代神期の遺産、あるいはその先祖返りを差して言う。

なかでも数百年ごとに西方の地に芽吹き、開く花はことに強く血を還し、これのみを『王の花』と称した。

前代神期に生じた始祖と、ほとんど変わらぬほどの力を戻して蘇るそれは、手に入れたなら南王をも凌ぐ力を得ることができる。

人智を超えたという意味で『魔』の冠を与えられ、災厄と同義で語られる南王をもだ、軽く凌ぐ力だ。

――それが、巷間における『王の花』の意味であり、意義だ。

そう、南王が意味を与えた。千余年前の失敗を教訓に、なにより彼の花を守るため、道具へと堕したのだ。

年経りたものなら王の花の本来を知っているだろうが、年若くなればなるほど、王の花とは南王へ対するための道具でしかなくなる。そのはずだ。

西方から再び南方に戻し、確かに南王の庇護下に置くまでは――

しかし、ほかの『花』は咲き開くと同時に大地に根づくが、彼の花だけはひとに根づく。ひとを選んで、ひと以外には根づかない。

たとえ自らの手のうちへ戻そうとしても、ひとではない南王のもとへ、彼の花は易々とは戻らなかった。あのときも、あのときも、あのときも手を伸ばしたが、すべて失敗し、――

それで今回、しばらくぶりに彼の花が芽吹いた際、試しにと、ひとの血を引く末の子を送りこんでみたのだ。

南王の気配もあれ、末の子には確かに夫の、父親の、まったき人間の血が流れている。

うまくいくかは、一か八かの賭けだった。

南王より古く、ずっと強く前代神期の血を継ぎ、遺す――彼の花のやりようは、南王に読みきれたためしがない。常にままよと思いきり、賭ける以外には。

であればこそくり返した失敗だったが、今回は勝った。

否、勝ったと、思ったのだ。

彼の花は、末の子に根を触れさせた。根づくというほど強くはなかったが、これまで無為な義理を抱き、きつくしがみついて離れなかった西方から初めて、根を浮かせたのだ。

このまま、末の子ごと戻せば、ようやく彼の花を南方に連れ帰ることが叶う。南王の庇護下に置いてやることができる。長の悲願が、古い誓約が、やっと果たされる――

そう、安堵したのも束の間だ。

肝心の末の子が離反した。王の花を自らのものとせんと――

しかしだからくり返すが、末の子はあれが王の花と知らないはずだ。単なる通常の、一般の『花』だと思っている。

王の花と知れれば、南方では諸侯諸族こぞっての争奪戦が起こる。間近にやった末の子のいのちがいちばんに危うくなると思えば、肝心の末の子にすら、王の花の話はしていないのだし、――

「………なにやら既視感である。そも我れは、弱子なる末の息子には、手を焼かされ続けている記憶しかない」

懊悩にも飽き、南王は額を押さえていた手を寝台に投げ、つぶやいた。

つぶやいてから、南王は再び身を起こす。ため息とともに目を眇め、寝台の中央を恨めしげに見た。

「違うな。息子だけではない――我れは知っているぞ。こういうのを、親が親なら子も子だと、ひと世は言うな。我れは汝れにも手を焼かされ続けている。まさか我れが――南王たる我れが、だ!」

――そもそも南王を下し、子を産んでくれと、夫が身も世もなく嘆願したころだ。

あとで聞いた話だと、あのころの夫は相当に焦っていたのだという。

つまり、最弱であるうえに短命の種族の生まれだ。だというのにさらに寿命を縮める話で、家なしのイクサ場暮らしだ。

イクサ場で見かける老齢者は人間以外の種族か、人間と人間以外の種族の合いの子かで、まったき人間は三十にもならず、死んでいく。

――陛下とヤったときな、十七だったろ、俺。三十にもならず死ぬんだったら、もう時間がないじゃあ、ないか。そこに陛下だ。強いわ、別嬪だわ、言うことないってもんだろ。そもそも俺、なんかお偉いさんくせぇなとは思っても、まさか陛下だとは思ってもないからよ!

そう言って呵々と大笑した夫の口癖は、『どうせ三十にもならず、死ぬんだから』だった。

生まれた子にしても、『がくぽ』という名を与えて歓びはしたが、ともに暮らそうとすることはなく、イクサ場暮らしを続けた。

風向きが変わったのは、年齢が三十を数えたあたりからだ。『どうせ三十にもならず死ぬ』はずが、まさか三十となり、三十を超え、未だ死ぬ気配もない――

先に言うが、これに関して南王は、なにも力を振るっていない。

南王は自らに子を与えた相手のことは最大限に尊重し、尽くしきるが、意思を最大限に尊重すればこそ、できない手助けというのがあるからだ。

だから夫が生き延びたのはひたすら強運と、南王をも下す知略と武勇の、自らの実力でのこと――

三十を超えたところで、南王は夫に屋敷と所領とを与えた。生きないと言うから放っておいたのであって、生きているなら子の親として相応に報いるべきというのが、南王の考えだからだ。

四十となるあたりで、今度は夫から南王に願い出た。与えられた屋敷で、息子とともに暮らしたいと。

考え方は同じだ。生きないと思っていたから触れ合わなかっただけで、生きるなら夫も子を愛おしみたいのだ。

人智を超えたとして『魔』の冠まで与えられ、数々の難局をこなしてきた南王がしかし、このときは頭を抱えた。

なぜなら子供は未だ幼く――生まれて二十年余を経ても、末の子はほとんど、生まれたときままだったのだ。いっこうに、成長しない。

結局、最弱たる人間の血と最強たる南王の血が、うまく交合できなかったのだろう。南王の血の強さによって身を滅ぼすには至らないが、さりとて進めもしないという。

いかになんでも、南王の子だ。どうであれ、常にいのちを狙われ、あるいは利用される危険がある。自分の身も守れないような様態で、南王の庇護下から出すわけにはいかない。

が、最弱種族であり、短命たる夫が願うことだ。是非にも叶えてやりたかった。

そして短命であればこそ、ことは急がれなければならなかった。

それで解決のため南王が取った手段といえば、強制的に子を成長させるという――夫が知ればひどく嫌がることはわかりきっていたが、夫の願いを叶える方法を、南王はほかに思いつけなかったのだ。

とはいえ末の子の抱える問題は根深く、南王の力をもってしてすら、すぐとはいかなかった。

まさか幼子相手に、それも最弱種族の血を引く子を相手に、人智を超えるという意味で『魔』の冠まで与えられた南王が、手をこまねいたのだ。

結局、外へ出してもすぐには死なないだろう頃合いにまで育てるのに、十年近い歳月を費やした。

付加武装も加えてやって万全を期したうえで、ようやく夫の念願を叶えて子と暮らさせてやれたのが、五十を目前としたあたり――

良かったと、間に合わせてやれたと、胸を撫で下ろしたのも束の間だ。

六十となった年、夫は南王のもとに来た。

――いやまさか、ここまで生きるったぁ、まるで思ってなかったな。生きちまったなあ、うん。ふっつーに生きてたってよ、人間で六十ったら、大長老だぜ。それがなあ、家なしのイクサ鬼がよ、なんの因果か知れねえが。

祝いの酒を酌み交わす南王に呵々と笑って言って、――夫は、嘆願した。

自分をやるから、もはやなにをしてもいいから、子のことは見逃してくれと。なにもしないでやってくれと。

そのわずか前、夫は南王が末の子に施したことの詳細を、ようやく知ったのだ。力づくで無理やりに成長を速めたのだと。

知ればきっと嫌がると思ったから内密裏に行ったものを、案の定だった。

かてて加えて、南王がこれまでに生した、十とひとりの子にしてきたことと、末の子にも待ち受ける同じ結末だ。

つまり、王位に挑んできた子らをすべて打ち倒し、のみならずそのいのちを喰らって自らの力と為してきたという、外道のわざ――

ただし南王にも言い分があり、子喰らいの理由のすべてが知られているわけでもない。

だからと、一応は教えてやったのだが、やはり夫は嫌がった。

――それでも自分の子が、母親に喰らわれるのを見るのぁ、厭だ。厭なもんは厭なんだよ。だいたいなあ、陛下。がくぽは俺の子だぞ。そんな腹ンなかなんて、狭ッ苦しいとこでじっとしとくようなこと、好くもんか。

その言いには、南王も咄嗟に反論できなかった。

夫は六十を目前にしても与えた屋敷に居つくことができず、イクサ場をふらふらと渡り暮らすような手合いだったからだ。

ただし夫は、自分が生きている間だけだと言った。自分が死んだあとは、好きにして構わないと。

自分が生きている間だけは、喰らわれる子の姿を、子を喰らう姿を、自分に見せないでくれと。

そう言われなければ、たとえ夫のたっての願いとはいえ、南王が難色を示すと理解していたのだろう。

そういう機微を読んで柔軟に応じられることが、最弱種たる夫が、イクサ暮らしのくせにここまで生き抜いた理由のひとつだった。なにより初めの出会いにおいて、南王を下すことのできた――

そう、くり返すが、夫は最弱種族かつ、短命たる人間だ。しかも齢は六十を数えた。

加えて言うなら、南王とこれだけ長く連れ添った伴侶も、少ない。

長く付き合ってくれた伴侶が、老いらくにする、最期の頼みだ。

南王は伴侶に対して貞淑だし、尽くす性質だった。

わかったと、夫が生きている間は末の子を喰らうまねはしないでおくと、誓約して――

息子を喰らわずにいてくれるなら好きにしていいと言ったから、所領をやっても結局、半ば家なしの暮らしを続けていた夫を自らのそば、離宮に篭めた。

どうせ数年のことだ。ここまで来たなら夫を自分の手元に置いてもいいだろうと、思いきって自由を奪った。

それでもきっと、すぐ音を上げて出て行くだろうと思ったが、夫は約束を守り、南王のそばにいてくれた。

一年を経て、夫を信頼することもできたので、屋敷に残していた末の子にも、夫がもはやそちらに戻らない旨を告げた。

見た形こそ南王そっくりに育っているが、気質は夫を継いだ末の子は、やはり束縛を嫌い、自由な屋敷のほうに残ることを選んだ。

それはそれでいい。南王はむしろこころおきなく、夫を独占した。

これほど長くそばにいてくれて、付き合ってくれた伴侶は、南王の長いながいながい生涯を見ても、初めてのことだった。

そう、これほど長く、ながく、ながく――

「そういえば今日で、汝れと出会ってよりちょうど、百年か」

どこか諦念を含んで、南王は寝台の中央へと身を乗りだす。

そうでもしなければ、見えない。まるで枯れ木のように痩せ細り、骨と皮ばかりにしなびた、小さなちいさな体は。

もはや出会ったころの面影もなく、肉も落ち、毛もなくなった。皺は深く、顔など、目と口とが皺に埋もれて判然としない。ひと目見ただけでは、もはや死んでいるのではないかと――

疑って、その首が、あるいは胸が、呼吸でほんのわずかに動くのを見て、ようやく生きていることを知る。

南王のもとに来て、二十年ほどはそれでも、自ら動き回って剣を振り回しもしたのだ。

九十の齢を聞いたころから足腰が弱り、急激に衰え始めた。夏季の酷暑が堪え、寝こむことも多かった。

百を数えたあたりから、季節を問わず、起きている時間より寝ている時間のほうが増えた。

そしてさらに二十年近くを経た今となっては、ほとんど寝ている。起きていることは、滅多にない。眠りのうちに、たまに生きていると、そういう――

今だとて、そうだ。末の子との戦いに敗れて、腹に据えかねたものを抱えた南王が怒鳴りこんだというのに、夫は眠りこんだまま、ぴくりともしなかった。

人智を超えたという意味で『魔』の冠を与えられたほどの南王がだ、戦いの余韻を引きずって荒々しく怒鳴りこんだというのに、ぴくりともしなかったのだ。

いっそ死んだかと思って、覗きこんで――その首が、あるいは胸が、呼吸でほんのわずかに動くのを見て、生きているのだと安堵する。

危惧しては安堵することをもう、二十から三十年ほど、くり返し続けている。

夫が息子のため、自ら質となって南王に囚われた年数は、彼が自由に生きた歳月とほぼ等価となった。

最弱の、短命の、種族だ。末の子ならば南王の血も引けば寿命は延びようが、夫は混じりけなしの、純粋なる人間族だ。

それが、ここまで生きた。あのときには、きっとあともう数年のことと思ったものを、どうせ三十まで生きないとも言い続けて――

夫が生きている限りは子を喰らわないと誓約したものの、だからと今回、南王はわざと戦いに敗れたわけではなかった。本気で戦ったが、あとわずかで及ばなかったのだ。

それだけの力を、末の子は得た。成り遂げたのだ。

ただし、夫との誓約がまるで影響しないわけでもない。

わざと手を抜くことはしないが、わざとではなく南王の力を削ぐ。枷を嵌められたまま戦うに、等しい――

「汝れが延命を願いし幼弱の末の息子はな、育ったぞ、トよ。汝れが懸けた時を無為とせず、我れが首を掻き飛ばすほどに――なればもはや、ただ喰いきられるのみの、憐れないのちではなかろう。むしろ我れこそが、あたら息子に掠殺され続ける、哀れな母親よ」

ぼやいて、南王はふと、花色の瞳を見張った。

寝台の上――ここ最近はもはや、起きている時間のほうがほとんどなくなった夫が、目を開き、にこにこと笑って、南王を見ていた。

皺に埋もれ、皺と同化したくちびるが、開く。

「や、くそく、した、な………儂が、生き…る、かぎ、り………」

「………」

掠れた声は不明瞭で、篭もる言葉は、ひどく聞き取りにくい。南王はぱちりと、瞳を瞬かせ――

眠りのうち、たまに生きるだけとなっている夫が、にこにこ笑う。にこにこ笑って、南王を見る。見ていた。見てくれている。

「あんた、別嬪さんじゃあ、な……うちの、息子、に、よう、似とる………」

南王が口を開く前に、夫はひゃひゃひゃと、顔だけでなく咽喉も鳴らし、笑った。

「息子は、な……母親に…儂の、妻…に、似たんだ、わあ……………儂の奥さんは、なあ………そらもう、天人さんか、いうほど、別嬪で、なあ………儂の、なにより、誇り、なん………」

そこで言葉は切れ、瞳もくちびるも再び皺に埋もれた。もはや動くこともないから、どれが瞳でくちびるで皺であるのかも、判然としない。

死んだのかと、――見れば首が、あるいは胸元が、呼吸でうっすらと動いている。

生きている。

生きてくれている、まだ、まだ、まだ。

南王は体を反すと、天井を見上げた。肩が落ち、つられるように体が寝台に横たわる。

豪奢な寝台に埋もれ、艶やかなくちびるが、静かに開いた。

「汝れが我れを尊称でなく、妻と呼すのは、初のことよ」

出会ったのは、夫が十七の年だ。それから今日で、ちょうど百年経った。

夫が六十になってから今日までは、離宮とはいえ、ともに暮らしてもきた。

もはや新しいことなど、起こりもしない。

驚くべき、初めての経験など、残っていない。

――そう思うのに、裏切りに目を見張るのは、いったい何度目のことか。

南王は目を閉じた。

今日は首を掻き飛ばされた。いかに南王が人智を超えるとはいえ、さすがに疲れる。拾って付けた首とて、安定するには相応の時間が要りようであるし――

「……汝れがとっとと我れを見忘れたに比ぶと、我れの健気さたるや、褒章ものである。であろうが、トよ」

ぽつりとつぶやくと、南王は夫と同じ寝台で、夫とともに眠りについた。