そうなると不可解なのは、やはりカイトの反応だ。あまりに後を引かない、情の薄いとも言える。

がりくった道

1-4

「怒らないのか」

「んー……ん」

周囲から散々に責められ、疲れ切って帰宅したがくぽの問いに、カイトは微妙に困惑した様子で眉をひそめた。

小首を傾げて考える間があり、――

その間にがくぽは、カイトが座るソファに寝転び、膝を枕に懐いていた。

あまりに当然とした、自然で意識も必要のない振る舞いだった。

疲労以上に行為があまりに『自然』であったため、がくぽは自分がなにをやらかしているのか、気がつかなかった。

カイトはおそらく気がついていたが、振る舞いの奇妙さを指摘することはなかった。

そもそも関係性以前の問題で、『怒らないのか』と叱責如何を問いながらやる行為ではないのだが、カイトはそこも流した。

大人しく受け入れて、ただがくぽの問いだけに思考を当てていた。

従順な指ががくぽの頭に触れ、長い髪を梳く。飼い犬が主人に撫でられて慰められるように、がくぽは疲弊し、波立った神経が緩やかにほどかれていくのを感じた。

巧みの手だ。がくぽのリズムをよくわかっている。否、相手はカイトだ。機微に疎いと言われる旧型。

わかっていないかもしれないが、だとしたら余程に相性がいい――

がくぽは泡沫のような思考を過るに任せて深く考えず、ただ心地よさに目を細めた。疲弊限度を超えた神経系が、強制的に休眠モードに移行し始める。

「怒っても。って、いうか。だって、がくぽ。わるくないし」

「それは、皆も理解していることだが」

「みんなって知らないよ。おれはおれの話、してるんだし」

ある意味、取りつく島がない言いようだ。

下手をすれば唯我独尊の自己中心的な、反発を呼ぶ言葉でもある。

しかしカイトの口調で、独特の声音でのんびりつぶやかれると、聞かされるがくぽには、なにか諦念めいたもののほうが湧き上がって来た。

少なくともそれは、不愉快さに由来しない諦念だ。肯定的なと、言える。

「んーと。だから、ね?」

続きの説明を待つがくぽに、カイトは困ったように言葉を転がす。髪を梳く指は変わらずやさしい。やわらかで、気を抜けば寝てしまいそうだ。

会話の最中だ。気を抜けないが、肩の力は抜けていく。肩の力が抜ければ、気も抜ける。

「たとえば。だけど……たとえば、ね。がくぽが、ねなんか、おれと。ケンカして、それで怒って、もうおれのこと、覚えてたくない、忘れてやるって、忘れた。と、するでしょだったら、それなら……おれも、怒る」

がくぽが堪えきれずに寝こける寸前あたりで、ようやくカイトは言葉を吐き出した。なにかへの戸惑いは続き、どもって閊え、ひどく聞き取りにくくはあったが。

重い瞼をなんとか開いて見上げたがくぽに、カイトは軽く肩を竦めてみせた。

「そうだったら、さああそこまでするんだじゃあおれだってもう知らない。って」

「……ああ」

仮定ではあるが、そうとなれば当然の反応で権利だとがくぽが同意してやると、カイトは少しだけ安堵したらしい。困惑の表情がわずかに緩み、先よりもなめらかにくちびるは開いた。

「でも、ちがう。でしょがくぽは、忘れたいから忘れた。んじゃなくって、事故――でしょ。がくぽが、そうしようと思った。んじゃなくって、そうしようと思わなかった。のに、されちゃった」

「……………ああ」

がくぽが発したのは先と同じ音ではあったが、多少のためらいが含まれ、意味が変わっていた。

全面的な肯定ではなく、単なる相槌。もしくは、詠嘆――

なぜといってがくぽが失った一部の記憶、『失われた一定期間』には、『失った瞬間』も含まれているからだ。

正確にはなにがあったのか、説明はされても結局伝聞でしかなく、本当にそうであったという確証が、がくぽの中にない。がくぽの中に生じない。定着しない。

だから、信頼できるだれかがどう肯定しても説明しても、周囲すべての『裏』が取れたとしても、肝心のがくぽにとって『事実』は、仮定の内のひとつという域を出ない。出られない。

ためらう気配を感じたのか感じなかったのか、どう判断したのかは、わからない。

ただカイトは、束の間くちびるを空転させ、――笑った。

笑って、自分の膝に懐き、大人しく頭を撫でられくつろぐがくぽを、見た。

「だったら、ね。忘れたくなかったのは、だれより、『がくぽ』だもん。忘れて、だれより、いちばん怒ってるのは、『がくぽ』だから――だから、ね。だったら、おれまで怒る必要、ない。それだけ」

自信に溢れた言葉だ。いや、自信ではない。確信に満ちて、揺るぎもない言葉だった。

そしてがくぽにとってもまた、それは『事実』だった。

あくまでも仮定だが、カイトと自分が恋人同士であったとして、――退屈しのぎの遊びや、その場限りの付き合いではなく、『恋人』と呼ぶまでの関係であったとして、だとしたなら自分はおそらく、カイトのことを溺愛しただろう。

ただしそれは、『カイトだから』というより、がくぽの傾向だ。どうにも、一歩間違うと危ないレベルで溺愛の傾向があると、自覚している。

自覚しているから、普段は十分注意して、深みに嵌まらないようにしている。否、していた。

それでも嵌まったなら、恋人とせずにはおれなかったというなら、もう抑えきれるものでもない。

きっと、カイトのことをとても大切にして、大事に扱っただろう。周囲の目も気にせず、耽溺したはずだ。

そしてそんな相手を、だれかの過失とはいえ、自分が忘れたとしたなら――

もっとも自分を呪い、怒り狂って痛めつけるのは自分、がくぽ自身だ。それは確信を持って言える。確かなことだと、『事実』であると。

その自分の怒りに比べれば、きょうだい機たちの怒りなど生温い。やはりきょうだいだから手ごころを加えてくれたのかと、見当違いな感想を抱く程度には。

――そうとはいえやはり、最終的には想像の域、仮定でしかない感情で、感想だ。

仮定のうえで思いを馳せればなるほどと頷くが、だからといって失われたものは戻らない。戻らない感情は、納得はしても実際の怒りを連れはしない。

がくぽにとってカイトは、もう恋人ではない。否、違う。恋人『だったことはない』。

――今、初めて会ったに等しく、いくら責められても、どう足掻いても、直前まで抱いていた感情は戻らない。

直前まで大事に抱きしめていた、握りしめていたであろう感情は、失われた。

失われて、片鱗もない。

「うん。だからさ。べつに、いいよって」

カイトはあくまでも落ち着いて穏やかに、了承した。受け入れた。恋人関係の解消を。

仕方のない理由とはいえ、カイトの態度に未練はなく、しがみつこうとする素振りもなかった。まるで『がくぽ』の一方的な思いに負けて、いみじくもグミが言ったように、情けをかけていただけであるように。

もはや恋人とは思えず、扱えない以上、結論は譲れず揺らがない。

だが、わだかまる。

腑に落ちない。

なぜか別れを求めるがくぽの方が渋るという状況に、カイトはやはり、不思議そうだった。

どこか困ったように首を傾げ、言葉を探す間を挟み、結局、笑った。

「だからさ。だいじょぶ。なんだよね。『だいじょぶ』だから、いんだよ、べつに。それだけ。なんだけど……」

これが『カイト』でなければ、強がりを言っているか、もしくは『被害者』であるがくぽを慮り、堪えてくれているのだと思ったところだろう。

けれどカイトからは、そういった気配をいっさい感じない。

感じるのは、ただ確信だ。迷いもない、ひたむきななにか。

確かにカイトは、『だいじょぶ』なのだ。がくぽには理解が及ばないが、まだわからないが、カイトは『だいじょぶ』で――

こうして、がくぽとカイトは円満に別れた。

『恋人』関係は解消され、なかったことになった。

少なくとも、騒ぎ案じる周囲との関係よりよほど円満に、穏便に、関係は終わったのだ。

円満かつ穏便な終焉であったなによりの証で、二人は単なる友人、もしくは単なる同居人として、なんら弊害も感じないまま、新たな生活を始めた。

仲が良く、気の置けない同士で、しかし少なくとも『恋人』ではない相手として――