転機が訪れたのは、カイトが十四――男として育っていたなら、元服を迎えようという齢のときだった。

おにそしぁ・あめしすて-07-

この年、がくぽの父親が急な病を得て亡くなった。二か月の闘病の末で、最後の一月は助からないことがわかった、余命を一日一日数えながらの日々だった。

棟梁は根っから武士で、イクサで死なずに病に負けて死ぬことを悔しがったが、命を惜しむことだけに、残された時間を使うような男でもなかった。

次の棟梁として起つがくぽに、病床からさまざまなことを教えた。

「父がな。俺が傍におって、まつりごとの秘儀ごとを吹きこんでいるときが、いちばん生き生きなさっていると………痛みにも苦しみにも負けず、病を打ち負かせるような気さえしてくると………臣が申してな」

それまでは連日のごとく通っていたカイトの元にほとんど顔を出せない言い訳を、がくぽは気まずく吐き出した。

「どうぞ、ついていて差し上げてください。カイトもこちらで、微力ながらご快復をお祈りしておりますから」

「………祈らんでいい」

カイトの父親の首級を実際に挙げたのはがくぽだが、イクサを決めたのは棟梁、がくぽの父だ。

負けイクサに追い込むまでの策を練ったのも父で、婉曲的に言えば、カイトにとっては最大の親の仇であり、自分の境遇を貶めた張本人でもあった。

その相手が、病を得て死の床にある――

歓ぶような性格ではないとわかっていたが、快復を祈られるのも微妙だ。

ぼそっと吐き出したがくぽに、カイトは幼い頃と変わることのない、澄んだ瞳を向けた。

「がくぽさまの、お父さまです。――カイトの大事ながくぽさまの」

「………」

がくぽはなんとも答えようがなく、そのままカイトのいる離れを後にした。

齢も十二、三を超えた頃から、カイトはこういった言い回しをするようになった。

徹底的に他人を排している環境は、変わらない。

請われるままに文字を教え、書を読むことを赦したが、そういった色事に関する話を、与えた覚えはない。

となればカイトにとって、唯一の側仕えであるめのと――メイコの仕業だろうが、彼女の仕事は実に完璧だった。

がくぽはいつもいつも気まぐれに、ふいと思い立って立ち寄るのに、カイトの部屋でそういった、怪しげなものを見つけられた試しがない。

カイトに乳を含ませためのとが、病を得て職を離れた代わりにやって来たという、件のめのとの娘であるメイコは、実に賢く、実に頑固で、そして忠義心の塊とでもいうべき人間だった。

がくぽはたまに、羨ましくなる。

近習にするなら、ああいった者が欲しい。

徹底して主にしか心を開かず、主のためならば、どんな泥でも被る。

――そう思いながら、安堵もする。

カイトの唯一の側仕えが、彼女で良かったと。

未だにがくぽに敵視を向けてくるが、それぐらいでいい。おかげで安心して、信頼すらして、カイトを預けておける。

長く不在にするにも、そこのところで気を揉む必要がない。

メイコさえいれば、上手くカイトの周りを整えるだろう。

その信頼は十年近くも付き合えば盤石で、だからがくぽはカイトに触れたいと渇望する、己の心だけと戦えば良かった。

結局棟梁は亡くなり、葬儀が明けるとがくぽはすぐさま、新棟梁として起った。

とはいえ、父が亡くなる前から代行として仕事をしていた。そうそう戸惑うこともなく、しかしなにかあれば父に相談できていたものが、今度は自分ひとりで決裁しないといけない。

これは誰と誰が信頼出来る、これは誰と誰が、ということまでがくぽは聞いていたが、父にとって信頼出来る相手と、若輩のがくぽにとって信頼出来る相手とは、また違う。

父の看病がなくなってもがくぽの忙しい日々に変わりはなく、ほとんどカイトの元に通えない日々だった。

「…………つまんない………」

濡れ縁に足を垂らして座り、カイトはぷく、と頬を膨らませてつぶやく。

最近はがくぽの前ではずいぶん、大人びた振る舞いをして幼さを隠しているカイトだが、この閉鎖された環境が悪いのか、どうにも稚気が拭いきれなかった。

そもそもがくぽが、カイトに大人を求めない。

ひたすらに幼い頃から変わらない扱いで、甘やかしぶりだ。

座敷で縫いものをしていたメイコはため息をつき、きれいな着物もかんざしも台無しにする、己の主の幼いしぐさを見た。

せっかくこちらが気を遣って、懸命に色気を演出してやっているというのに。

今ここに愛しのがくぽさまがいらっしゃったら、『そなたはいつまで経っても幼い』と、歓んで腐すだろう。

「……………変態め」

「んメイコ?」

「いいえ」

小さく吐き出した罵倒を漏れ聞いて、カイトがくるりと顔を向ける。

メイコは咳払いして、殊更に顔をしかめると、『姫』としての行儀のなっていないカイトを厳しく見据えた。

「それよりカイトさま。もう少し、大人になさらないと。メイコがせっかく色づけても、カイトさまの振る舞いひとつで、すべて台無しなのですよ」

「でも、がくぽさまもいらっしゃらないのに……」

不満そうに頬を膨らませるカイトに、メイコは首を振る。

「普段の振る舞いひとつひとつが、実際の場に立ったときに、すべて垣間見えるのです。付け焼刃な色香では、すぐに見透かされます。落とすどころではありません」

「ぅー………」

お説教に、カイトは唸るだけだ。

聡い子供であったカイトは、大きくなっても頭の回転は鈍くならなかった。

しかし、幾重にも環境が特殊過ぎた。

あまりに言動が幼いままで、いつまで経っても大人に見えないのだ。

母親の姫に身形が似たことも、要因のひとつだろう。骨組みも肉付きも薄く華奢で、背丈も伸び悩んだ。

がくぽは殊の外、カイトの食べるものには気を遣っているから、栄養不足ということもない――ひたすらに、母親に似たことが要因としか。

子供のふっくらとした頬は削げて大人の容貌にはなったが、全体に造りが幼い。

頬だけ削げても、無意味だ。

「………会いたいな、がくぽさま………」

「………」

結局、睨み合いの末に負けたカイトは、濡れ縁にべったりと懐いてそうつぶやくのが、精いっぱいだった。

だから、そういう振る舞いが稚気染みていて、だめだというのに。

思いながらメイコは、寝そべったまま板に『の』の字を書くカイトを眺める。

――好きだからです。

どうして敵の要望を容れましたか、と訊いたメイコに、幼かったカイトはごくあっさりと、答えた。

――ひと目見たそのときに、とりことなりました。この方の苦痛を除いて差し上げられるなら、身の苦痛もなにほどのことはないと。

幼いとはいえ、道理のわからない頭ではない。

だというのに、カイトの言葉はあまりにあっさりとして、考えなしに思えた。

好きだから、などと。

――あの男はおそらく、お父上さまのお首級を挙げました。仇です。それでも、お好きだとおっしゃいますか。

意地の悪い問いだったと思う。

けれど苛立って訊いたメイコを、カイトはまっすぐに見た。

――好きです。あの方が、すべてです。

言葉を失ったメイコに、カイトはほろりと涙をこぼした。

――父さまを殺した仇だと、わかっています。わかっていても、好きだと心が叫んで、張り裂けそうになるのです。いらっしゃらないときには、あの方を仇だと思い、憎むことも出来ます。けれど実際にあの方の瞳を見つめると、この心は好きだと叫ぶ思いでいっぱいになって、恨みも憎しみも忘れてしまうのです。ただあの方に、愛されたい、必要とされたい、お傍にありたいと、そればかりで心は溢れ、張り裂けそうになるのです。

元から、母姫に似ているところがあるとは思っていた。

年に似合わぬ賢しい言動といい、でありながら無邪気さを失わない振る舞いといい。

初めはそんな姫を煩わしく感じたらしい棟梁だが、カイトが生まれる頃には妻として深く愛し、その魅力のとりことなっていたという。

そして、煩わしいと告げた夫に説教した妻のほうは、輿入れした直後からこの夫のとりこだったと言って、憚らなかった。

――なんて情けない、性根のない男だろうと思うたが、どうしてもこの心は好きだと叫んで、他の男を寄せ付けぬ。傍におらねば愚痴ばかり出るが、だがこの男以上の男なぞいるものかと、すぐさま己に裏切られる。胸に抱かれれば蕩けてお終いじゃ。仕様がない。この男こそ、妾の定めじゃ。生涯唯一の、定めなのじゃ。

そんな情の強い母親に似た、カイトだ。

思い決めたなら、一途にそのひとだけを想うだろう。それこそ、生涯をかけて。

そうとは思っても、最初は抵抗があったメイコだ。しかしカイトの健気な振る舞いを見続けて、考えを改めた。

メイコは、カイトの元々のめのとが病を得て職を辞した代わりに来た、本来は『ねえや』の立場だ。

しかし、仕様のない事情とはいえ途中で職を辞した母親の責を取るつもりで、カイトが求めたなら乳をも含ませる覚悟で、職に就いた。

そのために、自分のことは『ねえや』ではなく、『めのと』と呼ばせたのだ。

途中で職を辞した母だが、その一点を除けば、メイコにとっては手本とすべきところの多い、尊敬する母親だった。

母ならどうするだろう、母ならどう考えるだろう、母なら………。

常にそう考えて、行動の規範としてきた。

今回も結局は、そう考えてみた。

怒りと屈辱に思考が歪んで、母の考えはなかなか追えなかったが――

おそらく、カイトの恋路を応援するだろうと、結論した。

なにしろ、カイトの素地をつくったのが、母だ。母姫の血を継いだとはいえ、カイトがこうまでのびのび育っていたいちばんの要因は、めのとであった母がすべてを受け入れ、さらに素質を伸ばしたからに他ならない。

だとすれば、カイトが親の仇だとわかっていても好きだと言い張る相手との恋路も、きっと応援しただろう。

そう思えば、少しでもカイトが姫らしくなるよう、振る舞いや話し方、考え方をこっそりと仕込んだ。

おかげで最近、少しばかり艶めかしくなったカイトの会話に、がくぽがどきまぎとして、対応に悩んでいるのがはっきりとわかる。

稚児趣味はないようで、行く行くは妻とする、と公言したうえで姫として扱っているカイトにも、がくぽは一向に手を出さない。

しかし、カイトももはや齢十四――男なら元服だが、女ならすでに、誰かの妻となっていておかしくない。

さっさと想いを伝えあって、しあわせに暮らして欲しいと思う。

その形が多少歪つであっても、カイトのしあわせこそが、メイコにとってはなにより望むことだ。

妻となりたい、と望むなら、そのための協力を惜しまない。

「………あ、ねこ」

「あ、カイトさまっ」

寝そべっていたカイトだが、庭に造られた池端にねこの姿を認め、身軽に体を跳ね起こすと、躊躇いもない足取りで駆けて行ってしまった。

「………だぁあから、そういう振る舞いが、子供なんだと………」

いつまでも子供のままの振る舞いでは、がくぽの目にもいつまで経っても、もう食べられる時期になったのだと映らないだろう。

結果、いつまで経っても手を出して貰えない。

いつまでもいつまでもの、無限回廊。

「もう、………って、草履も履かないでっっ!!」

濡れ縁に出たメイコは、頭を抱えた。お淑やかな姫として懸命に育てたのに、裸足で庭に飛び出すようでは失敗もいいところだ。

そんなお転婆では、がくぽが気を揉むだろう。お転婆のあまりに、正体の明らかとなる失敗を仕出かさないかと。

メイコは頭を掻くと、自分の草履に足を突っこみ、片手にカイトの草履を持って、慌てて池端へと向かった。

池端に立ち尽くしたカイトのところへ行き、殊更にため息をついてみせる。

「カイトさま、おみ足をご確認………っっ」

立ち尽くすカイトが見ている先を何気なく見て、メイコは言葉を失った。

庭木の陰に隠れて、庭師の男と下働きの女が抱き合っている。夢中になって口を吸い合っている二人は、池端にカイトが立っていることにも気がつかない。

この場所は確かに、密会にはうってつけの場所だった。がくぽの厳命によって、立ち入りが厳しく制限されているからだ。

張り番ですら制限されているから、庭に精通した庭師ならば、女を連れ込んでしけこむのも容易いだろう。

とはいえ。

「カイトさまっ」

「ぁ、………あ、うん………っ」

強引に腕を取ると、メイコはカイトを連れて座敷へと戻った。

呆然としているカイトは、引かれるままにおとなしくついて来る。

座敷に戻って足を洗って、障子まで閉めてようやく、カイトはメイコを見た。

「今の………」

「あとで、若――お屋形さまに、申し上げておきます」

「だめっ!」

メイコの言葉に、カイトは鋭く叫んだ。

多少のことには目を瞑る鷹揚さを持つがくぽだが、ことカイトに関しては、妥協を知らなかった。

立ち入りを制限されているのをいいことに密会に使った、などということを言えば、あの二人は首を刎ね飛ばされるだろう。

当然予測できた答えに、メイコは不満げにため息をつくことで、了承を告げた。

カイトは赤い顔でメイコの答えを確認してから、俯いて畳を見つめる。

「今の………」

「あれは口吸いです」

「く?」

訊きたいこともわかっていて、メイコはそっぽを向いたまま答えた。

「口吸い、です。………源氏物語などで、お読みになったでしょう。男女の閨ごとのひとつです。あのようなところでするものではありませんが」

「く……口吸いって………あ、あんな………っ」

さらに顔を赤くし、カイトは足をもぞつかせた。

わかっていながらも肩を竦め、メイコは素知らぬふうで続けた。

「閨に入るなら、当然、わ――お屋形さまとも、なさることになりますよ」

「………っ」

ぐらりと傾いだカイトの体が、畳に俯せになる。図らずも土下座状態だ。

眉をひそめるメイコに構わず、カイトはうなじまで赤く染めて、ひたすらに唸っていた。