一月ほども音沙汰がなかったというのに、そういう日に限って、がくぽはようやく顔を出した。

おにそしぁ・あめしすて-08-

「カイト」

「がくぽさまっ!!」

座敷の障子が開けられた途端、カイトの体が跳ね上がる。駆け寄って、堪えることも出来ずにがくぽの胸に飛びこんだ。

「がくぽさま……っ」

「………カイト………」

全力で擦りつくカイトを、がくぽもまた、きつく抱きしめる。

顔をしかめていたのは、共に座敷にいたメイコだ。

あまりに子供の振る舞いだから、駆け寄ることや抱きつくことは止めろとあれほど言い聞かせたのに、さっぱりだ。

大人の『女』ならば、座敷に三つ指を突いて『いらっしゃいませ、旦那様』とやれと教えたのに。

そもそも頭の悪くないカイトだというのに、そういった振る舞いだけは、さっぱり覚えない。がくぽに甘えることだけに、全力を傾注してしまう。

「お逢いしとうございました………っ」

「………カイト……」

これだけは合格点か、とメイコは冷静に考える。

甘く切ない声で待っていたと告げられて、悪い気のする男はいない。ましてやがくぽは、カイトを溺愛している――その方向性が未だ、子供に対するものだというだけで。

「お忙しいのはわかっておりましたけど、寂しかったです……」

「ああ……」

胸の中で擦りつきながら吐き出される甘い詰りに、抱きしめるがくぽの頬が緩んでいる。

情けない顔だ、とメイコはまたしても心の中で腐した。

そうとはいっても、幼い頃から棟梁として感情を表さないよう叩きこまれ、表情が固まってほとんど動かないのが、がくぽだ。

だらしなく崩れているというわけではなく、いつもよりほんのわずかに綻んだという程度。

それでも、普段から考えればやに崩れていると言っていい状態だ。

「今日は、お泊りくださいますか………?」

顔を上げたカイトに、期待に輝く瞳で熱っぽく見つめられ、がくぽはくちびるを引き結んだ。

メイコにはわかっている。自分で自分がやに崩れている自覚があって、懸命に堪えているのだ。

鈍いこと甚だしいと思うのだが、がくぽは未だに、カイトの親を殺した自分に負い目や引け目を持っていて、あまりにあからさまなカイトの媚態すら、気がつかずに流してしまう。

そうまで好かれる理由などありようはずがないと、これは偽りだと、端から否定してカイトと対しているのだ。

どんなきっかけがあればこの男がカイトの恋心に気がつくのか、メイコとしても苦心しているところだ。

「………ああ、今宵はこちらで過ごす」

「……っ」

ぱ、とカイトの顔が輝く。再びがくぽの胸に顔を埋め、うれしそうに擦りついた。

子供のしぐさだ。しかしそれでも、これだけ懐かれればそれなりに劣情を募らせてもいいものを。

メイコは内心歯噛みしつつ、カイトとがくぽを見ていた。

がくぽがちらりと視線を投げる。

「寝て行く」

「承知」

素っ気なく頷き、メイコは湯殿と酒肴を揃えるために、立ち上がって座敷を出た。

***

メイコが整えた湯殿に、がくぽとカイトは共に入った。いつものことだ。

対外的には姫として扱っても、カイトは男だ。

男だから、幼い間から共に風呂に入っても問題はないだろうと判断して、がくぽは離れで過ごす折には常に、カイトとともに湯を浴びた。

だからカイトは、がくぽの体にあるほくろの数も、残る傷の数も場所も、すべて知っている。

がくぽにしたところでそれは同じだ。カイトの尻からいつ、子供の証の青痣が消えたかまで、きっちり知っている。

「ね、がくぽさま、がくぽさま……最近、池の端にねこが来るんです。いつもいつも池の端で、でも近づくと、さっと逃げてしまって」

「ねこ……こら、カイト。大人にしろ」

「ぁはっ。だってくすぐったいですものっ。でねっ、がくぽさま、白と赤毛のしましまねこで、まだちっちゃいんです。きっと最近、親ねこのところから自立したんですよ」

「ねこ………ねこの出入りを赦すような番なのか気が緩んではおらんか………ほら、カイト。大人にしろと」

「くすぐったいですでもがくぽさま、こぉんなにちっちゃいねこです。張り番の隙をつくのだって、簡単ですから……んふっ、ぁ、くすぐったいっ」

「まったく……」

がくぽの膝の間に座ったカイトは、全身を洗われている間もずっと、興奮してしゃべり続けた。上機嫌に笑いながら、興奮していると示す、いつもよりわずかに高い声で、がくぽが不在だった間の出来事を並べ立てる。

がくぽはちっともじっとしない体を時に押さえ、時に利用して反して隈なく洗いながら、その話に耳を傾けていた。

「ぁ、ね、がくぽさま。カイトもがくぽさま、洗います」

「いい。ほら、大人にして、湯に浸かれ」

「ん、でもっ」

抱きついてくるのをそのまま腕に乗せて立ち上がると、がくぽは運んだ体を湯船に落とした。それでもしがみついてくるが、背を叩いて宥め、もぎ離す。

「で、そのねこはねずみを獲りそうか」

「ん、どうでしょう………いつもいつも、見かけるのが池端なんです。池端になんて、ねずみはいませんよね偶然なのか……」

「そこに、もぐらが巣を作ってはおらんか?」

「もぐらですか………そこまでは。今度、見てみます。でも、もぐらとねずみは違いますよねもし、もぐらを獲るんだったら、『ねこ』じゃなくて、『もこ』になっちゃう………」

ねずみを獲るから、ねこだ。

以前にがくぽがしてやった話を覚えているカイトは、困ったようにつぶやいた。

湯船から半ば体を乗り出し、少しでもがくぽに近づこうとしながら、まじめに考察し出す。

ここら辺の考え方が、閉鎖環境で育てた結果かと思う。

常識や不文律に囚われることなく、出会ったころの無邪気な幼子そのものの考え方を、保持している。

愛しくあるし、不憫でもある。

一見愛らしいようで、それは紛れもなく、歪みだ。

その瞳は澱みも穢れもなく、純粋にがくぽを映すのに、その純粋さがすでに、歪みゆえだ。

「………もこではいかんか」

湯船から湯を掬って体を流しながら訊いたがくぽに、考えこんでいたカイトはぱっと顔を上げた。

「悪くなんてないですけど………あ、がくぽさま、新しい傷っ。どうしてですか、この数か月、イクサなど起こっていないはずでしょう?!」

「こら、落ちる!」

体に増えた傷を目ざとく見つけたカイトが、勢いよく立ち上がって身を乗り出す。がくぽは慌ててカイトの体を抱え、湯船から出した。

「ああ、見たことか………腰から下しか温まっておらん。上は冷え切っているではないか」

「なんでですか、がくぽさま?!どうして、新しい傷なんて!」

「………聞け、ひとの話を」

膝に乗せた体は、湯に浸かっていた部分だけが熱くなり、浸かっていなかった胸や上腹はひんやりと冷え切っている。

諭すがくぽだったが、カイトが聞くことはなかった。がくぽの体に増えた一筋の傷にばかり、意識を向けている。

指が盛り上がった傷を撫でて、がくぽは瞳を細めた。

痛くはないが、こそばゆい。

「触るな」

「痛いですか?」

「……痛くはない。大したこともない。……しばらく座敷に詰められて、机上仕事であったろう。あまりに鈍るからと、臣に頼んで剣の相手をしてもろうた。予想以上に鈍っていて、なまくら刀を避け損ねた。それだけだ」

「そんな……」

カイトが瞳を揺らす。

出会った頃は年のために『幼鬼神』と呼ばれていたがくぽだが、そののち『幼』の字が取れて、『鬼神』と称されるようになった。

どちらにしても強さは相変わらずで、いや、剣の冴えはますますだ。

だというのに、遊びで持った剣を避け損ねたなど――

「……俺より、臣のほうが哀れだったぞ。俺なら当然避けると思うて加減もせずに打ちこんだのに、まさか怪我をさせるとは。我がような不忠者は腹を切る首を飛ばせと、まあ、宥めるのが大変でな」

「……」

泣きそうな瞳を向けるカイトに、珍しくもがくぽは笑顔を見せた。膝に乗せた体を、力強く抱きしめて胸に埋める。

「俺もさすがに反省したゆえ、それからは一日のうち、ほんの半刻でも体を動かすようにしている。臣も、致し方なしと目を瞑ってくれるしな。いい機会だった」

「………はい」

あやすような声音に、カイトは俯いてがくぽの胸に擦りつき、素直に頷いた。

――本当のところを言うと、鈍っていたのは剣の腕というより、頭だ。

カイトに触れないままに慌ただしい日々を過ごし、飢えのあまりに幻覚を見る状態だった。

お屋形さまが馴れぬ仕事に朦朧としている、と気を遣った家臣のひとりが、体でもお動かしになれば、と目覚ましのつもりで誘ってくれたのだが、がくぽの頭は朦朧としたままだった。

傷を受けて、その痛みで初めて、がくぽは我に返ったのだ。

そして、気がついた。

これまでは、父親がなにくれとなく気を遣って、がくぽがカイトを構うことを助けてくれていた。

しかしこれからは、がくぽが自身で心がけなければ、カイトと触れ合う時間を持つことが出来ない。さらに言えば、カイトを守れるものは本当にもう、がくぽだけとなったのだ。

父親の陰なる助力は、決して得られない。

がくぽが今まで以上に気を張らなければ、カイトは――

目が醒めるというのは、こういうことをいうのかと、がくぽはある意味でひどく感心した。

だから、腹を切る首を落とせと騒ぐ家臣に、褒美すら取らせてやった。詳しく説明せずに押しつけたから、未だに困惑のただなかにいるが、とにかく功労者に違いない。

手遅れとなる前に、早いうちにそのことに気がつかせてくれた。

得難い傷だ。

「………」

「これ」

抱きくるめられたカイトが、不自由な腕を動かし、がくぽの傷跡をそっと辿る。

くすぐったさと同時に腹に湧き上がる衝動に、がくぽは渋面でカイトを見下ろした。

カイトは不可思議に艶っぽさを含んだ瞳で、がくぽを見つめる。

「………あのね、がくぽさま………」

「ん?」

「………」

なにか言いたそうにして、結局カイトは口を噤んだ。すりり、とがくぽに擦り寄る。

「……今日も、池端で、ねこを見たんです………」

「ああ。………毎日のように、見かけるのだろう?」

「………はい」

頷いて、カイトはがくぽに体をすり寄せる。がくぽはあやすように肩を叩き、カイトを抱えたまま立ち上がった。

「もう一度湯に入れ。今度はきちんと、肩まで浸かれよ。芯まで温まるまで、出さぬからな」

「………がくぽさま」

言い聞かせて湯船に落とすと、今度はきちんと肩まで湯に浸かったカイトは、小首を傾げて上目遣いで見つめてきた。

「………がくぽさまがお認めになるまで入っていたら、カイト、のぼせてしまいます」

愛らしく詰られて、がくぽはくちびるを笑ませた。

「加減くらいしている」

「カイトは、そんなに弱くないのに………がくぽさまは、心配性でいらっしゃるもの………」

ふんわりと熱に蕩け崩れた声で言い、カイトは縁に頭を凭せ掛けて、瞳を閉じた。