ふっと目を開き、カイトは軽く眉をひそめた。

体が重い。

おにそしぁ・あめしすて-18-

「………ぁ」

考えて、すぐに気がついた。筋肉質で太く逞しい腕が、自分の腰に回っている。

体を抱えこまれていて、ぴたりと裸の背中に密着する、素肌の感触。

「………っ」

カイトは、ほわ、と目元を染めた。

身を包む香りといい、体を覆われる感覚といい、幼い頃からずっと慣れ親しんできたものだ――ただしそれは常に、己を幼子と定義したうえで与えられているものだから、こうまであからさまな形ではなかっただけで。

いつ移動したものか、カイトはいつも通りの座敷で布団にくるまり、がくぽに背後から抱かれて寝ていた。

記憶を探れば、大体のことは覚えている――メイコに唆されて期待が募り、けれど実行を躊躇う、揺らぐ心で酒に対する羽目になった。

初めて飲んだ酒は咽喉を焼いて痛みばかりで、上機嫌で飲むがくぽがよくわからなくて、やっぱり自分は子供なのかもしれないと思った。

そう、幼い子供のままだと、がくぽに見えていても、まったく仕方がないのかもしれない――

思ったら、ふっと、なにかが切れた。

ひどく頭も体も軽くて、思考の歯車は空回りして明後日なことをつぶやき、気がつけばここのところ、堪えっぱなしだった『がくぽに甘えたい』という感情のままに走っていた。

がくぽに甘えたい、甘やかされたい――愛されたい。

思うがままに強請って、強請れば強請るだけ、がくぽは機嫌を上向かせてカイトに与えた。

あんなに機嫌のいいがくぽは、久しぶりだ。たくさん我が儘を言って、甘えて、求めたのに――

機嫌を損ねることなく、それどころかもっと求めろとばかりに。

「…………はふ」

カイトは悩ましく、ため息をこぼした。

酒は理性を切らせるとは聞いていたけれど、だとしたらカイトは完全に理性が切れていたし、――がくぽも、切れていたのだろうか。

いつもならきっと、強請ったところで聞いてくれたとは思えない。

結論的には、メイコの言う通り、カイトは望むままに、きちんとがくぽに『初めて』を捧げられた。

これでもう、思い残すことなどない、――はず、なのに。

「………よくばりだ」

ぽつんと、こぼれた。

どうしようともカイトが男だということは変えられず、前提として迎えられたように、年頃になったならがくぽの正室として立つことなど、本気で叶うと思ったことなどなかった。

男の体は欲望の捌け口とはなっても、正室に求められる最たる仕事である、跡継ぎを孕むことは出来ない。

跡継ぎなど生まずとも一応の権勢はあるが、人の心は離れる。がくぽは棟梁としてどうしても子が必要で、そうとなれば子を生すための側室を取らざるを得ない。

側室が跡継ぎを生めば、その地位はどうしても上がる――夫の心も、また。

傍にあった心が離れていく様に、耐えられる気はしない。

だから、元から正室など望んでいなかった。けれど側室として、その心を慰め、たまに訪れる気まぐれの相手である覚悟なら、していた。

自分が本当に姫ならば、と思わないこともなかったが、元より叶いもしない仮定で時間を潰す性質でもない。

そこは割り切って、誰かとがくぽを共有する――もしくは、ほんの欠片だけ、貸してもらう気持ちで。

「…………どうしようもない…」

割り切っていたと思っていた心が、少しも割り切れていなかった。

覚悟をしていたつもりなのに、覚悟が出来ていなかった。

こうして抱かれて、がくぽの感触を肌に刻みこまれて、――腹に注がれるものの熱さを、灼かれる快楽を知った。

すべては、がくぽの――がくぽだから。

「……………カイト?」

「……っ」

ふと、背後から掠れた声が上がる。ぴくりと震えて、カイトは布団の中に顔を埋めた。

ぴたりと密着しているから、カイトの反応など筒抜けだ。

後ろ首にがくぽのこぼす吐息が当たって、カイトは今度は別の意味で震えた。

昨夜の名残りで、朝になったというのに、未だに肌が尖っている。たかが吐息のひとつで、下腹が堪えようもなく疼いた。

「………」

「………」

カイトを抱いたまましばらくじっとしていたがくぽだが、ややして回していた腕を離すと起き上がった。

そうとなると、カイトも横たわったままではいられない。躊躇いながらも体を起こして、座ろうと腰を引いたところで、ぎくりと固まった。

「…っ」

堪えきれず、小さな呻き声がこぼれる。

「カイト」

「………ぁ、だい、じょうぶ、です……っ」

横になっていたときにはそれほど思わなかったが、腰にぴりりとした痛みがある。がくぽを受け入れた場所もそうだし、抱えられて揺さぶられた腰本体もだ。

馴れない動きに、体の全体が悲鳴を上げている。

こくんと唾液を飲みこみ、カイトはそろそろと体を起こした。黙って見つめるがくぽの前に座って、しかし途方に暮れる。

二人とも、素裸だ。

いつもなら、夜の過ごし方がなんであれ、二人して寝間を身に着けている。たとえ脱いでいても、がくぽはカイトに構わず、さっさと着替えて座敷を出てしまう。

こんなふうに裸のまま、布団に座って対することなどない。

「………大丈夫か」

ぽつんと言葉が落ちて、カイトはくちびるを噛んで俯いた。

よそよそしい、声。

昨夜、あれほどやさしくやわらかく、愛しささえ感じるような声音でささやいてくれたのに、朝になるとすべては幻として、霧散してしまう。

また、あの日々――緊張を孕みながら、見ないふりをする。

手を伸ばしても、抱きしめられても、心が遠く、離れて。

「………っ」

カイトは瞳を閉じ、心を飲みこんだ。

『初めて』はすべて、がくぽに捧げると決めていた。

――初めてだけではなくて、二度目も三度目も、カイトの生涯のすべてを。

けれど、カイトがそうやってがくぽに囲われていることで迷惑がかかるなら、この身をもっとも有効な形で売って貰おうと決めた。

ここまで、ずっと大切に大事に育ててもらった。

拾い上げた哀れな幼子を、途中で捨てることなど出来ないやさしい性質だから、重荷になってきたからという理由だけでは、自分から放り出すことなど無理だろう。

わかっているのだから、わかっている自分が身を引くべきだ。

愛していても、重荷にしかなれないこともわかっているのだから、少しでもこの先、愛しいひとが肩を軽く生きていけるように――

覚悟を決めた。

未練を振り捨てた。

捧げたかった『初めて』は、すべてがくぽに捧げられて、満足も得られた。

自分は望むべくもなく、しあわせだったと言える。

言えるから――

言えるのに。

「………大丈夫、です」

顔を上げ、カイトはがくぽへと微笑みかけた。

がくぽは厳しい表情を向けたまま、空気が緩むこともない。カイトはすぐに瞳を伏せて、そのまま布団に指をついた。

「………我が儘を容れてくださって、ありがとうございました」

「……」

言って、頭を下げる。

落ち着いて発された声に、カイトは自分で安堵した。みっともなく震えたり、詰まったりしたら、なおのこと救いがない。

少なくともまだ、こうして平静を装うことは出来る。

だから、大丈夫。

抱かれたことで、もっと愛されたいと、いっそがくぽのことを独り占めしたいと募った心も、きちんと隠せる。

隠して、――

「………そなた」

がくぽが、重い声を落とす。

「覚えているのか」

「……」

曖昧な言葉の差す先がわからず、カイトは下げていた頭を上げて、がくぽを見た。

きょとりと首を傾げると、がくぽは苛立ったように眉をひそめる。

「昨夜だ。……己がなにをして、なにをされ、どうしたか。覚えているのか」

「……」

カイトはさらにきょとりとして、瞳を瞬かせた。

それも、仕様のないことだ。鎖されたカイトの世界に、酒を飲むのはがくぽしかいなかった。

その唯一の相手は、酒に悪酔いしてカイトをいたぶることもなければ、記憶を失うこともない。

確かに、ここ数年の体を開くための縁とはしていたが、基本的にがくぽの酒癖はよく、カイトは『性質の悪い酔っ払い』というものの存在を知らなかった――ほんのごく幼いころ、まだ両親の元にいたときには見たかもしれないが、すでに記憶にない。

だから、がくぽの言いたいことがさっぱりわからなかった。

きょとんとしているだけのカイトから、がくぽは苛立ちを隠せないままに顔を背ける。

「………覚えているのか」

「………はい」

重ねて訊かれて、とりあえずカイトは頷いた。嘘ではない。覚えている。

空回りした思考のままに、がくぽに甘えたい、愛されたいという欲求をぶつけた。

その結果として、がくぽはこれまで決して一線を越えなかったカイトを、己の雄で貫いてくれた。

愛おしさに溢れた声音で呼ばれた名前の甘さを、あたたかさを、うれしさを、すべてすべて、きちんと覚えている――

「………では」

顔を背けたまま言いかけて、がくぽは黙った。

ひどく時間を掛けて顔を戻し、話の行方が見えないカイトをしっかりと見据える。

「訊こう。後悔しておらぬか」

「……」

これ以上はないほどに大きく瞳を見張り、カイトはがくぽを見返した。

咄嗟には言葉にならないまま、首だけをふるふると横に振る。

目が回りそうなほどにふるふると振ってから、厳しい表情で睨み据えてくるがくぽへと身を乗り出した。

「後悔なぞ。いったい、どうして……」

「では、そなたは我に抱かれて、満足か」

「……」

満足だ。

即答できる答えで、しかしカイトの咽喉は詰まって、言葉を発せなかった。

カイトは、満足だ。

初めて出会ったそのときから、がくぽが好きだった。

血刀を下げ、荒い息遣いで、殺気とともに自分を見つめたひと。

幼子を手に掛けることに慄き、悲しみ、痛みに打ちのめされていたひと。

どんなに人格者であろうとも、イクサに出陣し、血まみれになるほどに戦った後なら――血のにおいに、色に、感触に、狂って、狂うほどに興奮して、正気の色を失う。

歴戦の勇士と言われるものでさえ、そうだ。血にまみれている最中に、正気も理性も残っていない。いや、残しておけない。

わずかでも残しておけば、ひとを殺すことを躊躇う。

一瞬の躊躇いが、命に関わる。

だから――

それなのに、油断なく剣を構え、隙の一部もないままに目の前に立つひとの瞳には、理性と知性、正気が宿っていて、こんな幼い子供を手に掛けるのはいやだと叫んでいた。

いやだと叫びながら、刃向うことを赦さない気迫でもって、立っていた。

美しさに、慄然とした。

その姿の、心の直ぐさに、透けて明るむほどにやさしい思いに、矛盾を矛盾と知ったうえで膝をつくことなく、立ち向かい、懸命に歩みを続ける――

その、美しさの。

とりことなった。

出会った、最初――

だから、カイトは満足なのだ。

がくぽにすべてを捧げると誓約して、囲われていた。

少なくとも『初めて』は捧げられたから、あとは忠を――この身を、役に立ててもらおうと。

カイトは、満足だ。

けれど、がくぽは。

『初物』――が好まれるのは、きっと男も女もないだろう。

『商品』としての価値をいうならば、男を知らないほうが高くつくはず。たとえ女性のように破瓜を伴って、確実に潔白を証明できないとしても、できないからこそ、余計に。

がくぽは、カイトを清い体で取っておきたかった、かもしれない。

ある程度馴らして、いざ来る本番に備えたとしても、最後の最後の一線は――

「………満足、です」

震える声で、カイトは吐き出した。

吐き出しながら、再び布団に指を突いて頭を下げる。

「………カイトは、カイトの『初めて』は、カイトのすべては、がくぽさまに捧げると、決めておりました。これで、すべての『初めて』を捧げられましたから、――」

こぼれそうな嗚咽を飲みこみ、カイトは顔を上げた。

ひたとがくぽを見据え、笑う。

「ですから、カイトは、満足です」