吉祥天女の二歩三歩

「カイト、そなた将棋は指せるか?」

「っえっ、っ?」

相変わらずの可憐な町娘ぶりで部屋を訪れたカイトに、がくぽは唐突な問いを放った。

がくぽの前には将棋盤があり、手には駒を弄んでいる。もうずいぶんとひとり将棋に時を費やしたあとで、いわば『ちょうどよく』カイトが来たところだった。

ゆえにがくぽにとってはまったく唐突さはないのだが、もちろん今、前触れもなく訪れたカイトにとってはそうではない。

「……………させます。けど………」

とはいえ、思考が追いつかないにしてもずいぶんな逡巡の間を挟み、カイトはようやく覚束ない口ぶりで答えた。

眉を跳ね上げたがくぽだが、逡巡の理由は問わない。ただ、にんまりとくちびるを笑みに歪め、駒でこんこんと盤を叩いた。

「では座れ。一人に飽いたところだ。相手をしろ」

「う……」

招かれて、カイトは履物を脱ぎ、おずおずと部屋に上がった。

胡坐を掻いて頬杖を突き背を撓めた、いかにも『飽いた』らしい自堕落な格好のがくぽの前に座りつつ、細い声で問う。

「どう、させば、いいんです?」

「ああ?」

指せるかと訊いて指せると答えて、この問いだ。

再び眉を跳ね上げ、だけでなく胡乱な顔になったがくぽは、身の置き所がないとばかりに委縮して座るカイトを、上から下から見た。

「そなた、先に指せると言わなんだか」

「ちがいますそうじゃなくって………っ!」

ゆっくりとした口調で意図を確認したがくぽに、カイトは慌てて腰を浮かせた。しかし、勢いは続かない。すぐにすとんと座りこみ、もどかしそうにくちびるを蠢かせる。

「じゃ、なくて……えと、だから………」

どうやら、なにかが言葉足らずであったらしい。しかもまた、逡巡だ。それも長い。

他の相手ならともかく、カイトだ。がくぽが心ひそかに、岡惚れする相手だ。

根気よく待ったがくぽに、カイトは小さなため息をこぼした。恨めし気な上目をがくぽに寄越し、訊く。

「だからっ……俺は、がくぽさまに、勝てばいいんですかそれとも、負ければいいんですか?」

「………は?」

初対局だ。しかもこれまで、相手が打つ場面を観戦したことがあるでもない。

まったく未知の相手に対して、放つ問いではない。

なにより、万事におっとりして勝負事に疎そうな『娘』が、切った張ったの世界で生きる男に――

「どちらです?!」

さすがに意想外にも過ぎて次の句が告げないがくぽに、カイトは耳を赤くし、涙目とまでなりながらも強硬に問いを重ねる。

世を知らぬ箱入り『娘』の思い上がりとは、違う。そこには確信が読み取れる。

鼻を鳴らすと、がくぽは不敵な笑みを浮かべ、手に弄んでいた駒をことりと盤に置いた。

「面白い。俺に勝つか手抜きはせんぞ」

「……っ」

告げても、カイトが前言を翻すことはない。気後れした顔にはなったが、己の発言の『自惚れ』に対してではなく、男の矜持を傷つけただろうことに対してだろう。

にんまりと笑うと、がくぽは手早く駒を並べ替えた。傲然と、命じる。

「では、勝て。全力で当たってやるゆえ」

「………っ」

くっとくちびるを噛んだカイトが、諦めたように盤を眺める――

……………

……………………

………………………………

差し出された結果に、がくぽは言葉もなかった。

負けた。己が。本当に。手を抜くことなく、全力で相手を潰そうとしたにも関わらず。

そんなことは、ついぞ経験がない。

「あの、がくぽさま………」

盤を挟んで前に座るカイトは、勝てとおっしゃいましたよねと、おずおず問う。ことに気を張ったふうでもなく、頭を絞って疲労した感もない。そもそもが、長考すらしないカイトの将棋だった。

始める前にはあれほど逡巡したくせに、始まってからは一度も止まらなかった。一瞬、さらりと盤を見て、駒を取り、すぐに置く。手に迷いはなく、落ち着いて、速い。

否、途中で一度、迷う風情を見せた。が、それは手に迷ったせいではない――少なくとも、がくぽの見るところ。

がくぽが己の形勢の不利さに、気がついたあたりだ。相手の気配が変わったことを察知して、『本当に勝っていいのか』不安が生じた。それだけだ。

「次だ。カイト。次は負けろ」

「えっあ、はいっ?」

口早に言うや、がくぽは素早く駒を戻した。戸惑う様子のカイトを睨みつけると、命じる。

「今度は負けろと言っておる。ああ、ただし、下手に負けるな。上手く負けろよ」

無茶苦茶を振って、カイトの答えを待たずに始める。

結果を言えば、カイトは言われるがまま『上手に負け』た。つまり、あからさまに手を抜いたとか、加減したようには、まったく見えなかったということだ。

途中、がくぽは自分が言ったことが本当に通じているのか、疑問にすら思った。カイトは終始優勢だったのだ。最後の最後に、がくぽがようやく競り勝った。

だが、終わって冷静に手を見返してみれば、きちんと『上手に負ける』ための布陣を敷いていたと、わかる。そう命じた前提があればこそだが。

前提がなければ、いい勝負の末、最後にカイトが競り負けたと、辛うじて勝てたと、信じて疑う余地もない。

がくぽは呆然としたまま、さらにカイトに次戦を命じた。次の次、次の次の次、勝て、負けろ、勝て、勝て、――

カイトはすべて、がくぽの要望に応えた。

さすがに疲れたのか、最後は多少手がぶれたが、乗り切った。辛うじての感はあっても、しかし乗り切ったのだ。

「なんだこれ」

呆然として、がくぽは盤を眺めたままつぶやいた。

こんな指し手は、聞いたことがない。

ましてや、下手を相手にしているならともかく、がくぽだ。一族から鬼子と呼ばれ畏れられる冴える頭脳はもちろん、将棋に於いても並ぶものがない。

手も抜いていない、上手を相手にして、この結果。

矜持をへし折るどころではない。

「おのれ……、やりおったな、そなた……っ」

つぶやいて、がくぽは破顔した。いつもは皮肉に眇める瞳をぱっと見開き、居心地の悪そうなカイトへ身を乗り出す。

「なんだこれは面白い面白いぞどういう特技だ油断のならん『娘』と思ってはいたが、他にどんな特技を隠しておる?!」

「えいえ、あの、ぇと、がくっ………」

あまりの勢いに押され、カイトは仰け反る。しどもどとくちびるを空転させ、視線をあちこちに泳がせた。

「とく、特技、では、べつに……っ。それに、あの、かくし……っ」

「ああ、いい。いい、言うな」

隠していたわけではないというカイトの弁明も聞かず、がくぽは上機嫌で身を引いた。完璧に負けた、先の勝負が残ったままの盤を愉しげに眺め、こくりと頷く。

「あとの愉しみだ。俺が見つける。己で見つけてやる、そなたを。ひとつひとつ、丁寧に、残らず余さず、な。そなた、叩けば山ほど埃が出て来そうな身ゆえな。生涯飽くことがなさそうだ」

「やま……っ!」

愉しそうだが容赦はないがくぽの評価に、カイトはべそ掻き顔になる。

反論しようにも、出来る根拠がないことくらい、カイトにもわかるのだろう。この『町娘』にも。

将棋盤を横に避けると、がくぽは機嫌良く笑いながらカイトへと手を伸ばした。

「来い、カイト。よく付き合うたしな。俺をよく愉しませもした。褒美になにか遣ろう、なにが欲しい?」

「ぁの、」

抵抗もせずに招かれたカイトは、素直にがくぽの胸に埋まりながら、言葉は中途半端に切った。

ほんのわずかな間があって、ことりと、力ない頭ががくぽの肩に懐く。

「……なにも、ありません。なにも………」

「無欲よな、そなたは。実に!」

つぶやくと、胸元に添えられていたカイトの手にきゅうっと力がこもった。無意識だろうが、すりりと、頭が擦りつけられる。

甘えるしぐさにも似たそれに、がくぽは目を細めた。

脅迫者と、被害者だ。

けれどカイトのさまはまるで、想い合い、すでに通じた仲のようで、がくぽの心を満たす。甘やかに満たして、より苦く、傷めつける。

「無欲よな、そなたは、ほんに」

もう一度つぶやき、がくぽはカイトの背を撫でた。ひくりと震えたそれをいいように取って、笑みを歪める。

「そういえば今日は、してやっておらんなせっかくそなたから訪い来ったものを、俺としたことが己の興味のみに付き合わせた。悪かったな………ひどく焦れたであろう?」

「がく、さ……」

話の行方の怪しさに気がつき、ぱっと身を起こしたカイトだが、がくぽを拒む動きにはならなかった。

一拍を挟んで、カイトはまた、がくぽに身を寄せる。それは、脅されて仕様がなしにという風情でもなく、馴れ合いに堕ちたふうでもなく――

読めず、見えない。

これだけの距離にいながら、盤上の駒の行方が読めず見えなかったより、カイトにそんな技が使えるなど、ついぞ予測し得なかったように。

がくぽは笑みながら、寄り添うカイトの体をゆっくりと辿った。

「まあ、な………言っても今日は、加減してやる。ずいぶん長く、付き合わせた後だ。そなたも疲れておろうし、………なにより俺は今、機嫌が良いゆえな?」