ヒメイロ、アォニ-前編-

――そなたは、無欲だな。

カイトの望みを訊いた兄はどこか、呆れたようにこぼした。意表を突かれたようでもあるし、拍子抜けしたという様子でもあった。

どちらにしても、カイトの感想は変わらない。

なにが、無欲なものか。これほどに強欲な願いも、そうそうないというのに――

この家の、ロイドきょうだい姉妹の長たる兄、がくぽを、独り占めしてみたい、などと。

カイトを含めたおとうとからの信頼が篤いのは言うに及ばず、ことに年上の男きょうだいへの点数が辛くなりがちな妹たちからも、よく頼みとされる兄が、がくぽだ。

頼られれば応え、懐かれれば慈しみ、慕われれば尽きせぬ愛情で返す兄だ。

であればこそ、カイトだけでなく、もう、弟妹こぞって、兄が大好きだ。ますますもって頼るし、懐くし、慕う。

挙句、当然の話で、そういうがくぽはマスターからの信も篤い。よく相談に乗っているのはもちろん、互いに馬が合うとかで、他愛ない話に花を咲かせていることもしばしばだ。

そう、家にいて、あるいは周囲に弟妹がいて、もしくはマスターがいて、がくぽが呼ばれない瞬間は、ひどく珍しい。

その兄を、独り占めしたい、など。

これがどれほど難易度の高い望みであることか、機微に敏い最新型であり、ことに情報処理能力の高さを謳われる機種でありながら、がくぽだけがきっと、永遠に理解することがない。

それで、寝惚けた挙句の戯言もいいところで、そう望むカイトを無欲だと評したりする。

だから、なにが無欲かと――

「ぇ………え、と?」

今に至っても状況が呑みこみきれず、カイトは戸惑って、意味もない音をこぼした。

兄と共同で使う、カイトの部屋だ。昼間の今は布団も上げられ、畳敷きの和室はすっきりと片づいている。

二月中旬であり、いわば冬の盛りというものではあるが、今日はいい陽気だ。南向きの室内には陽光とともにぬくもりも差しこんで、寒さに強いロイドというだけに因らず、暖房いらずの暖かさとなっている。

いつもと同じ、なに変わることのない、馴染みの――

違うことがなにかあるとするなら、昼日中の家中でありながら、兄と二人きりだということだ。

これはなにも、自室にカイトとがくぽ、男きょうだい二人きりで篭もっているという意味ではない。『家中』だ。

二月も中旬の、カイトの『誕生日』である、まさに今日――

――にぃさまを、独り占めしてみたいです。

決して叶わぬ願いと思っていたそれが、叶った。まさか、叶ってしまった。

しかしいったいどうしてこうなったものかの理解が及びきらず、カイトは半ば呆然としていたのだ。

だからといってひどく理解に苦しむような、大袈裟ななにかがあったわけではない。いわば、偶然の重なりの結果、たまたま、こうなったという。

カイトとがくぽの二人を留守居に任命し、他の家族は総出で買い物へ行ってしまったからという、それだけの――

ちなみに家族総出でなにを買いに出かけたのかといえば、今日のカイトの『誕生日』を祝うための用品だ。ご馳走のための材料であるとか、誕生会の『会場』を華やがせる飾りつけであるとか、あるいはカイトへの贈り物であるとか――

カイトの驚く顔が見たいからと、なにを買うか、用意するのかは、今回、内緒なのだという。

だからカイトは、彼らがなにをどれだけ買いこんでくるものか、詳細は知らない。

ただ、行く店のいくつかは教えてもらったし、会話の端々から推測するに、ずいぶん大掛かりな買いだしではないかと。

その、大掛かりな買いだしに、この家族の内で、荷物持ち要員としてもっとも適しているはずの成人男性二人、それもただ『成人』というだけでなく、若手で力余りのカイトとがくぽが、同行しない。

そもそもは、カイトの誕生日を祝うための買いだしだ。カイトが荷物持ち要員から外されるのは当然として、しかしがくぽだ。

カイト一人の不在を埋めて余りある、頼りになる長兄が、なぜか同行しない。

否、『なぜか』ではない。これもまた、カイトのためだ。少なくともマスターは、そう言った。

当初、妹たちは当然のように、がくぽを荷物持ち要員として計画に組みこんでいたのだ。それが、今朝の食卓で予定を確認しているときに、ふいに、マスターが言いだした。

――あら、でも、これじゃあ、カイトさんがひとりで、お留守番だわねいくら後に楽しみがあるといっても、お誕生日にひとりっぽっちでお留守番なんて、あんまりかわいそうじゃ、ないかしら?

しかも、およそ半日がかりの行程だ。開店と同時に買い物を始め、昼は外で済ませて、おやつくらいの時間に帰ってくるという――

家族がみんなで楽しくわいわいと買い物をしている時間、カイトはこの家にひとりきりで残されている。それも、半日もの間だ。

今日の主役で、もっとも楽しい思いをさせたい相手こそが、昼もひとりきりで済ませ、真冬の寒い家の中に、ぽつんと取り残されて――

――えいえ、寒いと思えば、暖房をつけますけど………

ピントのずれたカイトの答えはもちろん、誰ひとりの耳にも入れてもらえずきっぱり流され、急遽、予定が変更された。

結果だ。もっとも外してはいけないはずの長兄、今日の大掛かりな買いだしの成否を決める荷物持ちの、かなめであるはずのがくぽが、カイトとともに留守居の役を仰せつかった。

それで、がくぽだ。やいのやいのとした家族の話し合いには混ざらず、微苦笑とともに眺めていた兄といえば、ことに反論もせず、その役を容れた。

――まあ確かにな、俺がこの場合、もっとも適格であろう。カイトに凍える思いなぞ、万にひとつもさせぬという意味ではな。

そう、笑いながら言って――

いえだから、凍える前に暖房をつけるくらい、できますよという、カイトの反駁は再び、家族の誰も、聞いてくれず。

そして、今だ。

広い家の中には、カイトとがくぽの、男きょうだい二人しかいない。

家族の内でも静かなほうの二人だということもあるが、いつもいつも誰かしらの、なにかしらの生活音が響く家の中はしんと静まり返って、ひどく寒かった。

否、二月も中旬、真冬も真冬、寒さの底だ。たとえよく晴れて、風も穏やかないい陽気であろうと、気温は低い。寒いのは当然といえば当然なのだが、なんと言えばいいか――

それ以上に、空気がしんと、冷えきっていると言おうか。たとえカイトが言ったように暖房をつけても、どこかうそ寒い感じが残るような。

理由も知れぬ寒さに堪えきれず、残りの家事を片づけたカイトは慌てて、分担して別の家事を片づけていた兄の元へと走った。

――なんだ、カイト。下のきょうだいがおらんで、甘えたの虫が騒ぎでもするか。

いつでもどんなときでも頼りになる長兄は、笑いながらカイトを受け止めてくれた。そして自室へと戻ると、窓辺の、暖かい陽光の差しこむあたりに座布団を重ね、カイトを抱えて座った。

兄の膝の間に腰を下ろし、やわらかに抱えこまれて慰撫され、カイトはようやく、人心地がついた――

ところで、ふと、気がついた。

これはつまり、最前、決して叶うことはないと思いながら口にしたものが、叶っている状況ではないか、と。

ちなみにカイトが、叶うことはないとわかっていて、兄を困らせるだけだとも思いながら、願いを口にしたのは、ほとんどカイトの意思ではない。おっとりしていても意志は固く、簡単には気概の折れないおとうとの口を割らせるため、兄が手管を尽くした結果だ。

後から思い返すだに、それはそれはもう、結構な卑怯ぶりだった。

突き抜けておっとり気質のカイトですら、そう呆れるわけだが、それはともかく。

叶うことなど決してないと思っていたものが、叶った。それもまさか『誕生日』の、その当日に、まるで予期もせず――

気がついたことに、カイトがちょっと呆然としたところで、無理からぬというものだが。

そうやって呆然として、ほとんど愕然として無防備を晒すカイトは、常よりずいぶん、幼じみて見えた。言うなら、いたいけで、庇護欲をそそられるような様態だ。

だとしても、当の本人に自覚はない。まったく意図もしていないが、傍で見ているものの心は鷲掴みという。

もちろん普段から、長兄として頼られ、縋られることを好んでいるがくぽなど、ひとたまりもない。

もとより自らの腕に囲ったカイトへくちびるを降らせてと、愛おしみに尽くしていたのだが、ここでひっそりと、肩を落とした。

「なんと言ったものか、な………やるまでもなく、わかりきっていた結論というものだが」

「にぃさ、まぁ、んんっ」

呆然と、愕然として束の間、浮いていたカイトの瞳が、慨嘆の響きにおずおずと兄を窺う――

とても堪えきれるものではなく、がくぽはカイトの顎を掴んで上向かせると、あえかに開いたくちびるに自らのくちびるを重ねた。

わずかに痙攣したようなくちびるを、とろりと舐め辿ってなだめ、カイトの体からふわりと力が抜けた瞬間に、舌は口の内へと入りこむ。

「ん、んん……っ、ぁ、んく………っ」

甘く鼻を鳴らして指を縋らせたおとうとに、がくぽはますます熱心にくちびるを重ねた。

口内に入れた舌はカイトの歯の一本いっぽんまで残らず愛おしいというように辿り、その手で肌を撫でくすぐるように粘膜をあやし舐め、おどつく舌にしゃぶりつく。

「んんぅ…っ」

刺激に、時にびくりと大きく震え、堪えきれずに足をもぞつかせとしながら、カイトは兄が与える愛撫に溺れた。

否、ただ溺れるのではなく、自らも舌を伸ばして兄の舌を迎え、覚束ないながらももっともっとと、懸命なしぐさで強請る。

不慣れさも相俟って、突き抜けて健気なしぐさだ。そういう年ではないはずだが、ひどくいとけなく、いじらしい。

カイトを抱きこむがくぽの手に、堪えきれない力が入った。腕の内に従順に収まって、逃げるどころか抵抗らしい抵抗もしないカイトだというのに、さらにきつく――

肌に食いこんだ指の痛みはそのまま、兄もまた、カイトに夢中になったという証だ。

兄に愛おしまれる、その直接的な刺激だけに因らず、カイトの体に痺れが走り、胸が締め上げられながら、苦しいほどに満たされる。

「んんふ………っ」

長くしつこい愛撫にカイトの体が蕩けきり、腕の内ですら抱えているのが容易ではないほど崩れたところで、ようやくがくぽはくちびるを放した。

それでもすぐに、離れきるというものではない。あまりの熱心さに飲みこみきれず溢れ、おとうとの口回りを無惨に汚す唾液を丁寧に舐め取ってやる。

その舌遣いは愛撫というより、獣が毛づくろいをするのに似ていた。

どのみち丁寧で、いっそ口づけそのものよりも愛情に溢れたしぐさだ。

が、丁寧で愛情に溢れていようと、それが刺激であることに変わりはない。

「にぃ、さ……ま」

落ち着く暇がないと、カイトは兄の胸を軽く押した。ようやく抵抗らしきものを見せたカイトから、がくぽは大人しく離れる。

だからといってがくぽが、物わかりのいい、おとうと思いの兄であるということではない。

万事おっとりとしたおとうとが、とうとう音を上げるころには、がくぽはやりたいことをひと通りやりきっているのが、常だ。抑えきれないほどの激情も落ち着き、どうしても押しきらなければいけないというほどではなくなっているから、引きもするという。

「は…」

ようやく猶予を与えられたカイトのくちびるからは、兄の激情の名残りが甘やかにこぼされた。蕩ける体はしどけなくがくぽへと凭れながら、時折、ふと戻り来る感覚にあえかに痙攣し、落ち着ききらない。

やわらかな瞳ながらも、がくぽは端正な面立ちを微妙に歪め、そんなおとうとを見つめた。抱えこむ腕からも力が抜け、肩が落ちる。

先とは違って、慰撫の意味をこめた指がカイトの顎を掴んで、上向かせた。

蕩け揺らぐ瞳と見合って、がくぽの表情ははっきりと、苦笑に歪む。

「そなたが強請ったゆえ、な………与えたつもりの、誕生祝いだが」

ため息にも似た声で、がくぽは吐きだした。常には長兄として、力強く、頼もしくきょうだいを支え、牽引するそれが、ひどく気弱に。