ヒメイロ、アォニ-後編-

珍しい兄の様態と、言いだしたことの不可解とが相俟って、カイトはきょとりと瞳を瞬かせた。

そのカイトを、笑みは苦くとも愛情深く見つめ、がくぽは茶目っけたっぷりに、ちょこりと小首を傾げてみせた。

「これ、なあ――反って、俺への褒美ではないかむしろ、俺への褒美でしかないな?」

「ぇ、あ、にぃさ………?」

やはり、なにを言いだしたものかが、わからない。けれどどうやら、兄はひどく困っているようだ。

否、『カイトが』困らせたようだ。

未だ、体の芯が蕩けているものの、こうなってはあまり、だらしのない格好をしているわけにもいかない。

カイトは戸惑いながらも、姿勢を正そうと身じろいだ。抱きこむがくぽの腕に反射の力が入ってあえなく押さえこまれ、叶わなかった。

カイトは姿勢を正そうと思ったのであって、逃げようとしたわけではないのだが――

「ぁの、にぃさまぃたい……………です?」

「ああ。そうだな、すまぬ」

「ぇ、えと……」

なぜか微妙に確信なさげなおとうとの訴えに、兄といえば悪びれた様子もなく、常の余裕綽々といった、悠然とした態度で返した。

先の弱気は、さて、勘違いだったか――と。

カイトが自分の感覚へさらなる不審を重ねていると、がくぽの笑う気配がした。

目をやれば、やはり笑っている。先よりはずいぶんやわらいだが、まだ少しだけ、苦い。

「まあ、俺とてな、まさかこれのみを、そなたの誕生祝いとする気は、さらさらないが…」

「…はぃ?」

どうやら話が続いているらしいが、だからどこからどう始まった、なんの話かということだ。

懸命に思考を振り回し、けぶるカイトの瞳を愛おしげに覗きこみ、がくぽは苦みのもとを吐きだした。

「つまり、なそなたは兄を、独り占めしてみたいと、望んでくれたわけだが――そなたが兄を独り占めするということは、な。反せば、兄がそなたを独り占めにできるということでも、あろうこれはさて、いったい誰への褒美であり、恩寵であろうと、な。――あまりに己に都合が良過ぎて、少しばかり、不審なのだ」

「ぁ………」

ことここに至ってようやく話題に追いつき、カイトは揺らぐ瞳を見張った。

「にぃさま、まさか」

「いや、違う」

ほかの家族とは違う、特別の愛情を注ぐカイトの望みを叶えるため、まさか今日のこれを企みはしなかったか、と。

『荷物持ち』を失った家族が苦労することは目に見えているというのに、カイトの我が儘を叶えるため、兄の独断で――

カイトが皆まで言うどころか、疑惑の欠片すらこぼさないうちに、敏い兄は先手を打って否定してきた。

それでも案じるところがあって、くっとくちびるを引き結んだカイトに、がくぽは微妙な苦みを含んで笑う。

「そうであれば、こうまで戸惑いはせん。自らの企みでもってこう仕向けたなら、これ幸いとそなたを溺れさせるだけだ。それこそ祝いに相応しいだけの幸福を、そなたに尽くそう。――が、な…」

そこまで言って、がくぽは首を振った。横だ。否定でもあるし、気を確かに持とうとするしぐさでもある。

「情けない話だが、今日のこれは、ほんとうに偶然が重なっただけの、たまたまの結果で、な」

吐きだして、がくぽの笑みは言う通り、弱気に、戸惑い、情けなくなった。

「兄はそなたのために、なにも尽くしてやれておらんのだ。なんとなし、話の流れを見ていて、なああこれは、もしやしてと思うたので、逆らわずにおいた。したら、こうなったというだけのことで、な……ゆえにな、言うたであろうあまりにも己に好都合過ぎて、そなたの祝いをしている気にならぬと」

「ぇ……えと………」

苦笑とともに慨嘆するがくぽに、カイトは瞳を瞬かせた。

いつもと変わらず余裕綽々と見えた兄だが、どうやらカイトと同じか、より以上に戸惑い、動揺していたらしい。

それというのもこれというのも、思いもしない形で、最愛のおとうとの、いちばんの望みを叶えてやれてしまったからという――

しかしなにも力を尽くしたつもりもないのに、降って湧いたような幸運で掴んでしまったこの機会が、どうにも居心地悪い。

なにより、これはむしろがくぽにとってこそ思うつぼの、望むべくもない状態であって、ほんとうに祝いになるのかという、カイトに乞われた当初からの疑惑が、やはりという形で実証され――

「……まあ、『仙女』の思し召しゆえ、な。俺のごとき凡俗では、到底、太刀打ちもできん」

「………っふ、っ」

悪いとは思っても、兄の言いように、カイトはつい、吹きだしてしまった。

――話の流れを見ていて、な。もしやしてと思うたので、逆らわずにおいた。

今朝の、食卓だ。実のところ、急転換した話題に、おっとり気質のカイトはまるでついていけなかった。

が、もちろん、新型機であるというだけに因らず、情報処理能力の高さを謳われる兄は、それこそ余裕綽々でついていけていただろう。だけでなく、先すらも読んでいたはずだ。

もともとの発端、話題を急転させたのは、マスターだった。

ふと、急に思い至ったという様子で、カイトをひとり、残していったらかわいそうだと、言いだしたのだ。それで初めは、自分が残ろうかと――

がくぽに残れとは、言わなかった。ただ言うなら、今日のご馳走の材料を買うのに、『メインシェフ』である彼女もまた、買い物メンバーとしては欠かせなかったのだ。

そこから、喧々諤々の討議が始まり、カイト以外のきょうだいは皆、新型であるからもう、議論の進捗の速さといったら、なく――

マスターはがくぽに残れと、一度たりとて言わなかった。

けれど結論が出たとき、ならば荷物持ちの要員はどうするのかという、当然の指摘もしなかった。

――あら、それはいいわねえ。だってがくぽさんだったら、私たち全員を合わせたより、ずっとずっとカイトさんを寂しくさせずにおれるもの。ねえ、がくぽさん?

茶化すように、茶目っけたっぷりにそう振られて、兄は微苦笑とともに、ただ請け合った。つまり、自分がもっとも適格であり、決してカイトを凍えさせたりしない、と。

しかし今となって思えば、いつものがくぽなら、荷物持ちはどうするのかと、必ず確かめたはずだ。

カイトのことを特別に愛おしんでいるとはいえ、ほかの弟妹たちのこととて、深い愛情で慈しむ兄だ。彼らが大丈夫だと口を揃えたところで、少なくとも三度は、粘る。

それが、なにひとつ口を挟まず、唯々諾々と容れた――『逆らわずにおいた』のだ。この『要望』の発端が『誰』であったか、理解していればこそ。

――『仙女』の思し召しであれば、な。到底、太刀打ちもできん。

がくぽのこぼした慨嘆が負け惜しみであるとは、カイトにもわかる。

最愛のおとうとのいちばんの願いであれば、自らの力を尽くして叶えてやりたかった。が、足踏みしている間に、先を越された――

それはそうだと、カイトはあえかな誇らしさとともに、思う。

なんと言ってもマスターは、カイトのことをとても愛おしんでくれているのだ。カイトと同じほどにおっとりした気質のくせに、カイトのためにいいと思ったら、すぐと行動に移す潔さを持っている。

それで、だから、今日――

――いいこと、『大好きなおにぃちゃん』に、たっくさん、甘えておいでなさい。あなたがそう過ごしておいてくれることが、『今日』のお祝いがほんとうに成功するかどうかの、分かれ目なのよ。

出かける直前だ。三和土に立ったマスターは、見送るカイトをちょいちょいと手招き、やわらかな声でそう、耳に吹きこんだ。

そのときには意味もわからず、けれどマスターが言うことだからというだけで、カイトは頷いた。

けれどこうなれば、ようやく意味もわかる。

「………にぃさま」

「ぅん?」

微笑んで見つめるカイトに、がくぽは割りきりきれていない、複雑な表情を返す。

カイトはますます愉快になって、表情を綻ばせた。一度は起きた身が、再び、頼もしい兄へと寄りかかる。

いい陽気だ。部屋は真冬とも思えないほどぽかぽかと暖かく、なにより力強く受け止め、抱きしめてくれる兄がいて、カイトはまるで寒さを感じない。

「にぃさま、カイトを独り占めできて、うれしいですかカイトに独り占めされて、…」

「僥倖だ。なにより得難い幸福であり、幸運だ。そらおそろしくなるほどの、な」

カイトの問いに、がくぽは即座に返した。声は迷いも躊躇いもなく、力強い。

抱く腕にもあえかな力がこめられ、カイトは胸が締め上げられながら満たされる苦しさに、兄の胸へと指を縋らせた。

「にぃさま、大好き………」

募る思いのたけを吐きだすと、兄の体はなぜか、びくりと強張った。強張って、数瞬だ。

「………ぇ?」

なぜか兄の顔とともに天井が見えて、カイトは瞳を瞬かせた。遅れて、どうやら自分が畳に転がされたらしいと、気がつく。

「………にぃさま?」

きょとんとして声を上げたカイトに、伸し掛かったがくぽは、にやりと笑った。企む顔だった。淀みない手が着物に伸び、前をくつろげる。

「今が何時か、そなたにわかるか皆が帰るまでには、まだ、余裕がある。とはいえ最後、風呂まで済ませることを考えると、な………そうそう、ぼやぼやとはしておられん」

「ぁ、の………?」

兄の言うことのすべてが理解できずとも、現実に行われていることの理解は容易い。カイトはふわりと肌を染め、一瞬だけ、肌蹴られる自らを隠そうとした。

一瞬だ。

すぐに力が抜けた体は、従順に兄の為すがままとなっただけでなく、自ら手を伸ばし、足を絡めとして、愛でられ、甘やかされるに尽くした。それこそマスターに願われたまま、ひたすら幸福に――