Parsley,Sage,Rosemary,& Thyme-07-
頬を撫でられる。顎に触れた手が顔を上向かせ。
「クリームついてる。子供かおまえは」
咽喉の奥で笑う声。
言葉は呆れていても、含まれる感情は満足。
躊躇いもなく近づく男臭い顔。
昔から同じ顔だ同じ顔だと言われるけれど、自分はこんな、色気のある表情を見せるだろうか。
「…甘い」
くちびるについたクリームを舐め取って、苦い声が漏れる。
おかしいと思う。
クリームは甘いのに、声は苦いなんて。
こんなにおいしいのに、不満だなんて。
「おいしいよ?」
確認するように、自分でもくちびるを舐めた。
きれいに舐め取られているから、そんなことをしても味なんてしない。
ただ、間近で見つめる彼の瞳に、今日も走る感情を見たくて。
笑いかける。精いっぱい、想いをこめて。
おいしいよ?
おいしいよ、ほらもっと、食べたくなる。
もっともっと、たくさん食べたくなる。全部ぜんぶ。
けれど、彼は顔を逸らしてしまう。
離れていくからだ。
ぬくもりが遠ざかって、こころに吹くひんやりとした風。
「甘いのは苦手なんだよ」
ぼやく声。
苦々しい。
ああそう、苦手なんだ?甘いの。
知ってるけれど、何度でも確認したくなる。
甘いの苦手なんだ?
こうやって作るくせに、私に食べさせるくせに、苦手なんだ。
「おまえは子供舌だよな」
からかう声音。
笑っている。
遠く、遠くで。
苦手なんだ、甘いの。
作るくせに、私に食べさせるくせに、そうやって私に触れるくせに、苦手って言うんだ。
遠く、遠く離れて、私を置き去りにして、言うんだ、甘いのは苦手だ。
それですべて片付けて、全部なかったことにするんだ。
全部、全部ぜんぶ、それで済むと思うの?
「言っておくが、私は辛いものだって食べられるぞ」
遠い遠い彼に凄むと、もう姿も見えない彼の笑い声だけが谺する。
辛いものだって、食べられるんだ。
カライものだって。
カライ⇔ツライ、ものだって。
なんでも、食べる。
おまえが与えるものならば、なんでも、食べるんだ、ワタシハ。
「オラクル」
名前を呼ぶな、呼ばれたくない。
約束だって言った、自分から言った。
私は言ってない。
約束、指輪買いに行こう、絶対だ。
捨てないで、そう言った同じ口で、私を置き去りにする。
おまえが言ったんだ、先に。
最初に、私の手を取って。
それなのに、一眠りしたらもう、なかったことになる。
何度でも何度でも、くり返しくり返し、永遠に終わらないから、ループ。
「オラクル、起きろ」
触るな、起こすな。
起きたくない。起きたくない起きたくない起きたくない。
永遠に眠っていればいいんだ、おまえなんか。
起きたらすべて消し去ってなかったことにしてしまうんだから、眠っているおまえのほうが愛しい。
起きて動いているおまえなんか嫌いだ。
そうだ、きらいだ。
永遠に眠ってしまえ。
私のことを抱いて、永遠の眠りに沈め。
そうすれば、一生(アイシテヤル)
「オラクル!」
「いっ?!」
びっ、とからだに走った電流に、オラクルは悲鳴を上げて目を覚ました。
あまりに唐突な目覚めに、頭がついていかない。心臓が割れ鉦のように激しく鳴り響く。口から出て来そうだ。
「…なに?」
呆然とつぶやいた。いくつもの意味を込めた、「なに?」。
コードに引き留められながら、それでも昼食だけを共にして自分のアパートに帰った。
昨日の酒宴の名残もない、きれいに片付いた我が家。
先に起きたオラトリオが、家に帰る前に片づけていったからだ。
欠片すら残してくれない、静まり返った我が家。
満腹感と疲れに後押しされて、ベッドに倒れこんだ。
やめればいいのに、と思う。
オラトリオと飲んだ翌日の倦怠感たるや、世界が滅びそうなほどだ。
やめればいいのに、こんなこと。やめればいいのに、あんなやつ。
自分を罵倒しながら、眠りについた夢の中でも、オラトリオが。
詰る自分を笑うオラトリオに、叫んで叫んで、叫んで…痛み。
そう、痛みに襲われて、目を覚ました、その自分の目の前に、オラトリオがまたいるという現実。
鍵はどうしただろう。
考えて、無意味さに気がつく。オラトリオは合鍵を持っている。出入り自由だ。
「目ぇ覚めたか、オラクル」
「…オラトリオ」
ベッドに横たわるオラクルの上に乗り上げたオラトリオの顔は、竦むほどの怒りに覆われていた。
怒っていたのは自分のはずだ。怒る権利があるのも。
なのに、現実にはオラトリオが怒っている。
呆然と見上げるオラクルに、オラトリオはひらひらと使用済みの絆創膏を振った。意味がわからずきょとんとしたあと、それがどこから剥がされたものかに思い至る。
自分に鋭い痛みを与えたもの。眠っている自分から、無遠慮に剥がされた。
「あ」
つぶやいて、襟元へと反射的に手をやった。
見られた、見られたくなかった。
感情は素直に表情に表れて、隠すことも思いつかない。
オラトリオが牙を剥き出した。
「だれだ」
低く、問う声。
恐ろしくておそろしくて堪らないのに、それでも、いい声だと思う。
思う自分がおかしい。こんなときに、こんなときでも。
「だれにつけられた」
地底を這い登る声。笑いそうになる。
おまえ、それ、本気?
ああいいんだ、わかってる、本気なんだよな。おまえは本気なんだ。本気で。
「だれがおまえに触れた」
「おまえには、関係ない」
答えながら、泣きそうだ。
男子たるもの、簡単に泣くなと言われて育った。
コード、強いつよい兄。迷わない、まっすぐなひと。
私はだめだ。だって、こんなにも歪んでしまった。
震える声を堪えて、きっとオラトリオを見上げる。なんて恐ろしい。地獄の鬼を垣間見たような心持ちだ。
「どうしてそんなこと訊くんだ?おまえになんの関係がある」
言葉を重ねた肩を、折れんばかりの力で掴まれた。
「関係?関係がないと?俺が?おまえに、俺が関係ないと!」
吼える声に、胃が縮み上がる。
おかしいだろう、こんなのは。
滲む涙に、酸の過剰分泌で灼ける胃の感触に、むらむらと怒りが込み上げる。
どうして自分が。
オラトリオを睨みつけて、手を振り払った。半身を起こして、後ずさる。
怒り狂った男に殴られることも覚悟の上だ。
決めていた。言わないと。
怒っているのも、怒る権利があるのもこちらだ。
自分からは言わない。情けを乞うような真似はしない。
這いつくばるなら、そちらだ。
「おまえには、関係ないことだろう!」
「…っ」
唸ったオラトリオが、拳を飛ばした。
殴られる瞬間も睨んでいてやると決意していたが、反射的に身が竦み、目を閉じてしまう。
けれど衝撃は来ず、胸倉を掴み上げられてからだが浮く。
「いっ?!」
半ば以上は驚きから、悲鳴がこぼれた。
浮いて開いた襟元、鬱血痕に、オラトリオが咬みついていた。
きりり、と牙を立てられ、きつく吸われて、離れる。
「関係ない。ああ関係ない。関係ないよな」
まくし立て、オラトリオは掴んでいた胸倉を放り投げた。
再びベッドに倒れたからだを見下ろし、新たに付け直した鬱血痕を容赦なく引っ掻いて、立ち上がる。
「だったら、そんなもん見えるとこにつけんな!これ見よがしにつけるようなやつと付き合うんじゃねえよ!」
叫んで、オラトリオは飛び出して行った。
扉が乱暴に開かれ、叩きつけられる。床を踏み抜くような足音。遠ざかる――
嵐は去って、部屋には再び静けさが戻ってきた。
色は昏い緋色。
今は夕方だ、とようやく認識。
「…滅茶苦茶だ」
二重に傷つけられて痛む首元を押さえ、オラクルは呆然とつぶやいた。
滅茶苦茶だ。言っていることも、やっていることも。
「滅茶苦茶だ、おまえは」
自分がなにを言っているか、わかっていただろうか、あの従兄弟は。
自分がなにを言ったのか、わかる日が来るのだろうか。
怒りで胃が灼ける。
しあわせだった。
しあわせだと思った。
あんなことをされていても。されている最中にすら、天にも昇るように。
そんな自分が、いちばん腹が立つ。