睨みつけてくる瞳が、それでも甘かった。
いっそ舐め取ってしまったらどうだろう。
自分を見つめたまま抉り取ってしまったなら、こころに浮かぶ残影は、いつも自分にならないだろうか。
Parsley,Sage,Rosemary,& Thyme-08-
苛々と家へ向かいながら、オラトリオは詮無い思考に埋まる。
怒りのままに、オラクルに触れた。肌に咬みついて、傷つけた。大事にだいじに守ってきたものを。
「…っちっ」
痛烈に舌打ちが漏れた。
隙を作ったつもりはなかった。この鉄壁の守りを潜り抜けて、だれがオラクルに触れられるというのだ。オラクルがだれを触れさせるというのだ。
だが現実として、手がついた。
「あら、オラトリオ様、ご機嫌麗しゅう」
「…」
おそらく今の自分は、恐ろしく気が立っていて、その不機嫌な空気をこれでもかと周囲に振り撒いているはずだ。
なのに、こうも平然と声を掛けてくる。こんな度胸がある人間は、そういない。
「麗しく見えますかね、エモーションお嬢さん」
「まあ、麗しくありませんの?」
激情を押し殺した声に、見るからに最近の女子高生の格好のエモーションは、ちぐはぐな奥ゆかしい態度で返してきた。調子が狂うことこのうえない。
カシオペア家の人間は皆、コードという過保護キングの丁重なる庇護下で、どこか現代とは違う空気を纏って存在している。
「でもでも、締切りは終わられたんでしょう?それともまさかもしや、新たな急ぎのお仕事でも入られました?!」
悲愴な顔になって両手をお祈りの形に組んだエモーションに、オラトリオは苦笑いした。
まるで相手をしたい気分ではないのだが、生来の気質と生育環境から、女性を無碍にできない。
「入ってないっすよ。しばらくは遊べます」
どうせなら遊んでくれますか、お嬢さん。
わざと跳ね上げた声で続けた言葉を、エモーションは明るく笑い飛ばした。
コード庇護下にある自分に手を出す勇のある人間が町内にいないことは、彼女にはよくわかっている。
オラトリオがだれをずっと見続けてきたかも、知っている。
「いけません。わたくし、これからオラクル様のところへ遊びに行きますの。ですから、オラトリオ様とは遊べませんわ」
悪戯っぽく笑われて、いつもなら軽く受け流すところを、流せなかった。
言葉が閊えて、息が苦しい。
オラクルを溺愛するのは、なにもコードだけの話ではない。この少女もまた、格段にこころを砕いている。(それは家族としてか、それとも)
「ひどいんですのよ、オラクル様ったら!エルが帰るまでうちで待っていてくださったらよいのに、さっさとお帰りになってしまわれて。エルがなんのために、お土産を買ってきていると思っていらっしゃるのかしら」
少女の声は軽い。羽でも生えているようだ。弾む表情はうれしさに溢れている。(そのうれしさの根拠は?)
思考がぐるぐる渦を巻いて、気持ち悪い。
口元を押さえたオラトリオに、うきうきと明後日を見ていたエモーションが顔をしかめた。
「まあ、オラトリオ様。いかがなさいまして?」
「…オラクルは」
無邪気に見上げる瞳に、言おうとした言葉を言えずに呑みこむ。
オラクルは?オラクルは、なんだというのか。
関係ない、叩きつけられた痛み。
おまえには関係ない、叫んだ瞳が、甘いから。
「…もしかして、オラトリオ様。オラクル様と、喧嘩でもいたしました?」
「…」
喧嘩ではないと思う。自分が一方的に怒っただけだ。
反論してきたはものの、オラクルにはなにがなにやらわかっていなかっただろう。
明日になればけろりとした顔でやってきて、なにか怒ってたのか?とか訊きそうだ。いつもいつも、そうやって有耶無耶になにもかもを。
答えられずに沈黙したオラトリオを困ったように見上げて、エモーションは可憐なくちびるを尖らせた。ぴんぴん、と人差し指で拍子を取りながら、きゅっと眉をひそめ。
「お兄様が言っておられました。オラクル様は、昨日の夜お酒を嗜み過ぎて、寝不足だって。それって、一昨日までの締切りが無事に明けた、お祝いのお酒でしたのでしょう?でしたら、オラトリオ様もお飲みになられましたよね、いっしょに」
一言ひとこと、なにかを恐れるように言葉を紡ぐ。声はひっそりと沈んでいき、最後は吐息のようになった。
相変わらず沈黙したままのオラトリオを見つめ、エモーションは無意味に口を開け閉めした。物怖じしない彼女にしては珍しい態度だ。
「…ですの?」
「?」
つぶやかれた言葉は幽かで、オラトリオの耳には届かなかった。聞きたいわけではないが、聞こえないとなると微妙に気になる。
「なんです?」
俯く彼女に合わせて大きく腰を屈めながら訊き返すと、エモーションはまたも無意味に口を開け閉めし。
「相変わらずですの?」
「?」
聞こえたところで、大したことではなかった。意味不明だ。なにがどう、相変わらずというのか。
無言で先を促すと、エモーションは困った顔で首を傾げた。
「オラトリオ様です。相変わらずですの?」
「…だから、なにが?」
そんな言葉ではなにを差しているかわからない。
苛立ちが出て、わずかに尖った声で訊いたオラトリオに、エモーションの顔がくしゃりと歪んだ。
むむむ、となにかを溜めこむように膨らんでいき。
「お酒のことです!」
ぽん、と爆発。
すぐにトーンを抑えて、しかししっかりはっきりとまくし立てる。
「お酒を嗜まれると、オラトリオ様はオラクル様に結婚を迫られるでしょう!オラクル様がはいと言うまで子供みたいに駄々をこねられて、はいと言ったらいったで、今度は押し倒して」
「?!」
「翌朝になるとすっかりきっぱり忘れてしまわれるけれど、」
「ちょ、ちょっと待った!」
早口で言い募るエモーションの口を手で覆い、オラトリオは無意味に辺りを見回した。人影はない。
「なんの話です?だれがだれに、なんですって?」
「…」
訊き返すと、いつもぱっちりと開かれているエモーションの瞳が、冷ややかに眇められた。
オラトリオの手を振り切ると、大きなため息をつく。
「相変わらずですの?それとも、今はお変わりになられたの?」
珍しく、声まで冷たい。
困惑するオラトリオに、エモーションは腰に手を当ててふんぞり返った。
「少なくとも、わたくしがお見かけした限りでは、お酒を嗜まれたオラトリオ様は毎回まいかい、オラクル様に結婚を迫っておいででした。お兄様に蹴倒されようが、ラヴェンダー様に締め上げられようが、オラクル様がはいとおっしゃるまで、それはそれはもう、しつこく」
怒られているようだ、と薄々わかったが、オラトリオとしてはにわかには信じられない。
エモーションがこの手の冗談を言って人を惑わす性質でないことも重々承知しているのだが、なにしろそんなことをした記憶がない。欠片もない。きれいさっぱりない。
エモーションは深くふかくため息をついた。
「覚えていらっしゃらないと言うんでしょう?そうです、毎回まいかい、オラトリオ様ったら忘れてしまわれるんですわ。あれだけしつこくオラクル様に迫っておきながら、起きたらなにもかも忘却の彼方。薄情を通り越して冷血ですわ」
「しつこくって」
あまりに力を込めて言われて、オラトリオは思わず訊いてしまった。
「そんなにしつこく?」
「…」
エモーションの瞳が震える。ぴ、と人差し指が立った。
「恥も外聞もなく、ですわ。手段は選びません」
そんなに?
黙りこむオラトリオに、エモーションの空気が一変する。冷たく吹き荒ぶブリザードから、いつもの軽やかに舞い飛ぶ蝶に。
「覚えていらっしゃらないのね?オラクル様は、なにもおっしゃらないのでしょう?」
「なにも…」
つぶやきながら、思い出していた。
あれは、成人式。
初めての酒は、姉の暴走で、初心者にあるまじき無茶苦茶な飲み方だった。徳利を五本空けたのまでは覚えているが、それ以降の記憶がない。
翌朝起きると、からだといい顔といい、痣だらけの打ち身だらけで、ひどい有り様だった。二日酔いにはさっぱり縁がなかったのだが、乱闘の跡と思しきそれには、悲鳴が出た。
「おまえ、オラクルに結婚を迫ってコードに伸されたんだぞ」
ラヴェンダーに言われて、シグナルにもからかわれて。
それからしばらくは、会うひと会うひとにからかわれたけれど、そのうち話題にならなくなって。
忘れていた。
忘れていたかった。
眩暈に襲われて口元を覆ったオラトリオを見上げ、エモーションは躊躇いがちに、しかし容赦なく告げる。
「一度きりのことではありませんのよ。オラクル様とお飲みになられているときは、毎回まいかい」
コード兄様を止めるのが、それはもう大変なんですから。
ため息で言ってから、エモーションの声はどこか寂しげに、やわらかく沈んだ。
「だいじょうぶ。オラクル様にだけですわ。オラトリオ様、隣にどんな美女が座っていても、見向きもせずにオラクル様にだけ」
「ああ…」
呻きがこぼれた。
心配などしていない。酒に酔って記憶を失くそうと、正体を失くそうと、自分がオラクル以外欲するわけがない。
ショックなのは、そんなことではない。
翌朝、様子を見に来たオラクル。
覚えてないんだ、なにも。
告げた自分に、笑った。うれしそうに、ほっと安堵した顔で。
「よかった」
小さく、ちいさく、つぶやいた。吐息のように、けれどはっきりと。
よかった。よかった?よかったって、なにが?
つぶやかれた、言葉の意味を、知りたくない。