実際のところ、オラトリオは立体映像の<オラクル>があまり好きではない。
感触がないからだ。
緋之閻魔
いくら思考を共有し、言葉を交わし、微笑み合ったとしても――触れた手は、突き抜ける。掴もうとした体は、すり抜ける。抱き寄せようにも引き止めようにも、手段がない。
そして呼気や荷重をどんなに精密に計算しても、リアルに反映することは出来ない。
最高峰の技術を惜しげもなく注ぎこまれて造られた<オラクル>の立体映像がリアルであればあるだけ、ふとした瞬間に見せつけられる『実存していない』証明は、心に深く棘する。
だからオラトリオは、赦される限りはサイバースペースに潜る。
そこが仮想の空間でしかないとわかっていても、伸ばした手は届く。触れて、掴み、引き寄せられる。熱を持つ呼気も、潰されそうな荷重も、すべてをつぶさに感じることが出来る。
実存しているのだと、なけなしの安心感を得られる――
『………失礼だな』
オラクルがつぶやく。声は笑っているし、言葉も軽い。怒っているわけでも、気分を害しているわけでもない。単なる相槌だ。
わかるから、オラトリオは相棒に視線をやらない。執務机に向かって書類を読みこみ、ペンを走らせながら頷く。
「かもな」
こちらの声も、笑う。
そのくちびるは歪んで、傍らで書類を覗き込んでいる相棒へ、ちらりと視線をやった。すぐに外れた視線は、液晶の中、承認のためのわずかなタイムラグを生み出している書類へ戻る。
「しかもおまえ、呼吸も荷重も頻繁に計算忘れるしな。そっち行ったって呼吸だ荷重だなんて、ほとんど感じられねえ。触れるか触れねえか、その違いしかないときた」
呆れたように腐し、オラトリオは承認の終わった画面をペンで軽く突いた。新しい書類を呼び出すと、さっと目を通しただけで承認ボタンを押す。タイムラグと、画面の明滅。
それでも、まだましだ。
触れる。
呼気や荷重などよりよほど確実な、実存の証明。
吐息を感じられても、くちびるのやわらかさが感じられなければ、意味はない。荷重を掛けられても抱いている感触がなければ、気が狂うような思いに駆られるだろう。
『しか』とは評したが、なにより大事な一線だ。それ以上を望むのは欲深で、我が儘というものだ。
オラトリオもわかっていて、そのうえで腐す。あくまでも軽く、思いも込めない声音で。
液晶の明滅が落ち着き、オラトリオはペンで画面を突いた。新たな書類を呼び出し――
「……………オラクル。誘うな。これからしばらく忙しくて、そっちに行けない」
ペンを動かす手のみならず、巨体の動作のすべてを止め、オラトリオは低く吐き出した。言葉とともにこぼれた模造の呼気が、白く濁る。部屋の温度がどれだけ低いかということだ。
オラトリオの現在地は、<ORACLE>本部。傍らに<ORACLE>の本体たる六角柱のそびえる、限られたものにのみ通過を赦される場所だ。
<ORACLE>――オラクルが、唯一リアルに姿を見せられる場所。
精緻に精密に作られながら、決して実存しない姿を出現させる場所。
今となっては、オラトリオ以外に訪れるものも滅多にはいない。
「大人しく仕事しろ」
『まさかおまえに言われるとは』
仕事嫌いが吐きこぼす『仕事しろ』の言葉に、オラクルは少しばかり呆れたようにつぶやいた。
そのくちびるは、すぐに笑みを刻む。いつも通り、穏やかでやわらかな、やさしい笑みだ。
固まって動けなくなったオラトリオに背後から抱きついたまま、オラクルはそっと体を浮かせて顔を覗き込んだ。
『そうまで嫌がらずとも、いいだろう?仕事の邪魔になることもないはずだ。重くもなければ、動きに掛かることもない………』
「オラクル!」
微笑んで列挙するオラクルを、オラトリオは語気荒く呼んだ。
決して振り返ることのないオラトリオに見えるのは、背後から覆い被さったオラクルが、胸に回した手だけだ。
白く透き通る――文字通りに透き通る、白いしろい手。
それは既存のCGと比べれば、はるかに精緻に精密につくられている。遠目に見れば実存を疑う理由などない。近場で見ても、にわかには信じられないだろう。
けれど、なにも感じない。
触れられている、抱きつかれている、覆い被さられている。
そのすべての感触が、一切ない。
手が見える。
あるのは、視覚に映ったものだけだ。
曖昧として、揺らぐ感覚ひとつのみに訴える、依る存在感。
その薄さと頼りなさ。
「時間がない。わかってんだろ?そっちにはしばらく行けない。おまえを確かめたくても、出来ない!」
訴えるオラトリオの声は悲痛に掠れ、響いた。
オラクルのくちびるは笑みを刷いたままだ。やさしく、やわらかい。慈しみと愛情に溢れ、憐れみに満ちた、穏やかなものだ。
――オラトリオだとてオラクルの実存を確かめられないが、オラクルも同様だ。いくらここで姿を現しても、オラトリオがサイバースペースにダイブしてくれなければ、触れない。
今こうしていても、オラクルだとてなにも感じていないのだ。いつもなら密かに心配する高い体温も、安心感を覚える広い背中の感触も、仄かに香る整髪料のにおいもなにも。
感じていないのは、オラトリオだけではない。オラクルもだ。
実存を確かめたくても、オラトリオが来てくれなければ、なにひとつとして――
オラトリオから訪れてくれなければ、決して。
オラクルからオラトリオの元に行くことは、出来ない。
『悶え足掻いて、苦しんでおいで、オラトリオ』
オラクルは微笑んだまま、固まって動かないオラトリオの背中に、頭を乗せる。
実際、滑稽な姿だ。オラクルがオラトリオの背中に頭を乗せるのは、そこに『凭れられるものがある』からではない。
映像を解析し、場所に合わせてオラクルが勝手に動きを止めているだけだ。一人芝居もいいところ。
滑稽さは承知で、オラクルは微笑んだまま瞼を下ろす。
『<私>を求め、狂うように希って、<こちら>においで』
「オラクル」
軋る歯の隙間からこぼれるのは、苦しい声だ。すでにオラトリオは、十分に苦しんでいる。
開かれたオラクルの瞳は、先よりも丸んで、和んでいた。体を起こすと、どこか痛みを宿して、強張るオラトリオの背中を眺める。
諸々の事業や季節的なものが重なった結果、オラトリオがしばらく忙しいことは確かだ。
今日も、こうして本部に顔を見せたはものの、呼び出しがあればすぐに出て行けるようにと、電脳空間にはダイブしないままに仕事を片付けている。
オラクルがハッキングされれば、さすがにダイブせざるを得ないだろうが、そうでもなければとても――
『……っ』
可能性の検証に、オラクルの表情は翳り、体が小さく震えた。感情の統制を離れた反応だ。体のこんな反応を、オラクルは望んでいない。
大体の感情は制御の範囲内に置いているオラクルだが、ハッカーやウイルスに対してだけは、手綱を取り切れない。身の内に刻まれたトラウマは、それほど根深く酷い。
常なら、多少離れていたとしてもオラクルの反応を察して、大丈夫だと抱き寄せてくれるのがオラトリオだ。俺がいるだろう?と。
共に<ORACLE>に、あったなら。
この距離は、そんな些細な思いやりすら、届かなくする。
『おまえが悶え足掻き、苦しんで求め、狂うように希うとき、――それは<私>も同じだ、オラトリオ』
痛みを宿しても微笑み、オラクルは小さく告げた。
どんなに情人に会いたくても、触れたくても、ハッキングに遭うのは嫌だ。
プログラムの深奥に酷く刻まれた、克服しきれないトラウマのこともある。
が、重ねて言うなら、それは恋望む情人を危険に晒すことに他ならない。
たとえ電脳最強の冠を被ろうと、守護者として全幅の信頼を置こうと、それはそれでこれはこれだ。
オラトリオは仕事上のパートナーであるとともに、なによりも愛おしむ情人であり、生涯の伴侶だ。
どれほど彼を希おうと、譲れないものがあり、踏み越えない一線が、必ずある。
「オラクル」
はっとしたように振り返ったオラトリオへ、オラクルは身を屈めた。そっと、顔を重ねる。
熱もない。冷たさもない。柔らかさも硬さも、乾きも湿り気も――
なにもない。
想いだけ重ねたくちびるを離すと、オラクルは凝然と見つめるオラトリオに軽く手を振った。
『仕事の邪魔をして悪かった。私は私で、<あちら>で片づけているから。なにかあれば、呼べ』
「オラクル、」
消えようとする体に、オラトリオは咄嗟に立ち上がり、手を伸ばす。
届かない。
――正確には、すり抜けた。
「………っっ」
荊は鋭く、オラトリオは棘の痛みに強張り、動けなくなる。それは心理的なものでしかないが、致命的なものでもある。
見つめるオラクルは、微笑む。慈しみと憐れみと、愛情と――
『もう邪魔はしない。から、早く仕事を片付けろ。そして思い出せ。<私>がおまえの来訪を、悶え足掻き、苦しみ求め、狂うように希って心待ちにしていることを。思い出して、とっととこっちに来い。固まっている時間など、すべて私との逢瀬のために費やせ!』
やさしい表情ながら厳しい声音で命じると、オラクルは満ちて溢れそうな想いを湛え、とんとんと自分の眦を突いた。
『来たなら私を抱きしめて、存分に泣かせろ。おまえに逢いたくて堪らなかった。どれだけ寂しかったかと』
「オラクル!」
一歩を踏み出したオラトリオの前で、笑うオラクルの姿が掻き消える。すり抜けるどころではなく、伸ばした手が掴むのは完全な空漠だ。
瞬間的に静寂と静謐が伸し掛かり、ややして戻って来た聴覚が空調の音と、傍らにそびえ立つ<ORACLE>の稼働音を捉える。
呆然と立ち尽くしたオラトリオだが、長くはなかった。
その顔に、不敵な笑みが浮かぶ。
「………なるほど。まったくもっておまえの言う通りだ、オラクル。めそめそぐずぐずしている間ぁがあるんなら、その分仕事をぶっこんで、なによりも早くおまえに逢いに行く。おまえと過ごす時間を、たとえ一分一秒だろうと、長く作る。正論過ぎて反論のしようがねえよ、このオラトリオさんともあろうもんが!」
力強く言って、笑みは苦いものを含んだ。
「まさか、世間知らずに諭されるったぁ。俺も焼きが回ったかね」
――おそらく電脳空間であれば、次の瞬間にはオラクルの鳴らした指の音と間断を置かずに大量のファイルが降り注ぎ、オラトリオを潰していたはずだ。
けれどオラトリオは変わらず、立っている。降り注ぐファイルも、鳴らされる指もない。オラクルの詰る声も、オラトリオの抗議の声も響かない。
その差。
些細で、大きい。
「泣かせるぞ、オラクル。待ってろ――遠くない。待たせねえ」
最後は軋るように言うと、オラトリオは椅子に座り直した。ペンを持つと、液晶を突く。
書類を裁断する目は鋭く、ほんのミクロの埃すらも見逃さない気迫を持っていた。