完全なる沈黙。
静寂だけが、そこにあった。
Episode00-色は匂へと-01
いつも皓々と闇を照らし、知の探究者たちを、求道者たちを炯々と導いていた光は喪われた。
喪失を語る、深い闇。
空間に満ちる、空虚と悲哀、そして拒絶の意志。
「…」
天地もない基盤に降り立ち、オラトリオは小さく辺りを見渡す。
足元が覚束ないのは、なによりも常に自分が相棒に甘えさせられ、頼っていた証拠。
もともと天地の別などない空間に、理解もできない天地の別をつくりだし、現実空間からダイブしてくるオラトリオの感覚を支えていた、根っからの電脳住人である、相棒。
それはひどく頼りなく、違和感もあって、苛立ちを募らせられる感覚ではあったけれど。
少なくとも、それでオラトリオが救われていた、その揺るぎない事実。
失われて、こうして突きつけられて、初めて気づく。
その自分の鈍さと愚かしさが恨めしい。
普段、相棒のことを鈍いのなんのと腐していても、気がつけば常に、彼のさりげない配慮の上にようやく一人で立っていた、あまりに巧妙に隠されていた真実。
「オラクル」
小さく呼ぶ。
呑みこまれる闇の中、ともすれば落ちこみそうになる基盤の上を慎重に歩いて、オラトリオは相棒の姿を探す。
闇に堕ち、光が喪われても、ここは<ORACLE>。
相棒が主人を務める、叡智の電脳図書館であることに変わりはなく。
こうなってすら、この空間から彼が出ていくことは出来ない。
それもまた、揺るぎなく残酷な真実。
それゆえに呑みこまれた、生まれざるを得なかった闇。
「オラクル」
小さいが、確固たる呼び声に、闇の中に薄ぼんやりと灯る光がある。
沈んだ青。もしくは、灰色。さもなければ、暗闇を照らす黒。
オラトリオは弱々しい光目指してゆっくりと歩き、近づいた。
「…見つけたぞ」
つぶやく。
目の前に、膝を抱えて小さく小さくうずくまる相棒の姿があった。
同じような体格であっても、どこかほっそりした骨組みの相棒は、その浮かべる世間知らずな表情と相まって、いつもいつも頼りなく見えた。
あまりに頼りなくて、こんなのが自分の片割れなのかと思えば、苛立ちも募って。
ひどいことも言ったし、最低な態度も取った。
けれど、少なくとも、――今の、この状態より、ずっとずっとましだったのだと、痛烈に思う。
「オラクル」
声を掛ける。
やさしくしてやってくれ、と懇願された。
言いたいこともわかるが、どうか今だけはやさしくしてやってくれ、と。
それでも、どうしても声が震えた。
憤りと、苛立ちと、…不安から。
「オラクル、俺だ」
「…」
重ねて声を掛けると、膝に顔を埋めていたオラクルが顔を上げた。
現実味のない、白過ぎる面に浮かぶ表情はない。
ただ空白だけがあるその顔で、オラクルは傍らに立つオラトリオを見上げた。
「おかえり」
つぶやく言葉は、いつもどおりの。
空白の感情の上を、滑っていく虚しい言葉。
「…侵入者は、追い払った。もう大丈夫だ」
わかっているであろうことを、あえて言葉にして伝える。
オラクルはそよとも表情を動かさずに、オラトリオの言葉を受け取った。
「うん。ありがとう」
「…っ」
小さく小さくうずくまったまま、オラクルは微動だにせずにつぶやく。
オラトリオは握った杖を、だん、と基盤に突き刺した。
「確かに……っ!遅くなったのぁ、俺が悪かった!待たせたのは、悪かったよ!だけど、俺は必ずおまえのアラートに応えるんだ。おまえを救けに来るんだぞ!それが俺だ、そのための俺だ!なのにどうして、システムダウンなんてせずにおれなかったんだよ!どうして信じていられなかったんだ!!」
怒鳴り声に、オラクルは微動だにしなかった。相変わらず表情は空白で、なにもかもの情報を遮断してしまったままだ。
だが、その身に纏う雑音色が、かすかに瞬く。
混乱を示す、汚い色で。
「信じていた……ORATORIOは、必ず来ると。来て、侵入者を灼き掃うと。電脳最強の守護者。<ORACLE>の守護者……<ORACLE>を守る鉄壁。信じていた。来ると。侵入者を排除すると」
抑揚のない声が、混乱を淡々と並べる。
そこまで語って、オラクルの顔が初めて歪んだ。
これまで、決して見せたことのない、憎悪と嫌悪、そして屈辱と恥辱に。
「信じていた。信じていた。信じていた。信じていた。信じていた。信じていた。信じていた。信じていた。けれど耐えられなかった。<私>の中を探られる。<私>の中を赦しも得ずに闊歩するものがいる。<私>が守るデータを、汚い手で触れ、閲覧し、あまつさえ持ち出そうとするものがいる!<私>の中に!<私>の中に!!」
「オラクル」
噴出する、激情。
普段、胸の奥に押し隠されて、感覚を繋げているオラトリオにさえ伝わることのない、積み重なった怨讐。
「ORATORIOを待っていた。来るとわかっていた。知っていた。感じていた。疑いもするわけがない。それがORATORIOだ。<ORACLE>の誇る最強の守護者だ。待っていた、わかっていた、知っていた、感じていた。けれど」
ひび割れた声が、空間を揺らす。
オラトリオは感覚を乱されて、思わず杖に縋った。
<ORACLE>すべてが、揺れている。オラクルの、管理人の憤激に、憤慨に、憤怒に。
空間統括者たる、オラクルの乱れる感情のままに。
「…っ」
眩暈がする。これ以上、この嵐のただなかにいては、壊れてしまう。
理解していると思っていた。
オラクルは、<ORACLE>の空間統括者だ。彼が望むままに空間は操られ、居心地を整えられる。
訪れれば、いつでも歓迎される空気があった。
少しでもくつろげるよう、配慮されている雰囲気があった。
けれど、それはあまりに常態で、揺るがなくて、落ち着いていて。
思わず失念するほど、オラクルは常に感情を平静に保っていたのだ。
もちろん、彼に与えられた感情は微細なもので、大きく揺らぐことを知らないせいもある。飼い犬の首輪のように、常に掛けられた思考統制のせいもある。
それでも、それだけではない努力で、オラクルは感情を制御していた。
自分の感情の乱れがそのまま、空間統括に及ぼす影響を熟知したうえで。
「…っオラクル」
掻き消されそうな危機感に晒されて、しかし、オラトリオは空間から離脱しようとはしなかった。
必死で耐えて、懸命にオラクルへと手を伸ばす。
癒しきれない大きな傷を、こころに抱えた相棒へ。
自分の抱える二律背反など、かわいいものだと思うような、致命的な傷を負っている片割れへ。
それをないように振る舞って、決して気がつかせなかった、甘やかしたがりでこころやさしい半身へ。
「オラクル」
伸ばした手が、ローブを掠る。かすかなそれを手繰り寄せて、オラトリオはオラクルのからだを胸の中に抱きこんだ。
同じ骨格なのに、頼りない。
どこまでも細く、脆弱だ。
彼には闘う力が与えられなかった。
闘う力も与えられないままに、守るものだけ与えられた。
貴重な宝だけ預けて、それを絶対と考えるように仕向けられて、そのうえで、身を守る術を与えられなかった。
オラトリオが生まれるまで、何度、蹂躙されたことか。
何度、強奪され、欺かれ、叩きのめされてきたことか。
与えられない力のために、何度、打ちのめされたことか。
それでも与えられた絶対命令ゆえに、どれほど苦しんだことか。
「悪かった」
今度は、こころから言って、オラトリオはオラクルをきつく抱きしめた。
どうして信じてくれなかったのか、と責めることは容易い。
待ってもらえずにシステムダウンなどされた衝撃は、オラトリオの矜持を盛大に傷つけた。
責める気持ちと、赦せない気持ちと、苛立ちと。
労わってあげてください、と懇願された。
どうか、ご寛恕ください、と。
オラトリオに嘆願した彼らは、オラクルのこの傷を知っていたのだろう。
吹き荒れていた嵐が止む。
胸の中のオラクルが、小さく、ちいさく、ちいさく、つぶやいた。
「耐えられなかった。私は弱い」
そんなことはない。
オラトリオのこころは叫ぶ。
こんな傷を抱えていながら、これまでずっと、自分のことを支えてくれた。そんなおまえが弱いわけがない。
だが、今、オラトリオは言葉にして、それを否定はしなかった。
ただ、頷く。
「そうだ。おまえは弱い」
囁いて、頼りないからだを抱く腕に力を込めた。
「だから、俺がいる。おまえの刃となり、盾となる俺が。闘う力を与えられた、俺が」
言葉にして、自分でその意味を噛みしめた。
空間を管理統括するものに必要なのは、訪れるものへの敬愛と慈しみだ。
だから、彼には闘う力が与えられなかった。
力を与えられれば、振るわなければならない。振るうためには、計らなければならない。計るためには、敬愛の精神など邪魔なだけだ。
だから分けた。
愛するものと、計るもの。
受け入れるものと、弾くものを。
「俺は必ず『おまえ』を守る、オラクル。なにものからも。電脳最強の冠のためではなく、矜持からでもなく」
真摯に誓約して、オラトリオは低く這う声で宣誓した。
「俺に任せろ。必ずこのままでは済まさない」
「…オラトリオ」
胸の中で、ようやくやわらかい声が応える。
凭れてくるからだが、解けて収縮し、密やかに拡散して消える。
「オラトリオ」
信頼を込めて囁かれる声だけが残って、暗闇が蠢き出す。
再構成。
<ORACLE>内部であること以外は、どことも不明な基盤の上に立つオラトリオの存在を脅かさぬよう、細心の注意を払って、一度は闇に呑まれた空間が構成され直す。
目まぐるしく開かれていく空間を目を細めて見つめ、オラトリオはじっと待った。
ややして、唐突に自分が立っている場所を認識する。
どこまでもやさしい片割れは、オラトリオのいた場所をシフトさせ、いつもの執務室へと置いてくれた。
直前までの状態が嘘のような、まるきりいつもどおりの執務室。
光り輝き、穏やかに客を迎える、<ORACLE>管理人の在所。
だが、そこに今、主人の姿はない。
今はまだ傷が深く、応対人格を出現させられるほどには回復していないのだ。
「…」
胸の中に抱いた頼りない感覚を思い出しながら、オラトリオは杖を握り直した。
誓った言葉は嘘ではない。
決してこのままでは済まさない。
<ORACLE>を傷つけた。――オラクルを、傷つけた。
オラトリオの半身を。片割れを。相棒を。
どこまでもやさしく愛情深い、彼を。
その代価を支払わせずして、この胸は治まらない。
「…また、来るからな」
不在の主に言い残して、オラトリオは図書館を後にした。
彼が回復するまで、この胸の中にいて欲しかった。この胸の中で、安らぎを取り戻してほしかった。
掠めた思いはかすか過ぎて、掴むこともできない。