無意識に手を伸ばし、机の上を探る。なにもない空間を白い手袋が虚しく彷徨い、はたと気づいて小さく舌打ちが漏れる。

かさりと胸を逆撫でる一瞬の激情。

驚く間に打ち消されて、しかし熾火のように積み重ねられていく不機嫌。

Episode00-鳥啼く声す-01

「理由はわかりませんの?」

やわらかな弧を描く眉をひっそりと品良くしかめて、エモーションが訊く。

空間の無重力を楽しむ彼女は、オラクルの目の前でふわふわと斜めに浮かんでいる。一方のオラクルとて、人のことを言うまでもなく、ぼんやりと空間に浮かんでいるのだが。

<ORACLE>をCG化して、見た目こそ現実空間を模してはいるものの、基本は電脳空間。重力も、天地左右の概念もオラクルやエモーションといった電脳生活者には馴染みが薄いから、すぐにリアルさを無視した行動に出る。

「見当はついているんだ」

エモーションの問いに答えながら、オラクルは小さく肩を落とした。

CGに沿わせてからだを起こし、床面に設定した場所に降り立つ。

オラクルにとっては意味のない行為。

床が壁でも、壁が床でも、それこそ天井と床と壁の境目も。

エモーションにとっても意味がないから、彼女は床面に降り立つことはない。ただ、不思議そうにオラクルを見つめる。

「理由をお伺いしても?」

悄然と項垂れたオラクルに、ただ控えめに訊く彼女は見た目のパンクさに似合わず礼儀正しく、聡明で理知的だ。

起動してからこちら、エモーションはなにかと気を遣ってオラクルのところへ遊びに来てくれる。

他愛ない話をしたり、愚痴を聞いたり、相談に乗ったり。

こと精神面に関して、自分がそれほど大きな負債を抱えこんでいないのは、彼女と、彼女の過保護な兄のおかげだとオラクルは分析している。

そう、自分には、頼れる相手がいる。

「…ストレスだと思う」

「彼」には、いない。いや、いるのかもしれないが、彼自身のプログラム上の設定ゆえに、おおっぴらに他人に甘えるを良しとしないのだ。

昨日の敵は今日の友、というが、彼にとってそれは反対だ。

昨日の友は、今日の敵。かもしれない。

常に警戒し、疑い、探る。

それが彼に与えられた職責。

「ここと現実空間との差異が大きくて、演算に齟齬が生じているみたいなんだ。その齟齬に気がつくと、苛立つらしい」

「まあ」

ぱっちりした瞳を見開き、エモーションは空間を見渡した。

「図書館」を模したという、<ORACLE>のCGは彼女がこれまで見たどんなものより真に迫っていて、現実空間そのものに見える。空間そのものが持つ質感すら作りこまれていて、自分の居場所を錯覚しそうになることすらあるのに。

「これでも足りませんの?」

責めるつもりもなく、ただ感嘆してつぶやいたエモーションの言葉に、オラクルが寂しげな笑顔を浮かべた。

「私もできるだけ勉強したつもりだけどね。机上の空論だよ。どのみち私は外を知らないし、知ることもない。あれやこれやと作りこんでも、実際に知っている側からしたら、やっぱり作り物でしかないんだ」

「オラクル様」

自嘲するというより、淡々と事象を確認しただけのオラクルの言葉に、エモーションはそっと眉をひそめる。

難しい問題ではある。

どちらが悪いということではないからだ。強いて言うなら、そんなふうに造った人間が悪いと言おうか。

どのみち、犯人捜しに意味はない。問題は解決しないからだ。今さら彼らをつくり変えてくれと言う気はさらさらないし、だとしたら。

残念ながら、この問題でエモーションにできる助言は少ない。彼女の頼りになる兄とて、大したことはできないだろう。なんといっても、彼らは電脳空間から出たことがないのだから。

だが、それを逆手に取って強みとすることもできる。

「ならば、オラクル様。いっそ、オラトリオ様にご協力願ってはいかが?」

「…それは」

ふわふわ浮くエモーションが、軽い動きでオラクルの前に立つ。背の高さに激しく差のあるふたりだが、飛んでいる身には関係ない。当然のごとく、オラクルと顔の位置を合わせた。

「だめだよ。オラトリオはこの問題に関してひどく繊細なんだ。私が下手なことを言ったら、ますます依怙地になって」

「言わなければいいんですのよ」

優しく微笑んで、エモーションはオラクルと額を合わせた。そっと手を取り、胸に抱く。

「なにも言う必要なんてありませんでしょう、お二方なら。オラクル様が、オラトリオ様の不機嫌を感じ取るのはどこで、どうやって?」

「…あ」

気づいて、オラクルが瞳を見張る。雑音色の瞳が、忙しなく色を変え、内心の動揺を表した。風のない空間で、長いローブがざわめく。

「でも、そんなこと…して、いいのかな」

エモーションの胸に抱かれた手には、温もりが伝わることはない。肌の滑らかさも、肉のやわらかさも、その質感も、なにも。

だが、伝わってくる思いがある。

ここが電脳空間であるゆえに。

困惑し、戸惑うオラクルに、エモーションは晴れやかに微笑んだ。

「いいに決まっております。ええ、このわたくし、A-E<EMOTION>ELEMENTAL/ELECTRO‐ELECTRAが保証いたしますわ。頑固なオラトリオ様には、それくらいなさって大丈夫」

「…エモーション」

ずっと沈んでいたオラクルの顔が、わずかに明るくなる。根拠のない保証だが、背中を押すには十分。

エモーションはオラクルの手からからだへと腕を伸ばし、自分よりはるかに大きな弟を抱きしめた。

「もし怒られても、大丈夫。オラクル様がオラトリオ様を感じるように、オラトリオ様だってオラクル様を感じるはずですもの。きっとわかってくださいますから」