会議中だった。

もっと言えば、まさに佳境に入らんとしていた。

とても簡単に抜け出せる状況ではない。

Episode00-色は匂へと-02

だからといって、手を拱いていたわけではない。

それこそ、冗談でも比喩でもなんでもなく、一瞬の間に百通りものパターンを検討し、検証し、そして最善ではないが少なくとも次善の策を取って、会議室から抜け出した。

だが、抜け出せばそれでいいわけではなかった。

電脳空間にダイブすれば、このからだはお留守になる。ほんの短時間といえど、まったくの無防備になるからだを防衛する方法を考え、場所を探し、ついでにそこはネットと繋げられて、機密を守れる場所でなければならなかった。

頭の中で、甲高く鳴り響くアラート。

相棒が上げる悲鳴。

思考を拡散させるそれらを宥めながら、オラトリオはすべての懸案を至急迅速に片づけ、ダイブの準備を整えた。

アラートが途切れたのは、まさにダイブしようとした瞬間だった。

アラートだけではない。

常にどこか片隅に感じ続けていた、相棒の存在が途切れた。

覚えがあった。

大物ハッカーなどを追うとき、万が一を考えて<ORACLE>との回線を一時的に切ったとき。

こんな、こころ許なく、足元が崩れていくような感覚を感じた。

どうして回線が切られる?

それも、こうも完全に。

逸るこころを堪えてダイブした電脳空間。

いつも威容を見せつけていた、白亜の宮殿は姿を消していた。

システムダウン。

言葉だけで聞いていたその現象が、目の前に展開されていた。

***

幻の羽が降る。

本来は形なき光がその形態を取るのは、主がそれを好むゆえだ。

薄紅の羽がはらりと降って、すぐに渦を巻き、そこに主の姿をつくりだす。

「オラトリオ」

呼ぶ声が、常になく硬い。

そもそも、この最古参のロボットプログラムは、滅多なことではオラトリオの名前を呼ばない。

ひよっこ、未熟者、半人前…。

一人前ではないということを示す語彙がこれほどあるのかというほど多彩に、罵倒される。

それが常態。

だから、こうして名前を呼ばれる今は、異常。

「どうしたんすか、師匠?」

わかっていて、明るく返す。

オラトリオの背後には、人類の叡智を守る白亜の宮殿、電脳図書館<ORACLE>がいつものようにそびえ立っている。

ほんの数瞬前まで、そこには暗闇が在った。

侵入者に怒り狂った管理人が、データを盗られるくらいなら、とシステム全体を落としてしまったのだ。

怒り狂う。

そう、彼は怯えただけで、システムダウンしているわけではない。

そこには、怒りがある。

狂うほどの、憤怒が。

闘う術を持たない自分に、付け入って好き勝手する卑劣漢に、彼は憤激している。

「お説教ですかい?」

オラトリオの声は穏やかで、明るかった。

あまりに、穏やかで波もなく、無為に明るかった。

「……だからおまえは未熟者だと言うんじゃい」

小袖を払い、つかつかと歩いて<ORACLE>の門を潜ったコードは、自分より遥かに大きなオラトリオを睥睨した。

鋭い眼光は、だが、溢れるような愛情を隠しきれずに、オラトリオの背後にそびえる白亜の宮殿へと流れる。

喪った光を取り戻して、淡くやわらかに、確かに知の暗闇を照らす電脳図書館を。

そこに住まう、囚われの管理人を。

「オラトリオ」

呼ぶ声は、鞭打つ強さで。

静かに佇む白亜の宮殿を見つめたまま、今となっては最古参の冠を戴く彼は口を開く。

「おまえは未熟だ。ゆえに、学習しろ。弛まず、怠らず。その限りに於いて、俺は四の五の言わん。もはやそんな時節も過ぎ去ったはずだ。違うか」

鞭打つ言葉に、オラトリオは曖昧に笑う。

まだ稼働したばかりだ。

それでも確かに、だれかからのお説教を頂く時期は過ぎた。

お説教してくれるだれかに、依存する時期は、もう終わったのだ。

「そんなこと言いながら」

オラトリオは軽く杖を振る。

「師匠はやっぱり、説教してますね。説教されたがるなって」

「…」

指摘に、コードはまずいものを飲みこむ顔で黙った。

決して素直になることのない表情が、きりりと尖って生意気な後輩を睨み上げる。

オラトリオは杖で肩を叩き、電脳を覆う暗闇を見上げた。

「甘いっすよねえ」

「…」

沈黙だけが返る。

いつもなら、蹴りの二、三発入っているところだ。

だが、オラトリオの言葉の指す先が読めないほど、鈍いひとではない。こころを踏みつけにして、にじって平然としていられるひとでもない。

ほんとうは、だれよりもこころの機微に敏いからこそ。

だれよりも、繊細なこころを持つからこそ。

彼はこうして、庇護すると決めたものの大事には、身を惜しむことなく飛び回る。

「…無茶をすれば、泣くことになるのはあいつだぞ」

ややして、苦く吐き出したコードに、オラトリオは無邪気に笑った。

少なくとも、表面的には無邪気に見える笑顔をつくった。

「俺があいつを泣かす俺が、あいつを、泣かせる、と?」

一言ひとこと、区切って発される言葉は、抉るように憤りに満ちている。

「俺が。俺が?」

「もういい。わかった!」

張りついた笑顔でくり返すプログラムに、コードは軽く悲鳴を上げた。

鉄拳制裁に乗り出さないのは、いくらなんでもこのプログラムが傷つき過ぎているからだ。

攻撃するもの、反撃するもの、闘うものとしてつくっておきながら、与えられた精神があまりに繊細で、脆弱で、常に自損の危険と隣り合わせでようやく立っている『電脳最強の守護者』。

人間のこころを鍛える方法なら研究もされているが、ロボット心理学はまだ起こったばかりの未熟な学問だ。おそらくこれから、オラトリオやカルマといった、今いるロボットたちを踏み台にして築き上げられていくだろう、未知の分野。

そう、オラトリオは踏み台にされていくしかない。

生き残るためには、研究の成果を活かされて甘やかされる、後世のロボットたちには想像もつかない、苦しみと辛さを乗り越えなければならない。

歩む先は道なき道。

拓いて、拡げていくことが、彼に課されたもうひとつの使命。

「…無茶をするな。おまえは冷静さを欠いている」

「そうでしょうね」

仕方なく、コードなりに直截に、心配している、と告げると、オラトリオはあっさり頷いた。

「相棒を傷つけられて、辱められて、それでも冷静さを保てるほど、俺は悟ってませんからね」

「…」

選ぶ言葉が、おかしい。

顔をしかめるコードに、オラトリオはどこまでも穏やかな表情を向ける。

怒りも閃かない、異常なほどに落ち着いた表情。

「でも、人間はどうでしょうね俺が、ロボットが、こんなに怒るんだってことを、わかるでしょうかね理解できますか納得し、共感し、受け入れますか?」

笑顔が、淡々と告げる。

どこまでも、透徹とした、人間が理想とした隷属するパートナーとしての笑顔が。

「無理でしょう。彼らにはわからない。理解できない。だから、なかったことにされます。ないものが起こるわけがない。ないものが為すわけがない。ゆえに、俺が多少の無茶をしても、彼らには突き止められない。俺にそんなことをするのは不可能だから、最初から俺を範疇から外して考える。掠めたとしても、恐怖ゆえに否定し、恐怖ゆえに否定されたものだから、二度と議題に上がらない」

オラトリオの笑顔が、広がっていく。

闇色に塗り潰され、空間に溶けて、掻き消すようにその存在を失う。

「愚かの一言だ」

つぶやきが残って、オラトリオは姿を消した。

師匠と呼ぶコードへの儀礼のために保っていたCGを消して、電脳本来の姿、影の存在へと戻ったのだ。

巨大なデータが<ORACLE>から出ていくのをかすかに感じて、残されたコードはため息をついた。

全身を圧搾していく、怒り。

職分以上の、なにかひどい執念を感じさせる。

<ORACLE>を害されたという以上に、なにがあっただろう。

少なくとも、『オラクル』がシステムダウンを起こしたがために、データが盗まれるには至らなかった。

たとえ盗まれたとしても、オラトリオの到着時間から考えて、侵入者が引き上げきる前にはデータを取り戻し、相手を破砕するに至っていたはずだ。

「…どこまで、世話が焼けるのだ。だから、未だに放っとけんのだ!」

苛立たしく叫んで、コードは上方へと顔を向けた。

「頼んだぞ」

そこだけ、やわらかな声音で言って、データをまとめ直す。

高速移動用に圧縮し、正体がばれぬように擬装して。

薄紅の羽が渦巻き、駆け抜けた後に、はらりと緑の葉が散る。

震えて光りながら形作られた姿は、たおやかな少女のもの。

長い髪をなびかせ、少女は呆れたように門の外を見やった。

「お兄様のことまで、とやかく言いたくはありませんけれど……とにかく、男の方って、ときどきどうして、ああもがさつで落ち着きがないんでしょうそれに、これは特に言えることですけれど……」

少女の足が軽やかに基盤を蹴り、光が散る。

「ごく頻繁に、順番をお間違えになりますわ。お兄様ですら!」

赦されたアクセスコードを示し、少女――エモーションは、姿を取り戻しても固く閉ざされたままの扉にそっと触れた。

「今はオラクル様のことが最優先でしょう。仇をお取りになりたいなら、そのあとにご存分になさればよろしいのよ!」

憤然とつぶやく前で、扉が開いていく。

エモーションは慈母のごとき笑みを浮かべると、図書館の内部へと足を踏み入れた。

「オラクル様。あとでオラトリオ様には、よくと言って聞かせますからね。今度までは、エルで我慢なさって。ええ、なんです、『電脳最強の守護者』ですって?」

軽やかに進み、エモーションは明るく罵倒する。

「たかがちょっぴりオラクル様がかくれんぼなさったくらいで、音を上げて逃げ出すような方に、そのような冠は大げさ過ぎるというものです。返却です。返還です。返納です。仇を取ればいいだなんて、そんな大雑把な守護の仕方、エルは絶対に認めませんからね!」

宣言するエモーションの前に、執務室の扉が現れ、自然と開く。

「…そう言わないでくれ。彼は、ほんとに、私にとってかけがえのない存在なんだ」

姿もなく応えた声に、エモーションは微笑んだ。基盤を蹴って軽やかに飛び上がり、部屋を一望する。

彼が隠れているところなど、いつも同じだ。それでもこうやって探すふりをするのは、ひとつの儀式のようなもの。

しばしそうしていて、エモーションはやがて、その笑顔をさらに明るく輝かせる。

「見つけましてよ、オラクル様」

降り立った先は、管理人がいつも座しているカウンターの内側。しゃがみこんで、カウンターの下を覗きこむと、たおやかな手を伸ばした。

「ほら、オラクル様」

伸ばされた手に、応えはない。

だが、エモーションは辛抱強く伸ばし続け、やがてその手に、小さな手が重なった。

すかさず掴むと引っ張り出し、胸に抱きこんで、エモーションは莞爾と微笑む。

「だって勿体ないですわ。こんなにお可愛らしいのに」

「…どっちかっていうと、呆れられると思う」

エモーションの胸の中に抱きくるめられて、鮮やかな色が瞬く。

小柄な自分の胸の中に収まってしまう彼をやさしく抱きしめて、エモーションは力強く宣言した。

「呆れるなら、守護者失格です。認めません。ええ、やってられるかなんて、一言でも漏らしてご覧なさい。もう一生、オラクル様には会わせて差し上げませんから!」

「…」

それ、私にとっても拷問じゃないかな?

疑問はあっても口に出せず、小さな彼は拳を固めるエモーションの胸に顔を埋めた。