瞬きのたびに、涙が散る。
滂沱と流れる涙は、なにも生まず、なにも変えず、なにも救わない。
無為に流される、意味を与えられることのない機能。
Episode00-色は匂へと-09
「………それで、これ、どうやったら止まるんだ?」
「んー?」
ややして訊いたオラクルの声は、甘さはそのままに、かん高さを失って大人の落ち着きを取り戻していた。
すっかり大きくなって、オラトリオのからだからこぼれるオラクルを抱いたまま、オラトリオはおざなりな唸り声を返す。
もう少し、抱いていたっていいはずだ――相変わらず荷重を計算しないオラクルは、たとえ元の大きさに戻ったところで、幼児のときと変わらない重さで、負担にならない。
「オラトリオ」
応えないオラトリオに、オラクルが焦れた声を上げる。
プログラムが泣くことに、意味などない――意味などなくても、オラクルはこうして再び、トラウマを封印して常態を取り戻した。
なにひとつとして解決しなくても、その場凌ぎにはなった。
だから、いい。
無為であり、無意味であっても――
いい、という言葉で、括る。
そうやって結論して、オラトリオはオラクルの肩に顔を埋める。
慰めたい。
そう告げた、言葉は本心で、けれどまだ足らない。
まだなにかが足らない。
慰めたい――慰めたい、その理由は?
彼の健やかなるを守ることが使命の守護者だからか、相棒だからか、――
「………オラトリオ」
「あー………はいはい」
「っ」
考えに没頭して、意識がちょっとお留守だった。
オラトリオはなにを考えることなく、オラクルの顔へ顔を寄せる。
止まらない涙をこぼし続ける目尻にくちびるをつけて、そこからプログラムに介入。
「ん……」
オラクルが軽く、目を眇める。
あれほど流れていた涙が、止まった。オラトリオのくちびるを追うように。
もう片方にもキスが落ちて、プログラムに介入され、停止。
「使い方はわかるだろ」
「…………ん」
止まった涙の名残を、オラクルは幼い仕種で拭い取る。
少し乱暴なくらいに袖でこするのに、オラトリオはつい、その手を取った。
「なんだ?」
「………いや」
赤くなる、と言おうとして、その可能性がないことに思い至った。オラクルが、その辺りの現象まで理解しているとは思えないし、再現する必然性もない。
現に今、あれほど泣いていたにも関わらず、オラクルの瞼が腫れあがることもない。
「あー………」
なにか言いたいことがあって、けれど、自分で自分がなにを言いたいのかわからない。
言葉を探すオラトリオに首を傾げてから、オラクルはそっと浮かび、膝から下りた。そのまま移動して、ごく自然に距離が開いていく。
離れたところに立ったオラクルは、そこでまた、瞼をこすった。
「んー………」
違和感でも抱いているような仕種に、オラトリオは言葉探しを止めて、身を起こした。
本来ない機能を、無理やり押し込んだ。それも、即席のプログラムだ。
細心の注意は払ったものの、万全とは言い難い。もちろん、<ORATORIO>が<ORACLE>を傷つけるようなことは、決して出来ないのだが。
「オラクル、おかしいとこがあるなら捨てろ、それ!」
「………ん」
呼びかけるオラトリオにおざなりに返して、オラクルは瞼を押さえて瞳を閉じる。
演算を働かせているとき特有の色がローブを走って、オラクルは再び瞳を開いた。
「落ち着いた」
「馴染ませたのか?」
「ああ」
「無理したんじゃねえだろうな?!」
責めるようなオラトリオに、オラクルはぱちぱちと忙しなく瞬きし、それから戸惑うような視線を投げた。
「………おまえが、くれたものだから」
「…」
遠慮がちに、口にされる。身にまとうノイズは、不可解と戸惑いに火花を散らすように煌めいた。
「意味はわからなくても…………おまえが、<私>に、くれたものだから」
「オラクル」
「<ORATORIO>が、<私>にくれたものを、捨てたりはしない」
遠慮がちではあってもきっぱりと言い切って、オラクルは身を翻した。
向かうカウンターの前には、ファイルが山積みになったカートが放置してある。
「………やっぱり」
悄然としてつぶやく。
「つまらないことに時間を取られた…………急がないと」
主が不在だった間に、空白のカウンターの上には新たなファイルが雪崩れを起こしそうな勢いで積み上がっていた。
そうでなくても、カートの上にすら、山積みなのだ。
肩を落としたオラクルは、ソファに座り込んでいるオラトリオを振り返る。いつもと同じ、人類の叡智を預かる電脳図書館<ORACLE>管理人の顔で。
「オラトリオ、そっちの仕事は大丈夫なのか?!おまえ、きちんと片を付けてからこっちに来たんだろうな?!」
きびきび言うオラクルに、オラトリオは顔を歪めた。
仕事なら、放り出してきた。
こちらも惨状だが、おそらくあちらも惨状だ。もしかすると、しばらくはここに顔を出せないかもしれない。
それがわかっていて、こんなのはあまりに無為だ。
きっと、あちらで散々に頭を抱えて、悶え回るだろう。
出来ることなら、時間を巻き戻したい――取り消して、新しい記憶を植え直したい。
そう痛切に願って、出来ないことを呪って、愚かな自分など消えてしまえばいいと地団駄を踏む。
そうなると、今の時点で、予想がつく。
予想がついて、理解していて、わかりきっていて、それでなお。
堪えられないから、自分の愚かさは天井知らずだ。
「つまらないことなんかねえ」
「…オラトリオ?」
吐き捨てたオラトリオを、オラクルが不思議そうに見る。
守護者のまとう不機嫌は、いくらひとの機微に疎くてもわかるはずで、けれど、なにが原因なのかは皆目わからないはずだ。
「つまらないことなんか、ねえんだ、オラクル」
もう一度、くり返す。
きっと、決して、オラクルには届かない。
どんなに言葉を尽くして、叫んで、喚いても――<神>に届くことはない、祈り。
叫んだ自分に、返ってくるだけの、天への刃。
「なにも、つまらないことなんて、なかった」
「オラトリオ」
「無駄にした時間なんてねえ。無益な時間も、無為なことも、なにひとつとしてねえ。たとえおまえに理解出来なくても、たとえおまえには永遠にわからなくても――」
瞳を見張ったままのオラクルを見据える。大きくおおきく、息を吸い込んだ。
吐き出す、呼気と。
「おまえに関わることで、俺につまらないことなんて、ひとっつもねえんだ!!」
「っ!!」
叫びは空間を揺らがせた。
空間統括者はオラクルであって、オラトリオではない。
それでも、叫びに応じて空間は震え、轟いた。
叫びとともにオラトリオは自分のデータをまとめると<ORACLE>から飛び出し、轟々たる影となって電脳空間を駆け去った。
***
残されたオラクルは、呆然と、歪む空間を見つめる。
まとう色だけが、そのこころを表して、激しく明滅をくり返していた。
「オラトリオ」
姿を消した守護者の名を、オラクルはそっと呼ぶ。
「………<ORATORIO>」
その名は、<ORACLE>守護者、絶対にして、電脳最強の冠を被る彼のもの。
生まれたのは、<ORACLE>のため。
生きるのは、<ORACLE>のため。
成し遂げるすべてのことが、<ORACLE>のため。
「………」
オラクルは、そっと瞼を押さえる。
違和感という違和感もなく、けれど確かな存在感を持って、そこにオラトリオの渡したプログラムがある。
泣く機能だと言った。
泣けよ、と。
泣いたら、慰めやすいだろう?
囁いた言葉が甘く、声は蕩けるようだった。
――辛いときは、泣けよ。そしたら………
「ん………」
たぶん、今、辛い。
ひとの機微にも疎いけれど、自分の感情にも疎い。
だから、はっきりとは言い切れないけれど、たぶん、辛いと思う。
オラトリオを怒らせた――の、だと、思うから。
怒らせたくも、怒られたくもなくて、――それでも。
「………」
瞼を押さえて、オラクルはまとう色だけを瞬かせる。
オラトリオの癖を残した、プログラムに介入。オラトリオの名残は消さないように、そこに新たな条件を書き加えた。
しばらく瞳を閉じて、プログラムを自分のからだに馴染ませる。
違和感らしい違和感はないのだが、馴染むという感じでもない。
どうにも、相性のいい機能とは言い難いようだ。おそらく、どうつくり変えても、きっと相性が良くなる気がしない。
けれどこれは、オラトリオがくれたものだ。
オラトリオが――<ORACLE>ではなく、『オラクル』に。
ややして開いた瞳に涙はなく、いつも通りに鮮やかな色が瞬いて踊っていた。
「さて………」
気合いを入れ直して、カウンターに向き直る。
こうしている間にも、次々とファイルが積み重なっていく。突然のことに動揺するあまり、副人格たちに仕事を割り振ることすらしていなかったツケだ。
今頃外では、<ORACLE>の反応が悪いと、苦情が出ているかもしれない。そしてその後始末に追われるのは、オラトリオだ。
そうでなくても忙しいオラトリオだというのに、さらに面倒な仕事の追加が決定だ。
――おまえに関わることで、つまらないことなんか、なにひとつない。
「………」
叫ぶ声が、宿していた感情。
引きつる眼差しは、痛みに耐えるときの――
なにかを怒っていたと思う。
たぶん、怒っていたのだと思うのだ。
なのに、どうしてか、その声も言葉も、ひどく甘く響いて、残った。
消えることもない残響を胸に抱いて、オラクルは手を振る。応えて、いくつもウィンドウが起ち上がる。
滞っていた時間を、正常に。
止まることを赦されない、それが<ORACLE>であり、<ORACLE>管理人であるということ。
高速で展開し出したファイルに囲まれ、オラクルは踊るように<ORACLE>を操った。