案の定だ。
憔悴しきって、オラトリオは項垂れる。
言わなければよかったの大洪水。
なんであんなこと言ったんだの大津波。
仕事が忙しいこと以上に、後悔と後悔と後悔とおもに後悔で、すっかりと削られた。
Episode00-色は匂へと-10
後悔するくらいなら、これを反省に変えて、明日への糧とすればいい。
同じことをくり返さないように、失敗を成功へと導くために――その弛みない学習と成長こそが、オラトリオ。
わかりきっていても、反省に辿りつかない。
ひたすらに、後悔に次ぐ後悔に次ぐ後悔に次ぐ、エンドレスリピート後悔。
抜け出す道が見つからない、いっそきれいなループ。
そしてさらに案の定で、仕事が忙し過ぎてあれ以来、<ORACLE>とまともにコンタクトを取っていない。
定期連絡こそ入れたものの、お互いの時間のなさに後押しされて、見事なまでの素っ気なさ。
無駄口を一言、つぶやく隙すらなかった。
液晶越しのオラクルはいつもと変わらぬ様子で、前回を引きずっているふうではない。
あれから、泣いたか。
少しは、涙を流したか――。
訊く余裕もないし、勇気もない。
なんだか、どうして?と逆に訊かれそうな気がして、そうすると、どうしてもオラクルを泣かせたいのか、と自問自答が始まってしまう。
泣いてもいい境遇だとは思う。
思うが、だからといって泣けと無理強いするのも、違うだろう。
そもそも、泣く意味を理解していなかったオラクルだ。
渡されたプログラムの使いどころがわからないままに、放置している可能性が大。
積み重なって減らす材料もない後悔と、後悔と後悔と後悔と後悔。
だからとりあえず、そこに足を踏み入れてしまった侵入者は、自業自得であっても不幸だった。
「…………派手すぎて、もはや、なにを言う気も起きなくなるとは、こういうことを言うのだな」
「言ってます、師匠」
「しゃかぁしぃわっ!」
浮かぶ白亜の宮殿、人類の叡智を集めた電脳図書館<ORACLE>を背に、オラトリオは長いコートを捌いて、コードが放った蹴りを優雅に避ける。
「っの、生意気になりおって!」
「師匠の鍛え方がいい証拠っすね!」
「減らず口がっ!」
<ORACLE>の外の空間が、火花を散らして揺らいでいる。オラトリオが『派手に』うたった余波で、ネットそのものが乱れているのだ。
「だいたいな、侵入者だけを倒せばいいものを、ネットそのものに効果を波及させる莫迦がどこにおるかっ!力の配分もわからぬ小僧っ子でもあるまいし、やり過ぎなんじゃっ!!」
「やっぱり言ってますね、師匠!!」
「聞け、このひよっこが!!」
コードの放つ攻撃を避けながら、オラトリオは笑う。
侵入者そのものだけではなく、周囲に群がっていたウイルスや、<ORACLE>に到達することの出来ない、未熟な侵入者予備軍まで、共に灼いた。
もちろん、職権の濫用だ。
濫用だが、許されるぎりぎりの範囲は狙っている。
少しばかり力加減が狂ったと言って、すぐさまオラトリオが異常だと決めつけるものはいない。
オラトリオの精神が限界を超えていると気がついているのは、この師匠と――おそらく、電脳の淑女、ふたりくらいだろう。
同じくロボットプログラムである彼らだけが、オラトリオの異常に気がつける。
正気を装って、捨て去った、理性に。
ただ、一言でも弁明が赦されるなら、こう言える――元から、理性などなかった。
<ORACLE>を守ることを第一義とせよ、と命じられ、起動したその瞬間から、理性など得ようはずもないのだ。
存在すべてが、<ORACLE>を守るために――それだけを指向してつくられたなら、理性の介在する隙などない。
とりもなおさず、<ORACLE>を害するものに理性がないのだから、そんなものに従って相手をしていたら、敵うはずもない。
なにからも守り抜くために、まず邪魔になるのが理性。
そして、守る過程で失われていく正気は、必然。
思考は指向し、執行する。<ORACLE>へと、傾注していく――
「もう良いわ!さっさと行け、アレの元へ!!」
コードが叫ぶ。
さっと腕を振って、光り輝く<ORACLE>を指し示した。
「どうせ今頃、心細い思いをしているだろう!行って、慰めてやれ!」
「…」
言われて、オラトリオの顔から表情が消える。
慰める――慰めたい。
その感情の根底にある、支える思い。
未だ、尻尾も掴めないそれが、常に常に身をこころを苛む。
言いたい言葉があるのだと思っても、言葉になる前に逃げてしまう。
ただ、くすぶるもどかしさだけが。
「行かぬか!!」
「っだ!!」
物思いに囚われた一瞬を逃してくれるご老体ではない。
思いきり尻を蹴り上げられて、オラトリオは飛び上がった。
「なにを考えているかは問わぬがな――おまえが考えればよいのは、オラクルを泣かさぬことだけだ!アレが泣くことのないように、それだけを考えて動いておればいいんじゃ!」
「っ」
尻を蹴り上げられたより、よほど痛いところを突かれた。
泣かさないように――そのために、つくられた自分。
<ORACLE>絶対の守護者、電脳最強の冠を与えられた<ORATORIO>。
渡した、泣くためのプログラム。
泣けよと、告げた。
泣いたら、慰めてやるから、と。
――そうではない。
オラトリオがやるべきは、泣く前に、泣く要因を排除することだ。あのやさしく穏やかな管理人が、常にその表情を和やかに笑ませているように………。
「それじゃだめなんだ」
つぶやく。
声は小さく、自分にすら届かない。
「………それじゃ、だめだ…………」
足を踏み出す。沈むように、基盤を歩く。
呑みこまれる、電脳図書館<ORACLE>。
智慧が指し示す、皓々とした光。
ひとびとに叡智の光を投げ続けるオラクルは、その場所で光を掲げたまま、震えている。
光盗人に、奪われる希望に。
怯え震え、そして怒りに。
「オラクル」
執務室に入って声を上げる。
カウンターに、主の姿はない。だが違和感はあって、オラトリオはサーチを掛ける前にカウンターへと歩いて行った。
「…………たでーま、オラクル」
「…っ」
幼児化した管理人が、カウンターの隅で震えていた。
こわかったと、赦せないと。
その顔は興奮に真っ赤に染まっているのに、相変わらず涙をこぼさない。
未だに使いどころがわからないのかと、オラトリオは小さくため息をついた。
「よく耐えたな」
「…っっ」
労いの言葉を掛けながら、カウンターに入る。片隅にうずくまる管理人をつまんで抱き上げて、よしよしと撫でるついでに瞼に触れた。
「……?」
プログラムは、そこにある。
オラトリオが置いた、そのままに――いや、そのまま、ではない。
書き換えられている。
基本的なことは同じだが、オラトリオがつくったものではない命令が、そこに加えられている。
「……オラクル」
呆然として、腕の中で小さくなっているオラクルを見つめた。
色の瞬く、鮮やかな瞳。
泣き濡れれば、さらに鮮やかに煌めく、ノイズカラー。
「どうして」
声が詰まって、曖昧な問いになった。
抱きかかえられてもしがみつくことのないオラクルが、不自由なからだを捻って、不可解そうにオラトリオを見上げる。
「どうして、………こんな、条件」
目尻を撫でると、一瞬、瞳を眇めた。
けれど一瞬で、愛らしいつぶらな瞳は、一途にオラトリオを見上げる。
「だって、意味がない」
甘くかん高い声で、不釣り合いなまでにきっぱりと言い切った。
「おまえがいないのに、泣いても、意味がない」
「オラクル」
「おまえがいないなら、泣く意味なんてない」
「……オラクル」
『泣く』ために、書き加えられた条件。
オラトリオが、触れること――オラトリオが触れて、プログラムを開いて、初めて、流れる涙。
オラトリオが触れない限り、望まない限り、オラクルが泣くことはない――
「泣くって、そういうことじゃ」
「意味がない。見出せない。おまえがいないのに、泣く理由がわからない」
覚束ない声でつぶやくオラトリオに、オラクルは迷いもなく言い切る。躊躇いもなく、悪びれることもなく、恥じ入る様子もなく。
意味がないことなどない。
確かに、プログラムが泣くことは無意味だが――無意味でも、縋ることで見える景色がある。
それは絶望色に塗り潰されていて、けれど、隣り合わせの希望に気がつくための。
「おまえが傍にいないなら、泣く必要なんてない」
「…」
言葉も継げなくなって、オラトリオはただ、小さなちいさな管理人を抱きしめて立ち尽くす。
溢れる感情がある。こぼれ、流れ、それでも消えない――消えることなく、湧き続ける、感情。
すとんと、納得した。
ああ、そうか――<ORATORIO>は→<ORACLE>のために。→<オラクル>のために。
そっと俯いて、頑是ない表情のオラクルの瞼にキスを落とした。目尻を辿ると、後を追うように涙がこぼれる。
もう片方にも同じようにキスを落として、量だけなら号泣しているようなオラクルが出来上がる。
「…ん」
オラクルが小さく頷いて、オラトリオのコートにしがみつく。遠慮がちに離れていたからだが縋りついてきて、やわらかな手が引きつるようにコートを掴んだ。
「…………よしよし」
「子供じゃない」
つぶやいて頭を撫でると、コートに埋まってくぐもった声が、お決まりの文句を返してきた。